《前編》
〜プロローグ〜
「もう引き返さないと」
周囲の木立ちが暗くなり始めたので、コーディエが促した。
「あの亜人共は死んでいました」
「死体が怖いのか?」
サー・ルース・ゴドウィンがごくかすかな笑みを浮かべて訪ねた。
この挑発にコーディエは乗らなかった。もう50を過ぎた老人だから、色々な貴族の息子を見ているのだ。
「死体は死体です」
彼は言った。
「死体に用はありません」
「本当に死んでいたのか?」
ルースはそっと尋ねた。
「証拠は?」
「トムが見ました」
コーディエは言った。
「死んでいると彼が言うなら、それが立派な証拠だと思いますが」
遅かれ早かれ二人の口論に引きずり込まれると、トムは観念していた。
なるべくなら遅いほうが良いと思っていたのだが、
「死人は歌を歌わないと、おふくろに教わりました」
彼は口を挟んだ。
「俺の乳母も同じことを言っていたぞ、トム」
ルースは答えた。
「女の胸を吸いながら聞いたことは、どんなことであっても決して信じてはいけない。死人からでさえも学ぶべきことはある」
彼の声が谺した。
その声は黄昏時の森の中で喋るにしては大きすぎた。
「これから長いこと馬に乗らねばなりません」
コーディエは指摘した。
「8日間もです。もしかしたら9日間かもしれません。そして、もう日が暮れかかっています」
サー・ルース・ゴドウィンは無頓着に空を見やった。
「毎日この時間になれば日が暮れるぞ。暗くなるのが怖いのか、コーディエ?」
コーディエの口元が引き締まり、黒いマントのフードの下から覗く目が、なんとか怒りを押さえつけようとしているのを、トムは見てとった。
コーディエは少年時代から40年間もずっと「冒険者ギルド」の一員として過ごしてきて、他人から軽んじられるのに慣れていなかった。だが、それだけではないようだ。この年配の男の傷ついたプライドの下に、トムは何か他のものを感じ、味わいさえした。恐怖と紙一重の強烈な緊張を。
トムも同じ不安を感じていた。彼が「冒険者」として「壁」の警備についてから、すでに4年半経っていた。初めて「壁」の外に出されたときには、昔聞いた物語のすべてが心の中にどっと蘇り、腸が水になってしまったように感じられたものだった。今となっては笑い話だ。
今では、百回も巡視を経験しているベテランであり、南部の人間が「幽霊の森」と呼ぶ果てしない荒れ地も、彼にとっては最早恐ろしいものではなくなっていた。
ただそれも、今夜までの話だが。
今夜は何かが違っていた。この暗闇には、うなじの毛が逆立つような鋭い棘があった。これまでの9日の間、彼らは馬に乗り、亜人の一団を激しく追って、北に向かい、それから北西に向かい、それからまた北に向かって、「壁」からますます遠ざかってきたのだった。状況は一日また一日と悪化していた。特に今日は最悪だった。北から寒風が唸りをあげて吹きつけ、そのために木々は生き物のようにざわめいた。
終日、トムは何者かに見つめられているように感じた。何か冷たくて、執念深くて、こちらに全く愛情を抱いていないものに。
コーディエも同じように感じていたようだった。
「壁」の安全を保つために命懸けで遠征をするのは、トムにとって本望だった。しかし、その気持ちを指揮官と分かち合うのは困難だった。
特に、ここにいる指揮官とは。
サー・ルース・ゴドウィンは跡取りの人数の多すぎる古い名家ゴドウィン家の末息子だった。年齢は18歳。ハンサムな若者で、灰色の目を持ち、優雅で、ナイフのようにほっそりとした体格だった。
この騎士が巨大な黒い軍馬に跨ると、小柄な馬に跨っているトムやコーディエよりもひときわ大きく見えた。黒い革のブーツに、黒い革のウールのズボンを穿き、黒いモグラの毛皮の手袋をはめ、黒いウールと硬革を重ね着した上に、しなやかな上着のような、黒光りする環鎧を着込んでいた。
サー・ルース・ゴドウィンが誓約をして、「冒険者」の一員になってから半年足らずだったが、準備は前々から万端だったようだ。少なくとも、持ち衣装に関するかぎりは。
とりわけ、マントはこの上なく見事なもので、厚くて、黒くて、実に柔らかな黒貂の毛皮で出来ていた。
「あの黒貂を、やつは間違いなく自分で殺したのだぞ」
コーディエは兵舎で酒を飲みながら言った。
「あの小さな頭を全部自分でネジ切ったらしい。なんとも強い戦士様だ」
みんなが大笑いした。
一杯機嫌で嘲笑した相手から、命令されるのは気持ちも良いものではない。トムは馬上で身震いしながら回想した。コーディエも同じことを感じ取ったに違いなかった。
「アーネスト総帥の命令により、我々はここまで追跡してきました」
コーディエは言った。
「しかし、すでに彼らは死んでいます。もう、我々の邪魔にはなりません。これから辛い騎行が待っています。天候も思わしくありません。もし雪が降れば、帰還に2週間はかかるでしょう。それでも雪なら御の字です。しかし、暴風雪ときたら、若様、経験はおありですか?」
貴族の息子は彼の言葉を聞いていないようだった。彼は持ち前の半ば退屈したような、半ば投げやりな態度で、深まりゆく夕闇を観察していた。
トムはこの騎士とずっと一緒にやってきたので、彼がそういう表情をしているときには、干渉しないほうが良いと悟っていた。
「何を見たのか、もう一度言ってみろ、トム。詳細もすべて、省略せずに」
トムは「冒険者」に入る前は猟師だった。いや、実を言うと密猟者だった。
グランヴィル家の所有する森の中で、グランヴィル家の所有する牡鹿の皮を、手を血まみれにして剥いでいるところを、グランヴィル家の食客たちに捕まったのだ。そして、「冒険者」となって黒衣を纏うか、片手を失うか、どちらかを選べということになったのだった。
トムには、音を立てずに森の中を歩くという、人に真似の出来ない特技があった。そして、彼のそういう才能を、「冒険者ギルド」の黒衣の仲間たちが知るのにそう長くはかからなかった。
「その野営地は2キロ先、あの屋根の向こう側の、川のそばにありました」
トムは言った。
「出来るだけ近寄ってみると、人数は8人で、男も女も居ました。子供の姿はありませんでした。岩のところに差しかけられた屋根が作られていました。今はその上に雪がかなりたくさん積もっていますが、それでも発見することができたんです。火は燃えていなかったけれど、炉はまだはっきりと残っていました。長い間、観察していましたが、誰も動きませんでした。生きている人間は、あんなにじっとしていられません」
「血は流れていたか?」
「いいえ」とトム。
「武器は?」
「剣が数本、弓が2、3丁。1人の男は斧を持っていました。重そうな、両刃の鉄の凶器で、地面に落ちていました。体の横、手のすぐそばに」
「死体の位置関係は覚えているか?」
トムは肩をすくめた。
「2人は座って、岩によりかかっていました。大部分の者は地面に倒れているように見えました」
「あるいは、眠っていたのかもな」
ルースが示唆した。
「倒れていました」
トムが言い張った。
「女が1人、鉄木に登り、半ば枝に隠れていました。見張り役だったのでしょう」
彼は薄笑いした。
「決して見られないように用心しながら接近すると、彼女もまた動いていないことがわかりました」
彼は思わず身震いした。
「寒いのか?」
ルースが尋ねた。
「いくらか」
トムは呟いた。
「この風のせいですよ、若様」
若い騎士は白髪まじりの兵士の方を見た。通り過ぎる木々の、霜の降りた葉がさらさらと音を立て、ルースの軍馬が神経質に体を動かした。
「その連中は、なんで死んだと思う、コーディエ?」
ルースは軽い口調で尋ねて、長い黒貂のマントのひだを直した。
「寒さでしょう」
コーディエはきっぱりと言った。
「前の冬も凍死者はいました。そしてその前の冬にも。私はまだ半分子供でしたがね。雪が10メートル積もったとか、氷まじりの風が来たからビュービュー吹きつけたとか、みんな言いますが、真の敵は寒さなのです。寒さはトムよりも静かに忍びます。最初は、体がガタガタ震え、歯がカチカチ鳴ります。それから足踏みをし、熱い卵酒と、熱い心地よい焚き火の夢を見ます。寒さは燃えるのですよ。本当に。寒さのように燃えるものはありません。しかし、ほんの束の間です。やがて、寒さは人の体内に入り込み、その体を満たし始めます。しばらくすると、人はそれと戦う力を失います。ただ、腰を下ろして眠る方が楽なのです。終わり頃には、なんの苦痛も感じないと言います。まず、力が抜け、眠くなる。そして、何もかも薄れ始める。それから、温かいミルクの海に沈んでいくような気分になる。安らかな気分らしいです」
「たいした雄弁家じゃないか、コーディエ」
ルースは言った。
「お前にそんな才能があったとは夢にも思わなかったぞ」
「自分も寒さに入り込まれたことがあるんですよ、若様」
コーディエはフードを押し戻して、切り株のようになった耳の跡をじっくりとルースに見せた。
「両方の耳と、足の指が3本と、左手の小指が取れてしまいました。これでも軽く済んだのです。私の仲間は当直中に凍死しましたが、見つかったとき、顔に微笑みを浮かべていましたよ」
ルースは肩をすくめた。
「おまえたち、もっと温かい衣装を着るべきだなあ、コーディエ」
コーディエは貴族の息子を睨みつけた。耳の周りの傷跡が激しい怒りのために赤く染まった。学者のオーウェンが耳を切り取った跡だ。
「冬が来れば、衣服がどれだけ体を温めてくれるかわかるでしょう」
彼はフードを引き上げると、小柄な馬に跨ったまま背を丸め、むっつりと口をつぐんだ。
「コーディエが寒さのせいだと言うのなら…」トムが言いかけると
「この一週間、お前は見張りについたか、トム?」
ルースが彼の言葉を遮るように言った。
「はい、つきました」
週12回もの辛い見張りにつかなかったことはない。この男は一体何を言いたいのか。
「それで、「壁」はどんな具合だった?」
「涙を流していましたが」
トムは眉をしかめて言った。それから、この貴族の息子が何を言おうとしているのか合点がいった。
「凍死のはずはないですね。「壁」が涙を流していたとしたら、そのようなことはありえません。「壁」は氷で出来ていますから、涙を流していたということは、それほど寒くなかったということですね」
ルースは頷いた。
「よくわかったな、トム。この一週間に軽い霜が2,3度降りた。そして、ときたまにわか雪がさっと降った。だが、八人の大人を凍死させるほどの寒さではなかったのは確かだ。亜人どもは毛皮と革の服を着ていた。そして、いいか、手近なところに小屋があり、火を起こす手段も持っていたのだぞ」
騎士は独り悦に入った。
「トム、そこに案内しろ。この俺が直々にその死んだ亜人どもを見てやる」
そう言われると、もうどうしようもなかった。命令は下され、服従しなければ体面を汚すことになる。
トムが先頭に立った。彼の毛むくじゃらの馬は下生えの間を注意深く進んでいった。昨夜は軽く雪が降ったので、凍結した雪面のすぐ下に、石や、木の根や、くぼみが潜んでいた。彼の大型の軍馬はイライラし、鼻を鳴らした。軍馬は偵察行には不向きな獣だったが、そんなことを若様に言おうものなら、何をされるかわかったものではなかった。
コーディエは殿を務めた。その老兵は馬の背でぶつぶつと独り言を言っていた。
夕闇が濃くなった。雲のない空は、古い打ち身のような濃い紫色に変わり、それから黒に変わった。星が光り始め、半月が昇った。トムはその光をありがたく思った。
「もっと速く進めるはずだぞ」
月が昇りきると、ルースが言った。
「この馬では無理ですよ」
トムが言った。彼は恐怖のために態度が横柄になっていた。
「先頭に立ってくれるのなら話は別ですけどね」
サー・ルース・ゴドウィンは黙殺した。
どこか森の奥で、狼の遠吠えが聞こえた。
トムは節くれだった古い鉄木の下に馬を寄せて、地面に下りた。
「なぜ止まる?」
ルースが尋ねた。
「この先は歩いていくのが一番です。あの尾根のすぐ向こう側ですから」
ルースはちょっと馬を止め、思案顔で遠くを見つめた。木々の間を冷たい風が微かな音を立てて吹いた。大きな黒貂のマントが、半ば生きているかのように、その背中ではためいていた。
「なにかおかしいぞ、ここは」
コーディエが呟いた。
老人のつぶやきを聞き、若い騎士が見下したような笑いを浮かべた。
「そうか?」
「感じませんか?」
コーディエが尋ねるた。
「暗闇に、耳をそばだててごらんなさい」
トムもそれを感じていた。「冒険者ギルド」に入ってから4年経つが、このような恐怖を感じたことはなかった。一体この予感は何なのだろう?
「風。木々のざわめき。狼が1匹。何がそんなに怖いんだ、コーディエ?」
コーディエが答えずにいると、ルースは優雅に鞍から滑り降り、他の馬から充分に距離を取って、低く垂れている枝に軍馬をしっかりとつなぎ、それから長剣の鞘を払った。その柄の宝石がきらめき、輝く刃に月光が流れ落ちた。城内鍛造の新品だと一目でわかる、素晴らしい武器だった。しかし、それが怒りを込めて振るわれたことは、未だに一度もないのではないか、とトムは思った。
「ここは樹木が密生しています。その剣では動きがとれませんよ、若様。ナイフの方がいい」
トムは警告した。
「指導が必要なら、俺の方から求める」
貴族の息子は言った。
「コーディエ、ここに留まって、馬を守れ」
「では、焚き火が要りますね。火を起こしましょう」
コーディエはそう言いながら、袋から火打ち石を取り出そうとした。
「なんて馬鹿なんだ、じいさん?この森に敵がいるのなら焚き火は絶対に禁物だ」
「焚き火をしていれば近寄らない敵もいます。熊や狼、その他にも…」
ルースの口が一直線になった。
「焚き火はなしだ」
コーディエの顔はフードの影になっていたが、彼が騎士を見つめた時に目がギラギラと輝いていたのが、トムにはわかった。そして一瞬、老人が剣を抜くのではないかと思った。その剣は短くて醜い代物で、柄は汗のために変色し、酷使されて刃こぼれしていたが、たとえコーディエがそれを抜いたとしても、トムは金輪際、騎士さまの命を守ってやろうなどと思わなかっただろう。
結局コーディエはうつむき、「焚き火はなし」と小声で呟いた。
ルースはそれを服従と受け取って、向きを変え、「先に行け」とトムに言った。
トムは茂みを縫って進み、低い尾根に向かって登り始めた。そこの哨兵の木の下に、見晴らしの良い場所があるのを見つけておいたのだった。薄く氷結した雪の下の地面はぬかるみになっていて滑りやすく、岩や隠れた木の根に足を取られた。トムは音を立てずに登っていった。
その背後で、貴族の息子の環鎧の金属が擦れる微かな音と、木々の葉擦れの音が聞こえ、伸びた枝に長剣が絡まったり、素晴らしい黒貂のマントに枝が引っかかったりするたびに、ルースは「このやろう」とか「ちくしょう」とか、呟くのが聞こえた。
尾根の頂上には大きな哨兵の木がちゃんとあった。トムの記憶どおりのところに。一番下の枝は地上からわずか30センチ足らずのところにあった。トムは雪と泥の上に腹這いになって、その下に潜り込み、空っぽの空き地を見下ろした。
胸の中で心臓が止まった。一瞬、呼吸もできなかった。月光がその空き地を照らしていた。炉の灰。雪の積もった差しかけ屋根、大きな岩。半ば凍った小川。何もかもが数時間前と同じだった。
だが、亜人は消えていた。死体がそこからなくなっていた。
「こんちくしょう」
後ろで声がした。
サー・ルース・ゴドウィンが1本の枝を叩き切り、尾根にたどり着いた。そして、長剣を手にして、吹き上がる風にマントを波打たせながら、哨兵の木の横に立った。その高貴な輪郭は、星空を背景にして周囲に浮かび上がっていた。
「伏せてください、若様」
トムは緊張した声で囁いた。
「何かがおかしいです」
ルースは動かなかった。そして、空っぽの空き地を見下ろして、笑った。
「お前の死人どもは野営地を移動したらしいな、トム」
トムは声を失った。言葉を探ったが、出てこなかった。こんなことはありえない。彼の目は、放棄された野営地を何度も行き来し、あの斧の上に止まった。巨大な両刃の戦斧は、前に見た場所にそのまま落ちており、誰かが触った形跡はなかった。価値ある武器にも関わらず…
「立て、トム」
ルースが命じた。
「ここには誰もいない。灌木の下に隠れているなんてみっともないぞ」
トムはしぶしぶ従った。
ルースはあからさまに不満の表情を浮かべて、彼を見やった。
「まだ、ギルドの拠点には戻らんぞ。最初の偵察行で失敗するなんて言語道断だ。なんとしても、見つけるんだ」
ちらりと周囲を見て、「木に登れ。ぐずぐずするな。火を探すんだ」
トムは黙って背を向けた。口論しても始まらない。風が動いている。激しい悪寒が体をまともに貫く。彼は聳え立っている灰緑色の哨兵の木に歩み寄り登り始めた。すぐに手が樹液でベトベトになった。そして、彼の姿が針のような葉の中に隠れた。恐怖が消化できない食べ物のように腸を満たした。名も知れぬ神々に小声で祈り、短刀を抜き、両手を使って登ることができるように、口に咥えた。冷たい鋼の味を口に感じると、心が落ち着いた。
ずっと下の方で、貴族の息子が突然叫び声を上げた。
「誰だ、そこにいるのは?」
トムはその誰何に不安の響きを聞いた。彼は登るのをやめて耳を澄まし、目を凝らした。
そのとき、森が答えを送ってよこした。木の葉のざわめき、氷のように冷たい小川の急流、フクロウやカラスの遠い鳴き声。
しかし、そこに立っていた「異形」は音を立てず、そこにじっと、佇んでいた。