四月馬鹿
朝だ。体が怠い。カーテンから漏れる朝日が眩しく、寝ぼけ眼で窓を見ると早朝特有の少し白ばんだ景色が窓の外に広がっている。今日も寒そうだ。
時計の針は時刻が六時半であることを指している。今日の部活は八時半から。そして家から学校までは一時間弱、十分に間に合う時間だ。
重たい体を起こし軽く伸びをしてからベッドを出る。最近はこの季節でも寒いからと昨年末妹に貰ったやたらとモコモコしてるスリッパを履き廊下に出た。
妹といっても血は繋がっていない。正しくは親戚の子だ。両親がいない俺は親戚に引き取られその親戚も死んだので祖父の仕送りとなけなしのバイト代で日々を過ごしている。
リビングに入ると先ず暖房をつけるのが日課、というか義務だ。これをしないと妹が起きてきたときに凍えるからだ。しかもそれに対して文句を言う。やれ妹を大切にしろだの、やれ管理がなってないだの、挙げ句の果てにだから彼女が出来ないんだと煩く言ってくる。
愚痴を言われるのは嫌なので暖房をつけ朝食の準備に取りかかる。メニューは白米と味噌汁。シンプルだが、定番であるのにはそれなりの理由があるのだろう。と、食材を冷蔵庫から出したあたりで携帯の着信音がなった。
届いたメールは同じ部活の友人――吉野だった。彼は中学からの悪友でクラスも部活もずっと一緒だ。メールの内容は
「今日の部活は八時からだが、まさか忘れていないよな?」
というものだった。
急いで時計を確認する。時刻は六時四十分。事の深刻さに気が付いた俺はいつもよりかなり手早く朝食を作り上げ、着替えもシャツが出、ボタンもかけきれてないだらしない格好で諸々の準備をする。あらかたの用意が終わったところでリビングの扉が音をたてて開いた。
眠たそうに目を擦りながらあくび混じりで出てきたのは年相応にガーリーなパジャマに身を包んだ妹――綾だった。
「急がないと遅れるからもう出るわ。朝は用意してあるから、昼は適当に食べててくれ」
ろくな会話も交わさずにそう告げると自分の食事もままならないまま昨夜準備していた鞄を持ち家を飛び出た。
学校に着くとグラウンドには誰も人はいなかった。ふと時計を見てみると時計は八時丁度になっていた。すると突然、後ろからいきなり目隠しをされ「だーれだ」と、聞き慣れた男の声で聞かれた。俺はその手をゆっくりとどけ声の主である悪友、吉野に向き直った。
「だーれだ。じゃないだろ……なんでまだ始まってないんだ?」
吉野はその言葉を聞いたとたん吹き出したように口元を押さえた。
「お前、やっぱり純粋だよな。嘘だよ、嘘。部活が八時からってのは」
その言葉を言い終わるより先に俺は吉野に掴みかかった。
「騙しやがったな!コイツ!」
俺は昔から嘘が嫌いだった。だから今まで嘘をついたことはない。
『人から嘘をつかれることはあっても決して嘘をつく人間になるな』
母がよく言っていた言葉だ。嘘は人を傷付け不幸にする。そして、時にそれは事態を収束不可能な状態にまで変化させうるのだ。
人を助ける優しい嘘なんてのは所詮偽善者が旗に掲げ、挙って崇拝するシュプレヒコール的な偶像なのだから。
吉野と取っ組み合いになった俺は逆に吉野に投げ飛ばされてしまった。背中を地面にぶつけ一瞬息が止まる。俺が仰向けで苦しんでいると吉野は俺の顔を覗き込んで事も無げにこう言った。
「お前さ、今日は何の日だ?あ?」
今日?確か丁度四月に入ったはずだから……四月一日?
「あっ、まさかお前」
俺のハッとした表情を見て吉野はニヤニヤした面を一層強くし口を開いた。
「エイプリルフールだよ、バーカ」
嘲笑交じりのその台詞はまだ誰も来ていないグラウンドに響き渡った。
あれからほどなくして練習が始まったが俺の怒りは未だ収まっていない。というかそもそもエイプリルフールとか言う日が嫌いだ。一年で唯一嘘が正当化される日。そのせいで一体どれ程の人が傷付き、騙され、怒り、悲しんだだろう。その無数のカタルシスを感じざるを得なかった感情達が自分の中に流れ込んでくる。そんな気分だ。
その後もまた嘘をつかれた。何人くらいに嘘をつかれたか解らない。その中には吉野もいたことは確かだ。だが、嘘をつく度に全員が俺の事を嘲るような目でニヤニヤしている。多種多様な嘘の中でそれだけは皆統一された事実だった。俺はそれに軽蔑と憐れみを込めた目で見つめ返す。すると向こうはバツが悪そうにそさくさと場を去るのだ。そんなやり取りが今日一日で十回は続いた。
部活が終わり、顧問の号令で解散となると皆異口同音に「疲れた」と口にする。各々が午後から遊ぶ約束や昼食を食べに行こうととりとめのない話をするなか、一人荷物をまとめ家に直帰しようとした俺は肩を叩かれた。振り替えると俺を止めたのは部活の一つ上の先輩――三宅先輩だった。否、三宅部長だった。
三宅部長は大会でも上位に名を連ねる実力者でその上端正な容姿にほどよく引き締まった体。しかし試合では荒々しさも見せる。そんな三宅部長に女子生徒はすっかり虜のようだ。聞いた話では他校にもファンがいるそうな。その実力と人望故、新部長に抜擢された凄い人だ。俺達下級生にも丁寧に教えてくれて、自慢の先輩だ。そんな先輩に呼び出されるとは……一体どんな用事だろうか。
連れてこられたのは校舎裏の広葉樹の下。真上からは葉で邪魔になって見えず、横からも少し屈んで茂みに隠れれば広葉樹の作る闇に紛れて近付かないとバレはしない。こんなところに入ってくる輩なんてそうそういない。秘密の話にはうってつけの場だ。
「どうしたんですか部長?こんなところに呼び出して」
「ああ、ちょっとな。伝えときたいことがあって……」
歯切れの悪い返事をすると辺りに自分達以外誰もいないか確認し、耳打ちで俺に用件を伝えてきた。
「実はな、俺部活辞めるんだ」
衝撃の事実。いきなりの事なので頭が理解するのに少し時間はかかったが何とか呑み込めた。
「そんな……なんで?」
「俺、転校するんだ。父親の仕事の都合で。だからこの部活にはいられない」
父親の都合……古典的であり最もシンプルで強力な理由だ。それなら仕方ないだろう。そういう友人が自分にもいた。
でも、なんで俺なんかに話したんだろう?俺の訝しげな表情を見て察したのか俺はお見通しだぞと言わんばかりに
「なんで自分なんかに話してくれるのかって思ってるだろ?」
と聞いてきた。
心を見透かされドキッとしてしまう。その目は獲物を狙う肉食獣のようだ。
「簡単な話さ。俺がいなくなるってことは部長が居なくなるってことだろ?じゃあ新部長が必要ってことになる」
まさかこれは、あるんじゃないか?
「そこで普通なら副部長に頼んだりするんだが、副部長は部長には向いてないんだ。なんと言うか縁の下の力持ち的な?」
こんなことがあり得るなんて。
「そこで、思いきって一年生、まぁすぐに二年生になるか。その新二年生に任せようと思う」
やっぱりそうだ。
「そこで、普段の練習の態度と皆との関わり合いで一番部長としてやっていけそうなお前に時期部長を託したい。やってくれるか?」
来た!来た来た来た!すごいぞ、俺が次期部長?自分でも信じられない。気丈に振る舞ってはいるが内心雀躍したいような気分だ。そんな有頂天になってる俺に部長がまた一つ俺に告げた。
「喜んでるところ悪いけど後もう一つ」
先輩は思い出したかのように拳で手のひらをポンと叩き新しい事実を俺に告げた。
「今のは全部嘘だよ」
……え?嘘って……
「訳が判らないって顔だな。いいだろうもう一度言ってやる。今の話はぜーーんぶ、エイプリルフールの嘘だったんだよ」
部長のその言葉を合図に辺りの茂みから一斉に人が飛び出してきた。よく見ると皆部活の先輩だ。
「見たか、安達。あの時の顔。自分が次期部長になるんだとすっかり思い込んでるんだから」
部長を含めた先輩達は全員同じように腹を抱えて哄笑している。なんだか俺はいたたまれなくなってその場を走り去った。
俺は昔から嘘が嫌いだった。だから今まで嘘をついたことはない。
『人を信じるとはとても素敵なこと。信じるという字が人偏なのは信じることこそが人間として素晴らしいことだから』
母がよく言っていた言葉だ。信じるということは即ち、その人との関係性において嘘が存在しないということであり、それは何よりも美しく優れている。
帰り道、俺の頭の中はあらゆる感情でごった煮されていた。騙された怒り、笑われた恥じらい、信じていた先輩に嘘をつかれた悲しみ、今俺は感情が溢れだしすぎて無感情にまでなっている。
今日は帰って休もう。そう考えていると携帯の着信音が鳴った。今度は電話のようだ。電話の主は今朝俺を騙した吉野だ。
「何の用だ」
少し呆れ気味に応えると俺とはうってかわって焦った様子の吉野は走りながらなのか息も絶え絶えに電話口で用件を伝えた。
「大変だっ!妹がっ……お前の妹が事故でっ……」
俺は心底呆れた。この期に及んでまだそんな事をのたまいやがるか。まだ何か言ってるが聞く気はない。
「いいか?中央病院だからな。絶対に来い――」俺は向こうの用件が言い終わらぬ内に電話切った。それから何度も何度も電話が掛かってくるので携帯の電源を切ってやった。電源を切る直前、携帯の時刻表字が十二時半を表しているのが見えた。
夕方、俺は自室に一人でいた。帰ってから直ぐに自室で眠ってしまった。妹はちゃんと朝の食器を片付けただろうか?今日一日はもう誰とも話したくない。ろくなことが起きないからだ。時刻は十八時半そろそろ夕飯の準備でもしようかと思ったところに家の電話がなった。電話に出てみると相手は中央病院からだった。
聞いたことのない男の声だった。男の人は淡々とはっきりとした口調で「ご家族の方ですか?」と訪ねた。俺が「そうです」と答えると深く溜め息を溢しこう言った。
「綾さんは――――」
俺はリビングに入ると第一に暖房をつけた。この時期は冷えるからな。今日は一人の夕飯の支度をする。メニューはシンプルにしょうが焼き。食材がいつもより余ってる。
いつもより速く料理を作り終え食卓にいつもより少ない食器を並べる。なんだかいつもより机が広く感じる。いつもより静かに「いただきます」を言い、いつもより速くいつもより味気ない食事が終わる。いつもより騒がしい暖房の音が耳障りだ。食器を片付けテレビをつけると15歳の女の子が交通事故で死亡したというニュースが流れた。普段ニュースなど視ないのだがこの時だけは画面から少しも目を逸らすことなくかじりついた。ニュースに映る被害者女性の顔写真は真っ黒に塗りつぶされていた。
俺は暑苦しいリビングの中で目が覚めた。暖房をつけっぱなしで寝てしまったためまだ寒い四月だというのに服は汗でベタついている。いや、もしかしたら暑さのせいでは無いのかもしれない。時計を見ると時刻は十一時丁度を指していた。
重い体を起こしシャワーを浴びようと歩き始める。すると、視界の端に何やら紙切れのような物が写り込んだ。それは食卓の上に朝ご飯に米と味噌汁を入れたお椀と箸と一緒に俺を待っていたかのように出迎えてくれた。震える手で書き置きに書いてある内容をよんだ。
『朝ごはんは美味しかったけど明日からはトーストがいいです。
あと、暖房の設定温度はもう少し下げてほしいです。そこまで寒がりじゃないから。
綾より』
その書き置きを読んだ瞬間、何かがプツンと切れる音がした。俺は導かれるようにその書き置きを持って徐に玄関を出ていった。
着いた先は中央病院。妹がいる……いたはずの病院だ。その病院に一礼して次の場所へ向かった。
着いた先は学校。妹が通うはずだった学校だ。その学校に一礼して次の場所へ向かった。
着いた先は廃ビルの屋上。別に飛び降りようという気はない。ただ何となく星をみたくなったのだ。しかし無情なことに都会のうすら汚れた空には星は殆んど浮かび上がらず何座の何という星か解らない星が三つ、三角形を作るように並んでいる。この内の白い真珠のような星に妹の書き置きを翳す。
「そういえば、今日は一度も妹と会話してないなぁ」
すると、手紙が透けて一度書いて消した文字がうっすら読める。その文字を認識した瞬間俺はすくっと立ち上がって屋上の縁に腰掛けた。
今見えてるビルの看板に掛かったあの商品。以前は違う人気俳優がイメージキャラをしていた。そのタレントは不倫でテレビから消えたっけ。
駅前で街角演説をしてる男がいる。この人、評判よかったけど前に党費使い込みがバレて辞めたんだっけ。
ビルの下に改装中のコンビニがある。あそこ、前に食品偽装で潰れた飲食店があったんだっけ。
街を見ると嘘で塗りかためたものばかりある。怪しいサプリの広告。甘い言葉のセールスマン。浮気相手と本妻が言い争ってる現場。そして、
着信が鳴る。相手は吉野だ。
「お前今何処に居るんだよ!マジで何してんだお前は!このバカ野郎!」
そして、
「別に、家だよ」
「嘘つくな!家には誰も居なかったよ!何処だ!何処にいるん――」
そして、屋上にいることを隠した俺。
もう何が嘘で何が本当か解らない。俺の日常にはこんなにも嘘で溢れていた。けどホントに俺はそれに気づいてなかったのか?
嘘は嫌いだ。それに例外はない。人を助ける優しい嘘なんてないし、嘘は方便にはならない。
だから俺は、自分が嫌いだ。こんな欺瞞にまみれた世界も嫌いだ。いっそのこと全部消えちまえ。そう願っても世界はなにも変わらず今日も嘘をつく。
「ああ、嘘だと言ってくれ」
頬を伝う水滴は少し"塩辛く"、この気温にはそれなりに堪える。
やおら立ち上がった俺は下を見るとカメラを向ける人集りが出来ていた。
「あの中にも嘘があるのかな」
なんて呟きながら天を仰いだ。
時計の時刻は丁度〇時を指していた。
俺は昔から嘘が嫌いだった。だから今まで嘘をついたことはない。
『人を信じるとはとても素敵なこと。信じるという字が人偏なのは信じることこそが人間として素晴らしいことだから』と諭した母は浮気をした父親に逃げられた。
『人から嘘をつかれることはあっても決して嘘をつく人間になるな』と謳った母は「仕事があるから家を出る」といって父親を探しに行った。
これだから嘘は嫌いだ。
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