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モルフェウスの聖域  作者: 彌七猫
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インタールード

「出て行ってしまうの? あなたはまだなにも得ていないのに」

 その言葉で武之内朱子は立ち止まった。いや、覚醒したのかも知れない。はっきりとした意識を取り戻して振り返るとそこに、幼い少女のセヴンスが立っている。

「なんて、チェシャ猫なら訊ねるかしら。でもわたしも賛成よ。その扉を開けてしまったら、あなたはきっとひどい夢を見るわ」

「ひどい夢? ――現実の間違いじゃなくて?」

「あなたにとってはそうかもしれないわ。ねずみの尻尾を追いかけるように、アヤコは自分が曖昧なままここから出て行こうとしたもの。きっと、あなたにはここが不自然な場所に見えるんだわ」

「ここはなんなの?」

「ここはね、夢が見ている夢の中なの」

「夢の中の、夢……?」

 そうよ、とセヴンスは言う。

「アリス・キャロルは夢を見せるんだよ。わたしは七番目だから、あなたのことも連れてくることができたの」

「……ごめん、よくわからないわ」

「ならそのあたりから思い出さなくちゃね」

 セヴンスが朱子の手を取って、扉とは反対のほうへとぐいぐい引っ張っていく。丸テーブルとアンティーク風の椅子に案内され、宙に浮いたティーポットに紅茶を勧められた。朱子は目を疑ったものの、どこかそれが当たり前の光景のようにも思えて、言葉にすることはやめておいた。

「もう一度あえてよかったわ、アヤコ。わたしのことはわかるかしら?」

「わかるって、セヴンスはセヴンスでしょ?」

 そうよ、とセヴンスが微笑む。

「わたしはアリス・セヴンス・キャロル。悪い人に追われているところをあなたに助けてもらったの」

「そんなに悪い人とは思えなかったけど。けっきょく追ってこなかったし」

「いいえ、悪い人よ! わたしが楽しみにして買ったシナモンロールをおもしろがって取り上げるような野蛮人だもの。いい人なわけがないわ」

「ああ、それは悪い人だわ」

「でしょう! あなたならわかってくれると思ったわ。だって三日前もわかってくれたものね」

「三日前?」

「そう。わたしとあなたが出会った日よ」

「それからもう三日? ずっとあなたと一緒にいたってこと?」

「ええ、楽しかったわ。あなたもそうでしょう?」

 セヴンスの言葉に、朱子はどう返せばいいのかわからなくなった。楽しかったか楽しくなかったか、すぐに出てくるはずの答えがまったく口から出てこない。

 思うにこの幼女は生意気で、騒がしくて、朱子とはまったく性格が合わない。十四歳の少女の多感さには持て余す爆弾だ。この短いやりとりで確信に至るほどにそれがわかる。あるいは記憶以外にこの幼女とのやりとりが染みついていて、それを判断基準に据え置いているのか定かではないのだけれど。

 ともあれ朱子は、アリス・セヴンス・キャロルと名乗ったこの幼女について、その名前以外の一切合切を忘れているらしいのだ。

「ごめんなさい、憶えてないわ」

 そう答えたことに、朱子はひどい罪悪感を憶えた。自分の口から出た声を耳で聞いたときに、言いようのない感情が喉と胸のあいだでうごめくのを感じた。

 何故なら、その言葉を聞いたセヴンスの顔を見てしまったからだ。感情を押し殺した顔だった。いっそ見た目どおり駄々をこねてくれればいいのに、セヴンスは努めて表情を動かさないようにしている。目は大きく、輪郭も丸い。いずれ美人になることが約束されているような人形じみた造形美。その美しさが無で塗り固められたときの醜悪さときたら、胸を締め付けられるような衝撃だった。

「そう。……そうよね、仕方のないことだわ」

「ごめんなさい」

「いいの。これはわたしが見た夢なんだわ。あなたを巻き込んでしまったのだから、謝るのはわたしのほうなの。だから――」

 セヴンスはきゅうにうつむいてしまった。

 指通りの良さそうな金糸の髪がぱらぱらと垂れる。その奥にしまい込まれた顔が、きっと泣いているのだということを悟った。すぐに席を立って駆け寄る。小さな膝の上で、握りしめられた拳が震えていた。

「セヴンス?」

 背中に手を回してやると、彼女は嗚咽交じりに謝りはじめた。二度、三度と、止むことなく。

「どうして謝るの? ねえ、セヴンス。わかるように言って」

「アヤコ。わたし、あなたが好きよ。ほんとうに大好きなの。でも真実を知ったら、あなたはきっとわたしを憎むでしょう。それがいま、怖くてしかたない。……でも言わなければいけないの。だって――」

 その先を聞いてはいけない気がした。同時になんとなく理解してもいる。これはエピローグなのだ。すべてが終わったあと、世界が元通りの日常に溶け込んでいけるよう、そんな願いをこめて紡がれる祈り。

 だから終わるのだろう。

 その言葉を聞いたとき、武之内朱子という名の物語が。

「だって、なに?」

「ああ、残酷な人。薔薇の法廷に立たされてわたしは裁かれるのね。神さま、わたしはいま懺悔します。女王にこの首を差し上げます。何故ならわたしは――」


「――わたしは、アヤコを死なせてしまったのだから!」

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