15
「それじゃあ行ってくるわ」
早朝。
門の前で店から借りた着物に身を包んだ姫が時生と一時的な別れの挨拶を交わしていた。
「帰りはいつ頃になりそう?」
「父の機嫌次第だけど遅く見積もって一週間かしら」
「もっとのんびり過ごしてきてもいいんだよ?」
姫の両親は娘である彼女や妹様のことを非常に愛情深く育てていた。
姫が一方的に婚姻を破棄されたときは憤慨し相手の寿命を奪い、その子孫の寿命を短く定めた事件が起こっていたのを時生は知っている。
そんな彼女の両親が何年も姿を見せられなかった姫が再開を果たせるというのだ。
正直な気持ちとしては一ヶ月や半年、一年以上は側に居てやり会えなかった時間を埋めるだけの事をして欲しいのが本音だが彼女は遅くても一週間で帰ってくるという。
「いいのよ。一週間あれば最悪私のほうが追い出されるから」
「……まさかぁ?」
「時生の話を出せば二日か三日目で返される気がするわ」
「いやいや、流石にそれは有り得ない」
「どうかしらね」
姫は悪戯な笑みを浮かべて言うと改めて、「行ってきます」と時生に背を向けて門を開けた。
門の先に見える景色は鬱蒼とした森の中であるが中央には何処までも続く石段が見え、懐かしい道だと時生の古い記憶を刺激する。
「行ってらっしゃい。気を付けて」
「うん」
門を潜り店の敷地から出た姫を扉が閉まり切るまで見送る時生。
バタン、と扉が閉じるその瞬間まで二人は視線を切る事はなかった。
そして門の前に一人ぽつんと立つ時生は大きく伸びを行うと、朝食の準備をすべく店の中へ向けて歩き出す。
「半月、いや一月は戻らんだろうな」
すると、いつの間にか側に立っていた狐鈴が時生の顔を覗くかの様にひょっこりと頭を突き出して現れ、ピコピコと動く耳が微かに時生の頬を掠める。
「聞いてたのか」
「妾は基本的に早起きだからな。因みに時生はどう思う?」
「姫ちゃんはああ言ってたけど、あの御方達の性格を考え得るに半年は行くんじゃないかと思ってる」
「それは考え過ぎだ」
狐鈴は悪戯な笑みを浮かべながら、「両親からの愛情にこってり絞られて来ればいいわ」と続ける真当な意見を述べるので時生は素直に同意して店に戻ろうと歩き出す。
「今から朝食の準備だろう? 手伝う」
「ありがとう。助かる」
「実は皆から不出来な女と思われている節があってな。奴より下に見られるのが癪だから少しばかり料理の腕を披露して意識を改めさせようと思ってるのだ」
「姫ちゃん本人には披露しなくていいの?」
「ハルとエレノアの胃を掌握したのち、徹底的に、完膚無き迄に叩き潰してみせよう」
悪い顔をしながら楽しそうに計画を立てる狐鈴。
邪な企てを考えつつも狐鈴の根を知る時生は、「狐鈴の料理を食べた姫ちゃんの反応が容易に想像つく」と共感。
「時生仕込みの料理を見せつけてやろうではないか」
「みんな驚くだろうなぁ。ハルとか特に」
「ハルは本当に、可愛らしいからのぉ……ふっ、あっはっは!」
何でも料理に関しては狐鈴は自身と同じレベルかそれ以下と勝手に思い込んでいるハルレイン。
共に切磋琢磨していこう。
または、いつか私の料理で貴方に快適な目覚めを与える事を誓いましょう!
なんて肩を組んだものだから狐鈴はハルレインが可愛くて可愛くて仕方が無いらしい。
謎に自信たっぷりな所、愛嬌というより純粋に阿呆な部分が特に刺さるのだという。
掌の上で容易に踊る姿を眺める瞬間が楽しくない訳が無い。
「さて、妾の手で皆の寝ぼけ頭をバッチリ覚まさせてやるかの!」
楽しそうだ。
腕を捲くりゲシゲシと大股で歩く彼女の後ろ姿を眺める時生はふと、
「狐鈴は、いま幸せか?」
何の気無しに頭に浮かんだ言葉を掛けてしまった。
「なんだいきなり」
「何となく気になって」
こんな自分と一緒になって、狐鈴は幸せか。
時生は自分の弱さと愚かさと醜さをよく知っている。
永い時間を生きてきただけに誰よりも不甲斐無いのを自覚しているのだが、狐鈴は不変の好意を寄せてくれている。
はじめは父性や母性といった親愛の感情だと考えていたが、いつからか純粋な愛の感情を向けられている事に気付いた時生と姫。
憎悪に塗れる事があろうとずっと時生と姫を愛し続けている狐鈴に対して、自分が彼女に相応しくあれるのか疑問を感じない訳では無い。
時生は情けなくも、不安であった。
「ふむ……幸せ、か」
狐鈴は振り返ると口元を手で覆い考える仕草をとるが、次の瞬間には眉や僅かに見える口端を愉快そうに歪ませて、
「その不安、いますぐ晴らしてやろうか?」
狐鈴はフワリと重直を感じさせない跳び上がりを見せ一瞬にして時生との距離を無くす。
「なっ!?」
間合いを詰められた驚きで一歩後退るも、狐鈴は出来た隙間を埋める為に一歩詰め寄り時生の顔に自身の顔を近付ける。
「死にかけの命を救われた恩は妾の一生を掛けて返そうとずっと決めておる」
両手を広げて時生を抱えるように手を回す狐鈴の囁きが耳に届いた直後、やわらかな感触と微かな熱が唇に伝わった。
「因みに、恩を抜きにしても時生の事は好いておるから気にするな」
「は、はい……」
男女が逆転したかの様な振る舞いについ呆気にとられた時生は狐鈴に体を支えられながら、ただただ生返事を返すばかり。
「あとは醜女……姫に関してはじっくりと妾好みに身体ごと作り変えるつもりじゃから時生はよくよく力を貸す様に」
「はい……はいっ!?」
「純粋な力では勝てぬが、夜は別だろう?」
協力しようじゃないか、と満面の笑みで語り掛ける狐鈴は時生の体へ回していた腕を外すと何事もなかった様に店に向かって歩き出す。
「愚かな問に悩まされる暇があるのならさっさと朝食作るぞ。時間と一緒に幸せが逃げる」
そう言い残して彼女は店の中へ入っていった。
「困ったな」
外に残された時生は彼女に対して失礼な問を投げ掛けてしまったと頭に手を当て一人反省する。
こんな甲斐性を見せつけられたら、今まで必死になって抑えてきた理性の箍が外れてしまいそうで怖くなってくる。
そんな事を考えていると狐鈴が店の扉からひょっこり頭を出して、
「抜け駆け無しとハルや醜女と決め事をしたので暫くの間はお預けだな。妾も夜這はするなと釘を刺された」
と、言うだけ言ってさっさと店へ戻って行った。
「……困った」
どうやら考えている事が全て見透かされているらしい。
時生は煩悩を払いながら店に戻る。
その後、狐鈴と二人台所で肩を並べて作った朝食を食べたハルレインは美味しさのあまり泣きながら素敵な朝ごはんを食べ、エレノアは狐鈴に料理のコツを教わろうと話し込んでいた。
後日、時生と狐鈴主催のお料理教室が開かれハルレインが大いに絶望するのはまた別の話。