愛しい人へ
生まれてこのかた、痛みなんて感じたことがない。
いつもいつも、不思議だった。なぜ人は、痛いと感じるのだろう。
苦しいならわかる。怖いもわかるし、悲しいもわかる。けれども、『痛み』を感じたことが、僕にはなかった。
幼い頃、でこぼこの道路で転んだ。
地面に強く打った左膝から、どろっと血が出てきて、その赤色に驚いて泣いた。
膝をかばってうずくまる僕を追い越して、どんどん前に歩みを進める人々にびっくりして泣いた。
痛くなかった。けれど、なぜか周囲の大人は僕は痛いのだという。
痛くないのに。
大好きな祖母が言っていた。
『自分が嫌なことは、お友達にやっちゃいけないよ。笑顔でいれば、きっと大丈夫。健康で、元気でいて、また遊びにきてね』
祖母の短くてくるくるな髪の毛は、夏の日差しのなかいつもみたいに不思議な模様を描いていて、僕の心を軽くしてくれた。
うん、わかった。
車のなか、シートベルトを締めた僕は、開いた窓から伸びる祖母の手のひらの暖かさを頭に感じた。
祖母は優しく微笑んでいた。僕の好きな祖母の目は、優しく僕を見つめていた。
気の利かない僕は、『おばあちゃんも元気でね』と、言えなかった。
その年の秋、木枯らしの吹く頃、僕と家族は涙が土の地面に染み込むくらい泣いて、天に霧散していく煙を仰ぎ見た。
胸は痛くなかった。ただただ、苦しかった。
大人になった僕はいま、毎日が怖い。
眠ることが怖い。朝を迎えることが怖い。夜になることが怖い。時間が経つことを、実感することが怖い。
時間はあるのに、日々に追われて、毎日が窒息しそうで、でも空気はあるから生きていられる。
真綿に首を絞められているのか、自分が気道を狭めているのか。はたまた、呼吸を忘れてしまったのか。
夜を迎えるのは怖い。けれども、夜は好きだ。
深夜、誰もいない時間。自分しか存在しない、この時間。月を見ていると心が安らぐ。
暗い夜、淡く青白く輝く月は、その温度を変えない。美しく夜空に飾られて、じっと優しく僕を無視する。
自分のすべきことはわかっているし、してはならないことも理解している。
どうしたらもっと人生がうまくいくのか、わかっている。
けれども、できない。
したくないのではなく、できないのだ。
ーーーある日、出会ってしまった、月のような人。
運命だったのかもしれない。いや、運命などではない。きっとこれは、必然が生み出した偶然。僕が求めていたから巡り会えた、奇跡なのだ。
月が姿を変えるように、あの人も姿を変える。そのひたむきな努力と、泣きたくなるほど好きだと言える人柄を実感して、僕は痛みを取り戻した。
いまならわかる。きっと僕は、痛覚をとうの昔に失っていた。
幼い頃、転ぶことを覚える前から、僕は痛みを感じなくなった。
痛いと思うと痛くなるから、恐怖や不安で塗り替えた。
恐怖や不安は僕の感覚を鈍らせる。鈍らせた世界が、あの頃の僕にはちょうど良かった。
鈍感でいたかった。痛かった自分に、気づきたくなかった。
けれども、僕は月を知り、その裏側を理解してしまった。
月を見つめる僕は、きっと以前の僕とさほど変わらない。
恐怖と不安で塗りつぶされた世界で、月の温度にすがりつく。
けれども、月を見つめるたびに、僕の世界はちょっとだけ鋭くなる。
見たいもの、聞きたいもの、感じたいものしか気づかない幼い頃の僕が、月を見つめる間だけは顔を覗かせる。失ったはずの、失ったと思っていた感覚が戻ってくるのだ。
本当はわかっている。わかっていることは何一つないと『わかっている』
幼い頃の全能感がいかにして劣等感へとすり替わったか、そしてその全能感が人生における気力となりうるということ。理解していることが本当は根底から異なっているかもしれないということや、そもそも全能感なんてものは本当はなくて、わかっているフリをしただけのすっからかんだということ。
鋭敏になった世界は、少し怖い。不安と恐怖に加えて、痛みまである。
けれども僕は、月にすがりついていたい。月の形は変わっても、月の温度は変わらないと信じたいのだ。
いつか月の微笑みを、その優しい眼差しを浴びられるよう、僕は自身の世界を塗り替えたい。