田鴫撃ちの霜兵衛
後に戦国と呼ばれることとなるであろう時代の魁。まだ忍たちの熾烈な争いが本格化する前の頃のことである。
久保田家が統治する小林の国の東方に、ここ数年使われていない街道があった。
険しい山道を貫くこの街道は、古くは本坊家治める隣国甘木と小林をつなぐ要所であったが、数年前から一切の通行が途絶えていた。
戦国の世とはいえ戦を好まぬ久保田家の外交である。同じく事勿れ主義の甘木との交流は戦乱において、特に急成長しつつある霧島の国に対抗する手段として欠かせるものでなく、国交が途絶えたわけではない。
途絶えたわけではないが、その欠かせざる国交を阻むものがあった。
街道のちょうど中ほどあたり、両国の境を分かつ姓峠に、その怪人はふらりと現れた。
最初の被害は甘木から小林へと向かっていた乾物商人の積荷であった。内陸国である小林の国は魚介の類は甘木から干物を仕入れるのが常となっていたのだが、その積荷が奪われた。
命からがら逃げだした商人による山賊現るの報に、当初両国は腰を上げなかった。戦乱のご時世に賊の類は珍しくもなかったのである。
それが二度続き三度続き、ついには武士にまで被害が出るようになるとようやく討伐隊が組まれたのであるが、これがものの見事に返り討ちに。
続き両国合わせて三度の討伐が行われたのだが、その全てが失敗、送り込んだ手勢の実に三分の一が死亡し、生き残った多くも心身に多くの傷を負った。
これでは割に合わぬ、と久保田、本坊ともに断じた。
この街道は確かに両国をつなぐ重要な経路である。しかし唯一のではない。ここが最短の経路であり、最もよく整備されていたためにここ一本を使っていただけであり、遠回りになる道であれば他にもあるのである。
どうせ通ろうとしなければ何をするでもないのである。触らぬ神にあえて触れるより、遠回りの街道を整備しなおすほうがよほどに安上がりであるし、正体不明の訳の分からぬ怪人に構っているくらいならば、早々に国交を回復して周辺諸国の脅威に備えたいというのが両国の正直なところであったのだろう。
そうして数年、噂もいい加減に鎮静し始め、小林の国は以前と同じように、周辺諸国を刺激せぬよう警戒しながらも、領民も飢えることなく何という問題が起こることもなく、極々平凡な生活に戻っていった。
そのままその毎日が続けば、いずれは天下に名乗りを上げんとする山崎家の影に追従し、同じく事勿れ主義の本坊共々これといって重大な役割をこなすでもなく、かといって何かの邪魔になることもなく、強国の間をのらりくらりと漂い、天下取りを他人事のように眺めるそんな未来が待っていた筈だった。
筈だったのだが、文学的表現を用いるのならば、残念ながら歴史はそれを認めなかった。
この後に続く未来、ある一人の忍へとつながる歴史は、久保田が無名の大名で終わることを許さなかった。
戦乱の世にありながら平々凡々と、ともすればこれといった抵抗もなく音沙汰もなく誰も気に掛けることもないままに消えていくかもしれないなどという面白みのない未来とは全く方向性の違う、望んでもいない波乱万丈の面倒くさい事件をわざわざ引っ張ってくる一大忍者軍団を擁し、日々胃の痛みと減りゆく毛髪に精神をすり減らしながら戦乱の大嵐にもまれることとなる未来へと進むことを歴史は決定してしまった。
この重要な分岐は、たった一人の人間によって選ばれた。
選ばれてしまった。
小林の国の民の意志とも、それを支配する久保田家の意志とも、全く関係のないところで、彼らの運命を決定的なまでに決定してしまった。
男の名は百郎太。
姓もなく家もなく、戦国の世にあぶれた有象無象を巻き込んで、ほとんどこの大和の地を半ばまで渡り歩いてやってきた、名もなき集団の長である。
彼こそ小林の国を、久保田家を激しい未来へと巻き込む張本人。
彼の素性や人となりについて一から説明すると大いにページ数を割くこととなるので、ここでは割愛させていただくが、この男が大いに活躍する物語に関しては巻を改めて語ることがあろうと思うのでいずれ来るであろうその時をお待ちいただきたい。
さて、この百郎太率いる名もなき集団は、戦乱の嵐に負けぬ力強い勢力として旗印を上げるべく、身分素性に関わりなく、来歴経歴に関わりなく、人格嗜好に関わりなく、能力のある人間を無造作に集め続けてきた。相手の望むと望まざるとに関わらず。
その色物集団を舌先三寸で言い包め、腕尽くにものを言わせ、金で心を惑わせ、集めに集めたこの男が次に目を付けたのは件の姓峠の怪人であった。
百郎太という一人の男が、姓峠の怪人という噂に耳を傾けた。
ただそれだけのことが、致命的なまでに久保田家の未来を決定してしまった。
小林の国の久保田家にも、また甘木の国にも本坊家にも、他の一切合財にも、何の悪意もなく害意もなく、容赦もなく遠慮もなく、意識することもなく無視することもなく、大人げなく全力で道端の小石を蹴り飛ばすが如く、それら全てを巻き添えに歴史を決した。
その一言はかくのごとくであったという。
「姓峠の怪人、欲しいぞ」
およそこの世で最もはた迷惑な類の要求を突き付けられた男の名は猿手霜兵衛。
かつては狩人としてひっそりと山に籠り獣を狩って暮らしていたところを、よりにもよって百郎太に見つかった不運の男であり、いまやその子供でも言い出さない大人気ない我儘を叶える役を仰せつかった、要するに集団の雑用役であった。
この男が一度口にしてしまった以上、何を言っても無駄であるし、何も言わなくても無駄である。
若くしてすでに、よく言えば悟りきった、悪く言えば魚の死んだような目つきの霜兵衛は、そうして姓峠の土を踏んだのであった。
姓峠は元来景勝地としても名高い、近隣でも有数の美しい峠であった。道は緩やかで、夏も木々の日影がやさしく、人通りも多かった。
今でこそ人通りも絶えて久しいが、それでもかつての往来が納得できる街道である。
その納得できる往来をぱったりと途絶えさせた張本人というのが、姓峠の怪人とあだ名される山賊……であるらしい。
らしいというのは、その話を持ち帰ったものたちが悉く正気を失ったとしか思えぬ言動を繰り返すため、その実態がいかなるものなのか、そもそも一人なのか集団なのかそれさえもわかっていないからである。
ともあれ、まとめれば以下のとおりである。
曰く、それは不死身の化け物であるのだと。
曰く、刀で切っても槍で刺しても死なぬと。
曰く、首を刎ねても腹を裂いても死なぬと。
曰く、矢を射っても火を放っても死なぬと。
死なぬ、死なぬ、死なぬ、死なぬ、死なぬ。
いつしか噂は無責任に飛び回り、際限なく尾ひれを広げていったが、死なぬというその一点だけは最初から変わることのない噂の肝要であった。
そしてそれは実際、討伐から帰ってきた生き残りの口から伝えられた言葉であったから、他の広がりに広がった尾ひれとは真実味が一線を画していた。
どれだけの強者で挑もうと、どれだけの手数で臨もうと、相手は死なず殺せず、こちらばかりが死なされ殺される。
それが真実であるにせよ、真実であるように思えるほどの何かであるにせよ、まともな相手を期待して挑んだ者たちにとってはかなりの衝撃であったろう事はうかがえる。
それこそ、武士が出張るよりも坊主を呼んで祓ってもらった方がよかろうと揶揄されるほどに、馬鹿げた話である。
「尤も………」
その馬鹿げた話を骨の髄から信じ込んで、肝の底から、
「欲しいぞ」
とのたまった頭目のにやつき顔を思い出すたびに、霜兵衛や踵を返したくなる思いでいっぱいになる。
さほどに長くない付き合いながら、いままで似たような勧誘を繰り返させられてきた経験から、この男が楽しそうにしているときは、大概の場合自分にとって好ましからざる状況が訪れるということが目に見えている。
いっそのこと自分の手に負えない本物の化け物でも鬼でも出てくれれば、頼み込んであの男を殺してもらえるのだが………。
そんな物騒な考えがほんのり三度ほど頭を巡ったころ、ようやく姓峠へ到着した。
断崖絶壁、というわけではないが、突き出したように木々を見下ろすここだけがきれいに木が伐られており、麓までを一目で見下ろせる見晴らしの良い峠である。
噂によれば怪人はここに構える茶屋を拠点に、行商や武士を惨殺し血みどろの争いを繰り広げたというのだが……。
(はて……?)
それにしては、随分と小ざっぱりとしている。
茶屋も幟こそ立っていないが今でも営業しているといっても差支えのないほど手入れされており、あたりも乾いた土と青々と茂る下草がさわやかな風にさらされているばかりである。
考えてみればこの街道を人が通らなくなってすでに数年も経っているわけであるから、いつまでも当時のまま血みどろの血なまぐさい死屍累々とした光景ではないだろう。
(ないだろう、が………)
なんというか、やけにのどかな光景である。
ここに拠点を構えているからには、自分の住処を手入れするのはおかしくはないし、死体もすぐそこから蹴落としてしまえば簡単に処理できただろう。
だが霜兵衛の不思議に思ったのはそういう目に見える形跡ではなく、目に見えない、雰囲気のようなものであった。
別に神仏の名を唱えるような人種ではないし、霊だの化けて出るだのを子供のように信じているわけではないが、それでも何度も血なまぐさいことがあった場所というのは、どことなく薄暗い雰囲気を醸し出すものだ。
これは霜兵衛の経験からくる知識であって実際には雰囲気が薄暗いから血なまぐさい争いが起きたということも考えられなくはないが、しかしそれにしたって随分とほのぼのとした景色だ。
たかだか数年で、何人もの人間が斃れた土地がこんなにもさわやかな空気を取り戻すだろうか。それも、
(まだ怪人とやらが住み着いている筈だが……)
その気配もない。
ともすれば茶屋の戸ががらりと開いて、人のよさそうな爺が、
「へい、お早いですね」
とかなんとか声でもかけてきそうである。
実際、覚悟してきた分なんだか気が抜けてしまったほどには、平和である。
たかだか数年とは言ったが、考えてみればもう数年である。
もしかするととっくの昔に怪人は住処を変え、また別のところで山賊稼業に精を出しているのかもしれない。かもしれないというより、そっちの方がよほど現実的な気がする。魚の取れない浜で船を出す漁師がいるだろうか。獣の出ない山で狩りをする猟師がいるだろうか。人の通らない山奥で虎視眈々と牙をむく山賊がいるだろうか。いや、いない。
そういう稼ぎにもならないことをしていいのは、若い頃の蓄えで食っていける隠居老人が趣味で開いた店だとか、金にならないのはわかっているけれど公共事業の一環としてやっていかなきゃいけない場合とか、最初からお上の後ろ盾があって商売っ気がそもそもないところとか、副業で十分食っていけるからいい加減に開いている本業の方の店だとか、そういうものだけである。
意外と多かったが。
閑話休題。
とにかくこんな誰も通らない街道に山賊などが住み着いているわけがないし、住み着いていたところでとっくに食うものもなく餓死していることだろう。
第一こんなにさわやかで美しい、雰囲気もいい第一級の景勝地に血みどろで血まみれの血なまぐさい怪人などがいていいわけがない。
こういう場所にはもっとふさわしい、汗を流して歩く旅人だとか、そんな旅人に冷たい水を出す気のいい店主だとか、素朴だがうまい団子をこしらえる娘だとか、そういうほのぼのとしたものが似合うのだ。
どう贔屓目に見たところで血みどろで血まみれで血なまぐさい――まあ血云々は削ってもいいが――怪人がこの景色にたたずんでいるのは場違いとしか言えないし、絵面的にも完全に浮いている。想像の怪人にケチをつけるのも意味のないことかもしれないが、しかし想像でさえ完全に問題なのだから、実際にいてしまったらもはや合う合わないを通り越して悲惨ですらある。
そういうわけだからして、この美しきさわやかな峠に怪人などいるわけがないし、いていいわけもないのだ。
いないものは探しようがないし、捕まえて帰るわけにはいかない。
だからよってすなわちつまり、このまま手ぶらで帰ったところでそれは霜兵衛の過失ではなく怪人の一身上の都合によるものであり、致し方のない事なのである。
「…………よし」
峠のさわやかな空気を味わいながら言い訳を練ること四半刻。
どうせ大方半分も聞かれることがないだろう文句を何度かそらんじてから、霜兵衛は空を仰いだ。
「帰るか……」
世はなべて事もなし。平和が一番である。
踵を返した霜兵衛だったが、しかしそうは問屋が卸さないのが世の常、面倒事の常であり、物語的に面白くもないし尺的にも足りないという読者への思いやりである。
全身全霊を持って帰りの一歩を踏み出さんとした霜兵衛の後ろで、がらりと茶屋の戸が開いた。
これもやはり手入れがされているらしく、往来が絶えて数年は立っている茶屋の戸とは思われぬくらいすんなりと開いた。できれば埃でも詰まって二度と開かなければよかったものを、どうやら住人はよほどの暇人かかなりの綺麗好きらしい。たぶん、山賊だが。
たぶん、山賊だ。
心底いやそうに振り返った霜兵衛の目に入ったのは、いやに骨ばった手が戸を開き、骸骨のようにやせぎすの体がのっそりとはいずり出てきた姿だった。
なんというか、ただ痩せているだけではない。墓場から骨だけが歩いて出てきたような、そんな不穏当な気配がある。そいつのあたりだけどことなく薄暗く、重たい空気が流れているようでさえある。血みどろで、血まみれで、血なまぐさい――そんなむっとした重たい空気が。
もしこれが夜の邂逅であったならば相当な恐怖をもって霜兵衛は臨んだに違いなかったが、しかしさわやかな風吹く日差し温かい真昼間である。
真昼の亡霊はあまりにも滑稽だった。
この怪人がよりにもよってこの景色にたたずんでいるのは場違いとしか言えないし、絵面的にも完全に浮いている。想像でさえダメだったものなのに、実際にいてしまったものだからも、はや合う合わないを通り越して悲惨ですらある。
幽霊の正体見たり半死人………。
そんな心地でさえある。
しかしその姿をさっと眺めただけでも、それなりの修羅場をくぐってきた霜兵衛には、
(こいつが噂の怪人、だな……)
この痩せぎすの男がそれなりの殺戮をこなしてきたことが見て取れた。
むこうもまた、目は落ちくぼんでこそいるが視線は全くぶれずにこちらをねめつけてきている。
見た目こそ骨の化け物じみているが、
「こいつはやるな」
という雰囲気がある。ただ無駄に体がでかいだけのものや、一丁前に刀を帯びたものにはない、今まで実際に人を殺してきたし、たとえ今襲われたとしてもかじりついてでも殺しに行ってやるという、鬼気迫ったものがある。
何がこの男をこうまでしたのか………。
霜兵衛がじわりと汗のにじんだ手を懐に忍ばせた時、男が何か言った。
「なに……? 何ぞ言ったのか?」
思わず聞き返してしまった霜兵衛に、男はぎしぎしと音を立てて少しばかり乗りだし、そして骨と皮だけのような体から絞り出すように言った。
「……食い物おいてけぇ……」
姓峠の怪人は、言い置いてくずおれた。
人間生きていくうえで、言葉の上だけでなく否応なしに必死にならねばならぬ時があるが、そういう場合は大抵本当に命がかかっているときで、そうでなければ誇りがかかっているときだ。
どんなちっぽけな農民にでも人としての誇りはあるし、生きていたいという気持ちがある。どちらか片方が損なわれるのは時によって仕方がないが、どちらも失われるともうなりふり構わなくなる。
そういうとき人は大昔に捨ててきたはずのけものの本性を見せ、がむしゃらになるものである。
どういう時がそういう時であるかというと、我々の最もよく知る一場面としては腹が減っているときである。
日頃から飯が食えているとなんだそんなことかと馬鹿にしたくなるが、実際食うものもなく切羽詰まってくると、どうしようもなくなる。他の様々なことが至極どうでもいいように思われ、とにかく腹に何かを詰めたい一心になる。
そしてそれが過ぎると、死ぬ。
姓峠の怪人は、数年の通行遮断を経て、そういう時を通り越して死を迎える一歩寸前であった、らしい。
らしいというのはとにもかくにも有り合わせで飯を作って食わせている最中に語るでもなくこぼしたことから推察しただけだからである。
怪人が倒れてから茶屋の中をのぞいてみたのだが、調味料の類はほとんど手付かずで、その代わり食えそうなものは米の一粒まですべて消えていた。
竈の火は絶えて久しく、甕に水を汲んだ形跡もない。
怪人がまだ生きていることを確認してから、霜兵衛はとりあえず茶屋を出て山に入った。半刻かからず戻ってきた霜兵衛の腕には山菜と茸、それに小ぶりの猪である。
猪の一頭程度であれば軽々と狩ってこれる芸が霜兵衛にはあったが、それが原因で百郎太につかまり、いまこんな面倒をしているのかと思うとあまりうれしくはない。
錆びついた包丁に早々に見切りをつけ、自前の短刀で猪をさばき、血抜きをしている合間に水をくみに行く。霜兵衛の脚であればすぐだが、先の想像のように気のいい爺と娘の組み合わせではさぞ苦労しただろう立地ではある。
水を鍋にうつし、山菜を灰と一緒に煮てやる。適当に血の抜けた猪の、なるたけ柔らかそうなところを選んで切り落としてやり、食いやすそうな大きさに刻んでおく。匂い消しに、干からびていた生姜も刻んでまぶしてやる。
山菜の灰汁が抜けた頃、一度湯を捨てて再度煮立たせ、山菜と猪肉を煮てやる。適当なところで、
「これでもか」
と味噌を溶かしてやれば、それなりに見える猪汁の出来上がりだ。
そうしてさっと作ってやった汁でも、怪人は喜んで貪り食った。餓死しかけていた人間に食わせるものではないと思うが、何せ物もないし、面倒であるし、本人が気にしていないようであるし、何より面倒であるから霜兵衛も気にはしない。
「それで、よ」
なんとなしに自分も箸をとって、霜兵衛は切り出した。
「お前が此処を根城にしている山賊でいいのだな」
「………そうだ」
それなりに腹も満ちてか、怪人はいくらか若返ったようである。
相変わらず例の重たい、血なまぐさい空気が取れていないあたり、空腹で鬼気迫っていただけでなくもとよりこいつの気性なのではないかと、つまり根暗なのではないかとも思える。
「なんでまたここに居続けたのだ。もう何年も誰も来んだろう」
「誰も来んからだ」
飯を食うのに忙しい……という訳ではないようだが、どうやら男は口数の少ない人間であるらしい。この薄暗い雰囲気をまといながら饒舌にしゃべられても、できの悪い怪談話のようでそれもまた哀れだが。
「俺はな………俺は死に場所を探してきたのだ」
喉元から零れ落ちたような言葉は、その意味するところとは裏腹に随分とあっさりと口にされた。
なんでも話によれば数年前、景色の良いところで死にたいと思い、有数の景勝地であるところの姓峠までえっちらおっちら上ってきたのだという。そこで最初の問題が起こった。
さすがに喉も乾いたし少し疲れたし、死ぬ前に景勝を楽しみながら酒の一杯をやるのも悪くはなかろうと茶屋に出向いたところ、悲鳴が上がった。
茶屋の娘である。
別に男は何もしていないし、何もする気はなかったのだが、どうやらこの幽鬼のごとき相貌と雰囲気は生まれ以てのものらしく、しかもよりにもよって折悪く夕刻であったために、
「まるで悪鬼羅刹のごとく」
に見えたらしい。
娘はわっと表に逃げ出し、店主は腰を抜かし、たまたま居合わせた武士が怯えながらも刀を抜いて怒鳴った。
「何を血迷ってこのような平和な峠に化けて出た!」
「いや……」
男としては何が何やらわからぬ思いで誤解だ、落ち着け、ともろ手を前に出したのだが、それがなにやら怪しげな術を使うようにでも見えたのか武士が襲ってきた。
その時素直に切られていれば思いのまま死ねたし、今のような面倒にもならなかったのであるが、つい、ついつい、反射的に小刀を抜いて、
「さくり」
とやってしまったのである。
「やっちまったのか」
「やっちまったなあ」
それが原因で山賊扱いされたのだが、この男もただでは起きなかった。
いっそ本当に山賊でも始めれば、なにせ二国を結ぶ主要街道である、武士どもが槍持て刀を持て、殺しに来てくれるのではないだろうか。景勝地で首をくくるような湿っぽい最期よりも、いっそ大立ち回りでもして華々しく散るのも悪くないのではないかと、まあ、言ってみれば血迷ってしまったらしい。
「派手に血迷ったなあ」
「迷ってたなあ、血に」
そしてしばらく山賊の真似事をしているうちに、期待通り二国から送られた武士どもが声高に出てこい野盗だのなんだのと言ってくるので、よしきたと出迎えたところ、またもや、
「まるで悪鬼羅刹のごとく」
見えたらしく、大の大人どもが怯えながら叫ぶのである。まあ男にとって幸いなことに連中は武器を持っていたので、恐怖が攻撃に向いてくれたのはありがたいことだった。
ただ、生まれついてのものとはいえこうも顔だの雰囲気だので怯えられるのも、それもよりにもよっていい年をした、いい仕事をした武士どもにまで悲鳴を上げられるのはさすがにいい加減悲しくなるやら腹が立つやらで、ついつい本来の目的も忘れて大人気なく迎え撃ってしまったらしい。
「まあ…………わしも夕方だったら、怖い」
「俺は大の大人が泣き叫ぶ顔の方が、怖い」
さて、武士どもと大立ち回りして、この野郎とばかりに反撃して、怒りのままに暴れた結果、なんということか、追い払ってしまった。
三分の一ばかりは殺してしまったのだが、残りは大して切りあわない内に逃げてしまったのだから参る。
こちらはまだ六度も死んでいなかったというのに、割が合わぬではないか。
「………六度?」
「ああ、六度だ」
話は戻るが、男は死にたいと常々思っていたらしい。
別に顔のせいではない。
いや、顔の件もあるが、本人が心底うんざりしたという口ぶりで言うところによれば、
「生きていると、つかれる」
のだそうだ。
「疲れるだなんだと言い出すにはいささか若すぎやしないか」
そういうのは自分のような厄介者に目を付けられた人間の言う事だ、と霜兵衛。
ああ、いや、とぞんざいに手を振って、男は自分の肩のあたりを指して、言い直した。
「生きていると、憑かれる」
生きていくのに疲れるのでもなく、死にたいという思いに衝かれるのでもなく、怨霊に衝かれるのだという。
「ああ………それでそんな顔を」
「顔は、生まれつきだ」
思えば確かに、いくらなんでもこれほどに濃い瘴気をまとう人間というのもなかなかお目に抱えないものである。話を聞く限り生来の不幸のせいかと思っていたが、どうも実際的に実質的に、目に見えぬものの被害をこうむっていたらしい。
まあ………。
正味なところ八割くらいは顔と性格のせいではないかと霜兵衛は思ったが。
猪肉を噛みながら男がけだるげに語ったところによれば、どうも怨霊――としか呼べぬ何がしか――は、生きているものが恨めしくて仕方がないらしい。普通に生きているとその生気やらなにやらで怨霊は近づけぬのだが、たまに男のように怨霊を引き寄せる体質があるのだという。
男の親もその親もそのまた親もその親も、みな代々そのような体質を持つ家系のようだったが、男の場合はそれが特にひどかったらしい。
人が死んで怨霊やら念やらが残り、そこに男が通りかかると、がばりと覆いかぶさるように憑いてくるらしい。呼んでもいないのにずるずる憑いてくる。慣れているせいか大して被害をこうむるわけではないが、とかく重い。空気も重ければ肩も重い。
慣れてしまえばどうということはない感覚ではあるらしい。
ではあるらしいのだが、同族であるはずの、同病であるはずの、相憐れむ中であるところの身内にさえ、一方的に哀れまれるのにはこの上なく腹が立ったらしく、里を出て放浪した結果、里に引きこもっていた時の十数倍のお供が出来てしまったとのことである。
さすがにここまで濃い瘴気を背負うと、そういう感覚のない人間でも否応なしに拒否反応が出るらしく、まともに仕事ももらえなければどこかに落ち着くこともできない。
そういう一人旅の中、男はふと思ったらしい。
「そうだ、死のう」
「軽いな」
生きているのが恨めしい連中ならば死んだらさすがにどこかに行くだろうと、理性的なのか自棄なのかわからないが、男はとにかくそう思い至り、折角だから綺麗な場所で死のうと姓峠へとやってきた。
そして以下ご存じのとおりである。
ご存じのとおり、死ねなかった。
刀で切っても槍で刺しても死なぬ。
首を刎ねても腹を裂いても死なぬ。
矢を射っても火を放っても死なぬ。
六度殺されても死ねず、男は逃げ去る武士たちを呆然と見送った。
どうやら怨霊たちは死なせてくれぬらしいということに気付いたのはこの時が初めてであったという。
どうも男の体が死を迎えると、ぽっかりと命の抜けおちた穴ぼこに代わりに怨霊がするりと入り込むらしい。しかし、怨霊がそのまま全部引き継いでくれればいいものを、相も変わらず意識を保っているのは男なのだという。
よほどあの手のものに強い家系なのか、よほどあの手のものを圧倒する血筋なのか、ともかく恨めしいばかりである。
しかも腹立たしいことに自分の殺した武士どもの念やら怨霊やらもずるりと自分にくっついてきたらしく、これでは差し引きなしである。むしろ在庫が増えたやもしれん。
憤慨はなはだしく、次の刺客を待ったわけであるが、一向に来ない。武士どころか人っ子一人来やしないのである。
そこでヤサでも変えればよかったものを、何やら妙な意地が男を支配し、死ぬまでここを離れてなるものかとどっかりと腰を据えてしまったのである。
もうこうなってくると延々と自殺を繰り返すのもばかばかしいし、誰かを俺を殺しにこいと叫んですごすうちに一年たち、数年たち、いまに至る。
「死にたい割には………食ったな」
「うむ、うまかった」
鍋一杯の猪鍋は、綺麗に空になった。
男が水を飲みのみ言うところによれば、死ねないにしても痛みや苦しみは相応にあるらしい。
刀で切られれば線上に。
槍で突かれれば貫いて。
首を刎ねられれば首が。
腹をば割かれれば腹が。
矢を射られればそこが。
火を放たれれば火傷が。
―――痛むのだという。
「死ぬほど痛いぞ」
とは男の言である。
そしてそういった痛み苦しみの中でも、飢えて死ぬ、乾いて死ぬというのは他にたとえようのない段違いの苦痛であるのだという。
飢えて乾いて、その先にきちんと死ねる、きちんと終われるのならばまだいい。
だが男は、それを繰り返すのである。
一度死ねばしばらく飢えや渇きはごまかせる。
だがそのしばらくが過ぎればまた苦しみの中で死ぬ羽目になる。
「死にたいが、しかし飢えて死ぬのだけはごめんだ」
我儘、と言えば我儘だろう。甘い、と言えば甘い。
だがそれは常人であればの話。
死ぬに死ねず、死なぬに生きれず。
とうとう自殺にも手を出してみたが死ねない。
首をくくっても腹を割いても五体を峠から投げ出しても獣に身を食らわせても死ねない。
そうしてただただ飢えて死んで乾いて死んで飢えて死んで乾いて死んでを繰り返しているうちに、やってきたのが霜兵衛なのだという。
霞みかけた視界に人の姿が映った時、死にたがりの男がとっさに口にしたのが、
「……食い物おいてけぇ……」
であったことを考えると、空腹の苦しみはよほど辛いものと見える。
鍋の底をまだがりがりと箸でひっかいているこの男を見て、霜兵衛は話を聞きながら考えていたことを語った。
「要するに、お前は居場所がなく生き甲斐もなく、かといって死ねもしないからこんなところにいるわけだな」
であるならば、と霜兵衛は切り出した。
「わしのところの頭目がどうやらお前を欲しがっているらしい。居場所ができるかどうかはお前次第だが、頭目としては一度手に入れた以上お前を放すことはないだろうし、これから時勢が荒れるだろうことを考えると、お前が殺した人数よりよほど多く殺されるだろうことは目に見えている。楽にではないが、ようよう死ねることができる。どうだ」
男は髑髏のように落ちくぼんだ目でしばらく迷うように、考えるように、品定めするように霜兵衛を見ていたが、
「飯は出るぞ」
「行く」
終いには重々しくうなずいた。
この時、霜兵衛がこの生涯を不幸なままに送り、死んでからも死にきれず死に続けてきた骸骨のような痩せぎす男を哀れに思ったのは嘘ではない。
嘘ではないがしかし、この自分以上に不幸ともいえる男を引き込めば、頭目百郎太の寄越してくる不条理な無理難題を、全てとは言わないまでも半分肩代わりさせることができるのではないかという思いが、今の霜兵衛の胸中を支配していることは確かだった。
忍道・珍 田鴫射ちの霜兵衛の巻 了