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忍道 珍  作者: 長串望
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木の葉一枚のチンの巻

 白州中忍チンという男は奇妙な男であるというのが里のおおむねの評価だった。

 偏屈で有名な抜き身の嵐蔵のように人嫌いの気があるわけでもない。

 他をよく気にかける人格は中忍頭にも目をかけられ、部下からの信頼も確かなものだ。

 上を敬い、下を大事にし、これといった騒ぎも起こさない。

 独特の人間性を持ち合わせるわけでもなく、おおむね常識的な性癖であった。


 任務を選んだりもせず、身の丈に合った任務を地道にコツコツと成し遂げ、成長してきた。

 半ば人外魔境の域にある上忍達のような芸を持つわけでもない。


 酒も煙草も誘われれば付き合う程度で深くおぼれたりもしない。

 かといって奇妙な趣味があるのかと言えばそうでもなく、精々釣りをたしなむ程度で、後は日がな一日鍛錬にいそしんでいる。

 ストイックに見える生活だが、ゆとりがないわけでもない。


 だが里の者は口をそろえて彼を奇妙だという。


 そもそもチンはどこの生まれともわからない流れ者であった。


 里の上忍であった鎧骨(よろいぼね)寶川(たからがわ)が下忍の頃に拾い育てた野性児とのことであったが、物事に頓着しない性格のためか、彼自身も自分の弟子を深く知っているわけではなかった。


 その寶川にしても先頃、隣国霧島の国を治める山崎家が配下、鬼の次郎衛門の引き起こした忍狩り事件によって鬼籍に入っており、詳細を確かめるすべはない。


 噂によれば白州の里を擁する小林の国と東の桜井の国との抗争に巻き込まれた戦災遺児であるとも、里の頭領白州一郎太の隠し子であるとも言われるが、当のチン自身はこれらを肯定も否定もしなかった。


 言葉の訛りから推測しようにも里に来た頃のチンはなんとか意思の疎通ができる程度のひどい片言しか話せず、里で言葉を学んだいまもそれほど多弁に口を開くわけではない。


 チンという名前も、支那の商人から借りているというが、それも定かではない。


 決して広くはない里の中で素性が知れないというのは確かに変わってはいたが、それも理由ではない。

 彼の性分と言うか、彼には奇妙な癖があったのだ。


 彼は、他人を身分や肩書などではなく能力や人柄で評価しており、往々にしてその眼を自分にも向けて鍛錬を惜しまないストイックな人種だった。


 そのストイックさを示すように、チンが里に迎え入れられてからいまに至るまで、彼は全ての任務を一切の忍具なしの徒手空拳で行ってきた。時に毒を受け、時に手痛い反撃に傷ついて帰ってきても、彼はかたくなにその身体能力だけで任務をこなしてきた。


 身の丈六尺五寸を超える彼の異様な長身をいかし、日差しの強い夏も雪深い冬も、中忍昇任試験の際でさえ、チンは身一つでやり通した。


 それだけならばストイックな努力家で済んだだろう。


 だが彼のそれは少々行き過ぎていた。

 それ故に彼は奇妙な二つ名で呼ばれ、またおのれからもそう名乗っていた。


「おれにはこれと言って何をしたいということもないし、そうすべきだという信ずるものもない。ただ化け物ばかりの忍の連中の中で、おのれの身一つでどこまでやれるのかということはなかなかに面白くはある。この二つ名は俺の信条通り、見かけ通りでいい」


 と彼は里の仲間に語ったという。


 チンの名はこのように、いささか奇妙な癖はあるが、特に目立つこともないそこそこ優秀な忍という程度のものであったが、それにはこの時までという但し書きがつく。


 忍狩り事件による疲弊を突いた敵対忍者集団石蔵忍軍の襲撃によって、彼の名は明かされざる歴史に深く刻まれることとなる。




 後に戦国と呼ばれることになるであろう時代、久保田家が統治する小林の地にはひとつの忍の里があった。


 白州忍軍と呼ばれるその異能の者たちは、他国に囲まれたこの弱小国を強力に支持し、水面下で人知れず激しい戦いを繰り広げていた。


 その白州の里を囲む険しい山を通る街道の一つに、いま異様な光景が広がっていた。


 一様の装束に身を包んだ白州の下忍十三名。

 彼らは目の前の男に攻撃的な構えを向けていた。

 牙をむきいまにも獲物にとびかからんとする獣のような鋭い構えは、下忍とはいえ生半可なものではない凄味のようなものがある。


「ぐぐぐぐ、ぐ………」


 しかし、そこから先への動きがない。


 強く地面を踏みつけた脚は前へも後ろへも一歩も動かず、振り上げた直刀は空しく掲げられたままである。


 奥歯を砕かんばかりに歯を食いしばり、体中からだらだらと流れる汗で濡れそぼち、全身の筋肉はみちみちと音を立てて力みながら、そこから先へ進むことができずにいた。


「ぐぐぐぐぐ、ぐぐぐ………っ!」


 対する男はたった一人でその集団と対峙しながら、特に構えるでもなく片足に体重を預けて、これをただ斜めにねめつけている。


 それが、一時。

 およそ一時、二時間にわたってその状況が続いていた。


 正午頃に始まったこの奇妙な光景は、日がいくらか傾いてからも続いていた。

 その間、この一角で動くものは風に揺れる木々の葉の他にはなかった。

 静まり返った街道に、人形のように固まった忍者たち。


「足掻くにも足掻けないという恐怖はどんなものだ、え?」


 そう呟いたのは男であった。

 最初から答えを期待していない、どこか自分に酔っているような響きだった。


 身なりは奇抜で、派手な蛇柄に眼球をあしらった紋の入った忍んでいない忍装束。

 ざんばらの艶のない髪で、肌は死人とも蛇の白子とも見える不健康な白さである。


 そしてその眼は常人と何か違った。

 弱った獲物を前にその命の尽きるのを待つような容赦のない眼だった。

 それはあまりにも冷酷な、絶対的な立場の違いを見せつける眼だった。


 にやにやとこらえきれないように笑みをもらし、男は彼らを見下していた。


 男の名は万丈利助。

 石蔵忍軍魔眼三人衆がひとり蛇睨みの万丈である。


 この奇怪な景色は万丈の芸によるものであった。

 如何なる理屈によるものか、如何なる道理によるものか、誰一人それを見抜いたものはいない神妙不可思議なる魔芸。


 だがその怪しげな芸は確かな結果を残して見せてきた。


 蛇睨みの万丈が二つ名の由来にして、その地位を確固たるものとした秘技。


 忍法・朽縄(くちなわ)縛り。

 曰く、その目を見たものは石となる。


 たとえ数万の軍勢であろうと数千の騎馬であろうと数百の忍の者が相手であろうと、よしんばこちらが相手に気付いていなくとも、万丈の瞳術を前にはただの一人の例外もなく、一瞬にして全身の動きを奪われる。


「この俺の忍法・朽縄縛り。石になれ、などと言ってもまさか本当に石の地蔵になるわけではない。地蔵のように動けなくなるが、地蔵のようにものを感じなくなるわけではない。見えるし聞こえるし感じるし、お前たちの意識しないところで息も心臓も勝手に動いて、止まりはしない」


 それがいい所だ、と万丈は酷薄に笑った。


 瞬き一つできず、しかし目は乾き、目の前の魔人から眼をそらすことはできない。

 聞きたくないと思っても耳は危機を前にむしろ鋭敏に研ぎ澄まされている。

 圧倒的な悪意の前に、無防備に身を晒すことしかできない恐怖。


 自分がこれからどうなるのか、どうされるのか、じっくりと考えてしまう、考えさせられてしまうのに十分すぎるほどの時間。


 そしてその時間が過ぎれば過ぎるほどに、仲間の救援が来ないという事実が絶望として沁み込んでくる。


 術を解けばすぐに倒れるであろうまでに衰弱した敵を前にしても、万丈は距離を保ったまま睨みつけることをやめない。

 そうしようと思えば赤子の息を止めるよりも容易いだろうに、彼らに止めをさすために近寄ることもしない。


 じっと、じいいっと、()()()()()()()()()()()()()()()と、ただ睨み続ける。


 万丈にとってこれは戦闘などではない。


 白州忍者たちもそれをしっかりと認識していた。


 抵抗する手段を奪い、じわじわと心を痛めつける悪意と言う鞭。


 これは確かに拷問であった。


 しかもここには拷問にはある救いがない。


「拷問にはいくつもの手段がある。よくもまあそんなに思いついたものだと、この俺からしてもまったく頭の上がる思いだ。おまけにその殆どを考えて、所持しているのがお上だというのだから怖いものだなあ」


 爽やかな風の吹く、穏やかで涼しげな昼下がりの街道。


 そんな平穏な場所にあわない話題を、そんな平穏な場所にあわない状況で語る万丈の声はすこぶる楽しげであった。


 実際、楽しくて仕方がないのだろう。

 万丈の表情は恍惚としていた。


「実際あんな拷問を受ければやっていないことでもやったと言ってしまいそうだが………拷問には三種類ある。そのうち自白目的と罰を与えるのが目的の拷問には救いがあってな。前者は自白してしまえばそれでいいし、後者は反省するなり一定の量が終わればそれでよい。楽なものだなあ」


 ゆっくりと歩を進め、口角を上げる万丈。

 一歩ずつ踏みしめるように、ゆっくりゆっくりと近づいていく。


 亀のような遅さで、だが一定の間隔で確実に近づいてくる足音が、白州忍者たちを恐怖という深い沼にずぶずぶと沈めていく。


 逃げようにも体は動かず、自害することもままならない。

 全ての抵抗は万丈の魔眼の前に奪われていた。


「そしてもう一つの拷問だ。この俺がやっているのもまさしくこの拷問なのだが、これは自白などを目的としてはおらん。罰を与えるのでもない。南蛮の者たちはなにやら大義名分を掲げたりもするようだが、この俺はそのようなことはせん。忍であるとはいえ、極力正直であることがこの俺の美徳でなあ」


 楽しげに語るその間にも、じわじわと歩み寄る万丈。

 そして全員が恐怖の底の底にまで沈みきったその瞬間、万丈は足を止め、耳まで裂けるように大きく打ち笑んだ。


「この俺の拷問は()()だ。

 だから全く()()()()()()()

 貴様らが白州の里の秘密を吐こうと吐くまいと終わらん。

 なにせ全く()()()()()()()からな。

 貴様らが媚びようが嘆こうが知ったことではない。

 なにせ全く()()()()()()()からな。

 楽しいからやるのだ。

 面白いからやるのだ。

 笑えるからやるのだ。

 可笑しいからやるのだ。

 興があるからやるのだ。

 たまらないからやるのだ。

 小気味良いからやるのだ。

 貴様ら虫けらどもがこの俺の忍法・朽縄縛りによって眼一つ、いやさ眼二つで、雨あがりに乾いてうごめく蚯蚓(みみず)どもよりもみっともなく情けなく蠢いているのがいい。

 この俺の許しなくば、指の一本を動かすどころか瞬きさえもままならぬ貴様らはいとおしくさえある」


 こんな時間にこんな場所で、なぜまとまった数の忍が集まっていたのかは不明だが、万丈の芸にとっては相手が一所にかたまっていた方が楽であるから好都合ではあった。


 本来であれば今頃は、先の忍狩り事件によって上層部に被害が出たという白州の里を襲撃し、動揺の隙に勢力を削いでいる予定であったが、末端がこれでは本隊の実力も知れたものと見て、万丈はこの時間を大いに楽しむつもりだった。


 そもそもいままでは機会に恵まれなかっただけで、たとえ白州の里が万全の状態であろうと負け知らずの忍法・朽縄縛りを芸に持つ万丈にとって、さほどの障害となるとは思えなかった。


 確かに鎧骨の寶川のように殺し切れなかったものや、初めて芸の通じなかった神立(かんだち)の寅之助のようなものもいるにはいたが、その寶川も武士である山崎次郎衛門の手にかかり、寅之助はそもそも盲目であったというだけのこと。


 常に他人を見下す側に立ってきたもの特有の油断というものがあることは大いに自覚していた。だが万丈はそれを直さず、むしろ油断しても勝てるまでに己と己の芸を鍛え上げた。


 研鑽を積み、狡猾さを磨き、地力を鍛え上げたいまとなっては、その油断もただの余裕となり、たとえどのような相手であっても九割九分九厘打ち勝てる自信と実力があった。


 万丈がいまだに一国に仕える忍軍の上忍程度に納まっているのは、単に魔眼三人衆同士で争えば相性の問題で不利になるため、慎重を期しているにすぎない。


 いまはまだ起つべきときではないというだけのこと。


 いずれは魔眼三人衆の長となり、石蔵忍軍を牛耳り、或いはその上までも、己には獲るだけの力がある。万丈の欲望は事あるごとに夢想となり胸を占めた。


 万丈の嗜虐的な性癖は生来のためだけでなく、或いは自分を押さえつける者に対する鬱憤を、弱者にぶつけて晴らしているのかもしれなかった。


「貴様らにはどんな方法が似合うだろうな。貴様らも忍ならば責め苦に耐える鍛錬も受けているのだろう。多少の痛みや苦しみでは堪えないかもしれんなあ」


 だからこそ楽しみ甲斐があるものだが、と万丈は子供のように朗らかに笑った。


「いまのようにこの俺の忍法・朽縄縛りで身体の自由を完全に奪われるというのは肉体的にだけでなく()()()にも辛いのは確かだ。日頃考えない内に休んでいる体はいま一時以上働かされ続け、いままで味わったことのない疲労と苦痛があることだろうな。開きっぱなしの眼が乾燥するのはひどい気分だろう。後から後から涙が流れても、やがて渇いて眼球がどろどろと粘るようになる。体の水が足りんのだ」


 一番前に立った男の、もう流れることもなくなった汗でべたべたと汚れた頬を指先で突いて、やわく押したまますうと胸元まで撫でていく。


「尿意や便意はどうだ。出したくても貴様らの筋肉はこの俺の忍法・朽縄縛りに縛られて動かせんのだ。それでも貴様らの内臓はお前らの意識の外で働き続け、尿や便を溜めていく。自分の内側からの痛みは堪えるだろう。だが痛いだけだと思うなよ」


 そしてそのまま下っていった先の下腹部を強く押して万丈はにやついた。


「貴様らの中でやがてたまりにたまった糞が腐りだす。パンパンに詰まった貴様らの腹の中でぐずぐずと音を立ててくさい湯気を立てるのだ。この湯気は貴様らの腹を内側から風船のように膨らませていく。餓鬼どものように下っ腹が膨らんでいくのだ。やがてはらわたが裂けて糞が腹の中に満ち、貴様らは内側からじゅくじゅくと黄色く膿み爛れて腐れていくのだ。生きながらに腐っていく気持ちはどうだろうなあ」


 胸の悪くなるような話を、万丈は嬉々として語った。何かと重ねるようにねっとりと眺める視線は、或いはかつて実際にそれを眺めたことがあるのかもしれない。


 しかしそれにしてもよくしゃべる男だった。

 白州忍者たちが衰弱しきるまでの一時の沈黙の分を埋めるかのように、しゃべり続ける。

 そうして自分の圧倒的な優位を再確認しているのかもしれない。


 だが、長い。

 実に、長い。


 人間誰しも自分の得意とするところを語り出すと止まらないものだが、万丈の心理状態もそのようなものなのかもしれない。


 登場早々、派手な戦いも疾走感あるやりとりもなしに、ただぎろりと睨みつけて相手の動きを奪い、膠着(こうちゃく)すること一時。さらに硬直した敵を前に延々しゃべり続けることそろそろ半刻。感じ方によっては一刻近く。


 まったくもって動きがない。


 こう言ってしまうと極めて大真面目な白州忍者諸君には申し訳なくもあるが、はっきり言って華がない。


 大立ち回りの末にこの膠着であればわからないでもないが、何の見せ場もなく台詞の一つもなしにこの有様となると、いくら下忍といえど救い難かった。


 こうなってしまうと十三人だろうと一人だろうと字面の上では違いもわからない。


 しかも肝心の話の内容たるや自慢と悪趣味の大売り出しで、なんら状況を変えるものでないとくる。

 これが芝居や読み物であれば、金を返せと言われても仕方のない場面だった。


「貴様らがそうして立ちすくんだまま腐れていくのを、この俺は何日でも眺めて楽しめるだろうなあ。だが生憎とそのような時間もなければ、そのような機会でもない。貴様らの里の虫けらどもを貴様らと同じように、この俺の忍法・朽縄縛りによって動きを奪い、そして命も奪わねばならんのだからなあ」


 自身の二つ名の由来でもある大技であるからしてさぞかし自慢の芸なのであろうが、それにしてもすでに本人の口からだけで五回目となる忍法・朽縄縛り。


 どうでもいいことだがその全ては()()()()という冠詞付きである。


 全く忍んでいない忍法・朽縄縛り。ここまで自分の芸を晒すのもよほどの自信のためか或いは今更隠しようがないのか。


「かといって一人一撃、計十三回刃を振るうだけでは面白くない。さあ、さあさあさあ、どうしてほしい虫けらども。爪を剥ごうか。指を落とそうか。血管を裂いて少しずつ血を失わせてやろうか。ええ? 考えるだけでも胸がおど……()()


 時間がない、と自分で言っておきながらもう一刻程度はしゃべり通しそうな万丈の良く回る口を止めたのは、万丈の鋭敏な感覚がとらえた一時と一刻ぶりになる新しい人物の登場によるものだった。


 その眼を見たものは例外なくその動きを奪われる強力無比な秘術である忍法・朽縄縛り。


 それは逆に言えばその眼さえ見なければなんら物理的被害の出ることのない芸であり、そもそも万丈が力を込めて睨みつけて初めて発動するもので、完全に隙のない芸ではない。


 万丈自身が相手を知覚しなくとも、相手が発動中の万丈の眼を見れば効果は出る。だが力を込める前に知覚外から攻撃を受ければ止めようがないのである。


 この隙を誰よりも強く自覚している万丈は、常人相手であれば六十間以上、忍であっても三十間よりは近寄らせたことがないほどに感覚を鍛え上げていた。


 その万丈に対して、周囲が深い木々に囲まれ、悦に入ってしゃべり続けている最中だったとはいえ、およそ十間程度の距離に、そいつは立っていた。


 それも、万丈の背後に。


「……………っ!?」


 ()()()とした。


 いままで石蔵の忍にさえ無防備に接近を許したことのない距離。


 それ以上に振り向いた万丈の肝を潰したのは、その男の異容であった。


 厳しい鍛錬を積む忍としても抜きん出て鍛え上げられた筋肉。

 長身の万丈をはるかにしのぐ身の丈は六尺四寸、いや五寸はあろうか。

 蓬髪は異人じみた顔を半ば覆い、赤銅に焼けた肌は鋼のような鈍い輝きさえあった。

 戦うことにのみ全霊を捧げた武人の如き肉体はさながら一振りの刀のようですらある。


 だがその尋常でなく鍛え上げられた肉体よりも万丈が驚いたのは、恐らくは白州の忍であろう男のまったく忍ばない装いであった。


 お前が言うな――というのはもっともであったが、その万丈を差し置いた奇態であった。

 普通の意味で身一つと言うには、いろいろと、足りなかった。


()………()()()()()


 驚いたというか、呆れたというか。

 まさしく魂消る、という心地であった。


 なにせ男は―――()()()()()だった。


 股をただ一枚の木の葉で隠しただけという、あまりにもあまりな軽装。

 まったく忍んでいないというか、ある意味忍んでいるというか。

 隠すべきところは隠しているが、それ以外の一切が晒されていた。

 ともすればその隠すべきところさえ隠しきれない際どい一線ではあったが。


「……………」


 男は無言で佇んでいた。


 大振りの、しかし男の異様な長身に比べてあまりにも頼りない木の葉が一枚、風に揺れた。


 褌でもなく、布切れでもなく、天然自然の木の葉一枚。

 おそらくはヤツデであろう木の葉の、掌状に裂けた隙間がいろいろと、危ない。


 本来の忍の者の心得とは全く別の意味で、主にお上から忍ばねばならぬような風体をしておきながら、男は堂々と佇んでいた。


 二度目の喩えとなるが、これが芝居や読み物であったならば、取締りの対象となりかねない事態であるにもかかわらず、男は一切の恥じらいも衒いもなく、それがさも当然であるかのような自然な佇まいであった。


 あまりの堂々ぶりに、なんだか自分の方が間違っているような気分になんとなくさせられかけた万丈であったが、かといってでは正そうとも思えなかった。


 あれが正しいのならば間違ったままでよい。

 この俺は正しく間違えているのだ。


 そんな考えが浮かぶ程度には、石蔵忍軍魔眼三人衆がひとりにして負けなしの忍法・朽縄縛りの使い手である蛇睨みの万丈利助は混乱していた。


 色々と問題のある男が登場して既に忍としては致命的な時間が流れていたが、かといって何事もなく動かすにはいささか場面は凍りつきすぎていた。


 生来の油断癖によって負けたとは言わないまでも不利に追い込まれたことは何度かある万丈であったが、ここまでかき乱されたのは初めてであった。


 そういう意味においては、男の登場は極めて効果的な被害を出していた。


 ―――ごほん。


 仕切り直すように咳払いをして、万丈は改めて男をじろりと見やった。


 まだ忍法・朽縄縛りは繰り出さない。


 そのようなものを使わなくとも、このようなおめでたい輩に引けを取るようなことはないと、自分の優位を意識して崩れた立ち位置を立て直しているのだった。


 大体、忍法・朽縄縛りは面倒を省くのにちょうどよいし、見た目も楽しいので重宝しているが、その程度の面倒もこなせないから芸に頼っているのだと思われては困る。


 石蔵忍軍の上忍はなにも、里に腰を据えて命令を出しているだけの存在ではない。実力主義の石蔵忍軍の中でも特に能力の秀でたものなのだ。

 芸の抜きん出ただけでもなく、技の優れただけでもなく、実際に生き残り勝ち残ったものたちなのだ。


 確かに特異な芸ありきではあるが、たとえ芸がなくとも、このようなまず見た目で驚かそうなどと言う程度の低い忍を相手に後れをとるはずもない。


 最初の驚きを、自尊心と憤りを適度に織り交ぜて払拭し、万丈はおのれを取り戻した。


 闇雲に使うだけでもほぼ確実にごり押しで白星をもぎ取れる強力無比な忍法・朽縄縛り。

 冷静な思考を取り戻し、使い所を見極めればそこに負けなどちらと見えることすらない。


「く……くくくくくくくく。いささか驚いたが、この俺の前に姿を現したのは失策だったな。この俺は石蔵忍軍魔眼三人衆がひとり、万丈利助よ。貴様も白州忍者であるならば、蛇睨みの万丈の名を知っているだろう。わかったか。理解したか。そして恐怖したか。貴様が万が一にもこの俺に勝つことなどできはしないとなあ」


 自分の優位性を再確認するように、再び長々としゃべりだす万丈。

 普段からこういう内容をしゃべりなれているのか、いやに舌の滑りがいい。

 先ほどの失態を埋めようと上擦っているのか、若干早口になってもいるが。


「貴様にも見えるだろう、この俺の後ろで地蔵の如く固まっている貴様のお仲間が。あれよ。あれがこの俺の忍法・朽縄縛りの餌食となった哀れな虫けらどもよ。愚かにも、まったく愚かにも、この俺の忍法・朽縄縛りを打ち破れると毫ほどにでも思ったのか、この俺に歯向かおうとした結果がこの始末よ。大人しく隠れたままこの俺を通していればあそこまでの苦痛を味わうこともなかったのになあ。だがこの有様を見れば愚かな貴様にもこの俺の忍法・朽縄縛りがいかに恐ろしく破りがたいものか理解できただろう。理解したのならば、この俺に、この俺の忍法・朽縄縛りに挑もうなどと考えるのはやめて早々に命乞いをすることだなあ。貴様が滑稽に媚びへつらえばこの俺の慈悲が得られるかもしれんなあ」


 上擦って早口になった調子もそうだが、内容もまた実に小物くさかった。

 冷静になったと自分では思っているようだが、やはり動揺が抜け切れていないのか、ご自慢のこの俺の忍法・朽縄縛りも大盤振る舞いの四連発である。


 これで通算九回目となるこの俺の忍法・朽縄縛り。


 芸なしでも問題などないとは謳っても、やはり不安の時の頼りはこれであるらしい。


 もしかすると白州下忍十三人を一時も縛り続けたのは、衰弱させて楽しむだけでなく、単にその間じっくりと台詞を練っていたのかもしれない。


 石蔵忍軍上忍万丈利助。


 実は突然の事態に対処できない、即興の利かない不器用な男なのかもしれなかった。


 閑話休題。


 いくら上擦って早口で小物くさい発言とはいえ、実際に生々しく動きを封じられた現物がそこにあるのだから少しは動揺してもよさそうなものであったが、男は動じた風もなかった。


 むしろどこ吹く風といった様子ですらある。


 或いはあまりにも長ったらしいので途中から聞き流していた可能性もなくはない。

 また或いは万丈の忍法・朽縄縛りに対する自信のように、なにかしらの強い自信があるのかもしれなかった。


 なんにせよ図太い男である。


「ほう……………この俺の言葉を脅しか何かと思っているのか、それともあの哀れな連中を見てもまだなんとかできると思っているのか………愚かしい。まったく愚かしい男だなあ、貴様は。いいだろう、相手をしてやろう虫けら。唇一つ貴様の意思で動かせなくなる前に、墓標に刻む名を名乗るがいい!」


 万丈の怒声を聞いて、ようやく男はゆっくりと口を開いた。


「白州中忍疾風四臣衆がひとり木の葉一枚のチン―――いざ」


 力むでもなく極々自然に紡がれた名乗りの声。


 そして散歩にでも赴くかのような軽やかな声とともに、チンと名乗った男はなめらかに一歩を踏み出した。


 その一歩は力強く地面を踏みしめ、爆発的な力を溜めこむように深く身が沈む。

 尋常ならざる筋肉のばねが爆ぜたならば、その驚異的な勢いを前に十間という距離はあまりにも短いだろう。


 だがどれだけ速かろうとそれは人の脚。例え鍛えられた忍でも、それが獣の域を超え、風よりも速く駆けることはない。


 言うまでもなくその脚が地を蹴るよりも、睨みつけるという一動作は素早く完了する。

 万丈の瞳術が恐ろしいのは、眼を見ただけで動きを縛られるという強力さだけではない。

 どれだけ遠かろうと一瞬で、いや一瞬もかからずに届く光速の眼力。距離という概念を超越したその速さこそが万丈の芸を無敵たらしめる要因なのだ。


「聞いて驚け見て黙れ! 忍法・朽縄縛りィ―――ッ!」


 激しい音もなく、眩い光もなく、燃える熱もない。

 ただ見えざる毒が、その瞳からほんの刹那もなく暴力的なまでに解き放たれる。


 聞こえず見えず感じられず、気づいた時には悪意の毒が毛の先から爪の先まで余すところなく染み渡り、その身の自由を完膚なきまでに縛りあげる。


 放たれた後にはもはや避けることもかなわぬ光速の毒。

 どれだけ優れた肉体であろうとも、避けることもままならず、耐えることもできない凶悪無比な魔毒・朽縄縛り。


 走行中の馬でさえも強制的に停止させる魔眼が、木の葉一枚のチンの眼を貫き、毒を注ぐ。


「……………ッ!」


 力強く大地を蹴った一歩、しかし第二歩が地につく前に、チンの全身は金縛りにあったかのように全ての動きを停止する。


 チンは登場早々にその動きを奪われ、もはや己の意思で指一つ動かすこともかなわない。


「どうだ、悲鳴さえ上げられぬだろう! これぞ、この俺の――!?」


 誇らしげな声はすぐに、驚愕にとって代わられた。


 まったくの想定外の出来事が、突然の事態に対処できない、即興の利かない不器用な男の眼の前にあった。


 数万の軍勢を、数千の騎馬を、数百の忍をただの木偶の坊に仕立て上げてきたその二つの眼が、初めて見る光景がそこにあった。


 理屈の上では十分に有り得るだろうし、それを警戒しての距離であったはずだ。

 その警戒を軽々と飛び越えて、それはあった。


 確かにチンはその全身を縛られ、もはや自分の意思では一切の身動きが取れなかった。


 ()()()()()()()()()()()()()


 力強く地面を踏みしめ、爆発的な力を溜めこんだ尋常ならざる筋肉のばねが爆ぜ、全身を跳ねさせた瞬間に、チンの全身は硬直した。


 その身は確かに化石し、慣性の法則がその身を放り投げた。

 その驚異的な勢いを前に十間という距離はあまりにも短かった。

 その驚異的な勢いを前に万丈の警戒はあまりにも足りなかった、


 チンは文字通り飛び越えてきた。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 身の丈六尺五寸超、体重二十七貫超の「砲撃」に対して、石蔵忍者万丈利助の芸はあまりにも無力だった。


 この俺の忍法・朽縄縛り。

 十度目はなかった。




 衝撃の瞬間およびその後の魔眼の毒が抜けきるまでの決して短くはない時間に関しては、冒頭同様何の動きもない極めて面白みのない、かついささか見栄えのよろしくない情景であるからして割愛させていただく。


 なおこのとき無事捕縛された蛇睨みの万丈は、後に木の葉一枚のチンについてこう語ったという。


「奴の巨体がこの俺にのしかかる間際、ヤツデの隙間に確かにこの俺は蛇を見た。蛇睨みを黙らせる巨大な蛇を」


 拷問をにおわせるまでもなく尋問に対して必要以上に長々としゃべり続けた万丈でありながら、その件に関しては言葉少なく、それ以上語ることはなかったという。


 この件を切欠に、後に破眼三鬼衆の一人として数えられることとなる一方の木の葉一枚のチンは、報告の際にこうつぶやいたという。


「いや………訓練だと思っていたんだが……」




 白州中忍チンという男は奇妙な男であるというのが里のおおむねの評価だった。


 偏屈で有名な抜き身の嵐蔵のように人嫌いの気があるわけでもない。

 他をよく気にかける人格は中忍頭にも目をかけられ、部下からの信頼も確かなものだ。

 上を敬い、下を大事にし、これといった騒ぎも起こさない。

 独特の人間性を持ち合わせるわけでもなく、おおむね常識的な性癖であった。


 任務を選んだりもせず、身の丈に合った任務を地道にコツコツと成し遂げ、成長してきた。

 半ば人外魔境の域にある上忍達のような芸を持つわけでもない。

 酒も煙草も誘われれば付き合う程度で深くおぼれたりもしない。


 かといって奇妙な趣味があるのかと言えばそうでもなく、精々釣りをたしなむ程度で、後は日がな一日鍛錬にいそしんでいる。


 ストイックに見える生活だが、ゆとりがないわけでもない。


 だが里の者は口をそろえて彼を奇妙だという。


 何せ彼は木の葉一枚だった。


 里に来た時からいままで、平生から任務の時まで、木の葉一枚で股を隠した他は何もつけずに、それだけで通してきたのだ。


 それ故に彼の二つ名は木の葉一枚と言い、彼自身も好んでそれを名乗ったという。


 この間の抜けた二つ名の忍は、後に伝説の三忍と呼ばれることになるのだが、それはまだしばらく先のことである。





忍道・珍 木の葉一枚のチンの巻 了


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