絵描きは悪魔の絵を描く
屋敷に来てから三日目。今朝も降り続く雨に、ディータは安堵の溜め息を漏らした。
特に先を急ぐ旅ではないから、止まない雨の中を無理に出発する必要はない。無償で世話をして貰っているということに罪悪感は抱くものの、まだこの屋敷に居られる口実が出来たことが素直に嬉しかった。
それに、ディータにはやるべきことが出来た。ここに住むクリスとベル、そしてセシルの三人の絵を描かなければ。クリスが望んだことであり、ディータに出来る唯一の恩返しなのだから。持てる技術の全てを注ぎ込んで描き上げなければ。
……だが、そのためには先ずやるべきことがある。
「うーん……やっぱり、一度はモデルになって貰わないと描けないよなぁ」
スケッチブックと鉛筆を片手に、ディータは屋敷の中をうろつく。正直、困り果てていた。クリスは親しみやすい性格だったから良かったが、他の二人はそうではない。
セシルは連日の雨に「洗濯物が乾かない」とこれ見よがしに不機嫌だったから、頼み事をする勇気が出なかった。ベルに至っては一昨日から姿を見ていない――昨夜は朝早くに出掛けて、夜遅くに帰ってきていたらしい――こともあり、探すことすら抵抗を感じてしまう。
何より、昨日のクリスの話が脳裏に強く焼き付いてしまっていた。配偶者が居ながら、クリスを囲いこの屋敷で暮らす悪魔。悪魔、という存在自体に恐れを感じることもあって、とにかくベルのことが恐ろしくて堪らない。
せめてクリスが一緒に居てくれれば。そう思って探しているのだが。彼もまた、共犯だ一度も姿を見ていない。
一夜経ったにも関わらず、時折ふわりと香るクリスの残り香に一々心が踊ってしまう。そう、ディータは滑稽なくらいに油断してしまっていた。
「……おい、絵描き。こんなところで何を間の抜けた顔をしてやがる?」
「へ? ……うわっ! べ、ベルさん!?」
突如、背後から聞こえてきた声にディータは反射的に飛び上がるようにして驚いた。浮かれていた気分を、冷水が押し流してしまうのを感じる。
そこに居たのは他でもない、呆れ顔でこちらを見下ろしているベルだった。一昨日と同じ軍服姿、背丈はディータよりも頭一つ分以上大きい。
老いながらも、衰えを知らない狼のよう。あまりの迫力に圧倒され、ひっくり返りそうになるのを何とか堪える。
「……え、ええっと。お、おはようございます」
「ククッ、ああ。セシルと言いテメェと言い、人間は早起きだな」
ニヤリと笑いながら、ベルが言った。咄嗟に挨拶をしたものの、ディータの頭の中は完全に混乱してしまっていた。
どうしよう。どうやって絵のモデルを頼もうか。否、それよりも先ずはクリスとのことを白状すべきか。クリスに手を出したと言うべきか、秘密にするべきか。
……今はとりあえず、様子を見よう。
「あ、あの……ベル、さん。お願いが、あるのですが……その、絵のモデルになって欲しくて。えっと……おれ、これでも絵描きでして。無名ですけど」
「絵? ……ああ、クリスが言ってたな。昨日の夜、嬉しそうにはしゃいでやがったぞ」
「え……く、クリスさんが」
ぎくり、とディータの肩が跳ねる。まさか……クリスは自ら自分との関係をベルに告げたのだろうか。既にベルは知っているのだろうか。
ディータが返答に迷っていると、ベルが先に口を開いた。
「仕方ねぇな、クリスが気に入ったんなら付き合ってやろう。スケッチのモデルになれば良いんだろう?」
「え、あ……はい!」
「モデルっていうのがイマイチわからねぇが……しばらく大人しくしていれば良いんだろう? 今日は書類仕事があるからな。そのついでで良いなら、好きにしろ」
「十分です、ありがとうございます!」
ペコペコと、何度も頭を下げるディータ。まさか、ベルの方から切り出してくれるとは! 安堵と歓喜に胸をなで下ろしていると、不意にベルが踵を返して歩き始めた。
どうやら、付いて来いと示しているようで。ディータが慌てて小走りで大きな背中を追いかける。
「ベルさん。今日、クリスさんを一回も見ていないんですけど。出掛けているんですか?」
「あ? ククッ、クリスはまだ寝てるぞ。そもそも、吸血鬼も悪魔も夜行性だからな」
「な、なる程」
「ま、そんなことは関係なく。多分、今日は起きて来ねぇと思うぞ。立てるかどうかも怪しいからな」
「え……ど、どうしてですか?」
ベルの不穏な言葉に、ディータは問い質してしまう。立てない程に体調を崩してしまったということだろうか。どうして、昨日はあんなに元気そうだったのに。
まさか、自分のせいだろうか。彼に求められるままに、初めて経験する快楽に無理をさせてしまったのだろうか。ディータはあれこれ考えるも、ベルの唇から紡がれた答えは予想だにしないものであった。
ベルが放ったのは、たった一言だけ。浮かれていた気分に、氷水を浴びせられたかのような感覚に陥ってしまう。
「俺以外の男の匂いが気に食わなかったから、仕置きに抱き潰しただけだ」
ベルが向かった先は、ディータが一番最初に彼等と出会った部屋だった。どうやら、ここは彼の仕事部屋兼書斎のようだ。
大きな両袖の机の前に腰を下して、何やら書き仕事を始める壮年の悪魔。手元まで覗く勇気は無い。だが、軍服と書斎という組み合わせが想像以上に彼に似合っており、無意識に感嘆の溜め息が零れてしまう。
横暴な男かと思っていたが、こうして見るといっそのこと王さまのような風格だとディータは感じた。部屋の隅にあったスツールに座って、引き込まれるままにスケッチブックを開く。
「……ベルさんって、お仕事とかするんですね」
「おいコラ、この俺様が無職だと思ってたのかよ?」
「い、いいえ! 何ていうか、その……お金持ちっていうか、資産家とか、そういう方だと思っていたので!」
金色の鋭い眼光に、ディータは震えた。正直、意外だった。
「……まあ、金があるっていうのは否定出来ねぇな。軍人時代に荒稼ぎした金が、まだたんまりと残ってるからな。だから、この世界での暮らしだけを考えれば働かなくても当分大丈夫だ。だが、あっちの方はそうでもねぇんだ」
「あっち……魔界、ですか?」
「ほう? 知っていたのか。そうだ。これでも七十二柱の一人だからな、最低限の仕事をしねぇと」
「七十二柱……?」
「んー、何て説明したら良いか……人間の国にも王様とか大臣とか居るだろ。あんな感じだと思えば良い」
かなり簡略化された説明であったが。つまり、魔界は王を含めた七十二人の悪魔によって治められており、ベルはその内の一人ということらしい。
「今は魔界も平和だからな。俺の仕事は、たまに人間界の様子を魔王陛下に知らせてやれば良いだけだ」
「そう、ですか」
どうやら、機嫌が良いらしい。饒舌なベルの声に耳を傾けながら、ディータはスケッチを続ける。だが、思考は徐々に黒く淀み始める。
原因は、この部屋に来る前に放たれたベルの一言。クリスを抱き潰した。その台詞が何度も何度もディータの思考を焼く。
「……どうして軍人さんの服を着ているんですか? クリスさんは、元々神父さんだったからそのまま着ていると言っていましたが」
「ああ、俺も昔は軍人だったからな。俺の場合は、ただ人間のふりをしていただけだが」
「なぜ、そんなことを?」
「魔王陛下の命令だ。今の魔王さまは温厚な平和主義でな、人間界であろうとも争いが続くのは我慢ならなかったらしい。だから、俺を含めた悪魔が何人か派遣された。結論を言えば、それなりに平和的な終戦を迎えられたと思うぜ?」
ベルの言う通り、確かに数十年前までは世界中を巻き込んだ壮絶な戦争が続いていた。血で血を洗うような苛烈な戦いであったが、その幕引きは意外にも友好条約を結ぶという静かで呆気ないものであった。
当時、戦に関わっていた人は今の世界にどれだけ残っているか。……否。クリス曰く、彼は九百年近く生きているというから別段おかしいことは何も無いのだろう。
何にせよ、人間のディータからすればとんでもない話なのだが。
「それに、この服を着てるとクリスが嫌がるからな」
「え?」
「アイツは俺が悪魔だと知りながらも、ずっとあの服を着ているからな。仕返しだ、クククッ」
ベルが強気に笑う。昨日、クリスも似たようなことを言っていたが……お互いに嫌がらせをしていることに気が付いているのだろうか。
否、そんなことよりも。
「あの、ベルさん。クリスさんが言ってたんですけど……神父さんだった頃、あなたに襲われたって。本当……ですか?」
思わず、口を突いて出てしまった。二人の過去。クリスは昨日、ディータを誘惑したと言っていた。だから、その為の嘘だったのかもしれない。
……でも。ベルは、まるでディータからその問いかけが出るのを待ち望んでいたかのように嗤った。
「ああ、本当だ。クリスは嘘を吐かねぇからな」
「……!?」
口角を吊り上げて、ベルは嘲笑わらう。否定するどころか、狼狽える様子すら見せない。
ディータの中で、小さな火種がくすぶり始める。
「ベルさん、あなたの左手の薬指に指輪が嵌っていますよね?」
「ああ、これか。これがどうした?」
「……人間の世界では、それは配偶者が居るという証です。でも、この屋敷にはあなたの他にクリスさんとセシルさんしか住んでいないと聞きました」
「ははっ、そうだな。魔界でも同じだぜ、これは結婚指輪だ。妻は魔界に居るぞ」
そう言って、ベルが左手をひらりと振った。銀色の指輪が、鈍く光る。
「言っておくが、まだ健在だぞ。あっちでドレスやらカバンやらをデザインする仕事をしている。中々の美人で料理も上手い、自慢の妻だ」
ほんの少しだけ、柔らかくなる笑み。ああ、どうして。今までに何人もの人間をモデルに絵を描き、観察してきたディータだからわかる。ベルは、嘘は言っていない。
間違いなく、彼には伴侶が居て。そして、愛している。魔界から離れた場所に居ながらも、指輪を外さない理由は明らかだった。
なんて、酷い。
「……そんなに回りくどく探らなくても、直接聞いたらどうだ? 既婚者の身でありながら、どうしてクリスを襲ってこんな場所で暮らしているのかって」
「え……」
ペンを置いて、ベルが真っ直ぐディータを見る。決して睨んでいるわけではない。だが、彼の眼光は鋭く射貫くよう。
緊張で息が詰まる。
「図星、の顔だな。悪いが、クリスの言動は俺には全てお見通しなんだよ。昨日、アイツがお前と何をしていたのかも、何を話したのかも全部な。それに、クリスがこの指輪を嫌がっているのも知ってる。直接話したことはないがな」
「……どうして、クリスさんを傷つけるようなことを?」
「お、ようやく本音を出してきたな」
にやりと、凄みのある笑み。もう、無かったことにはできない。ディータは覚悟を決めた。この感情と向き合う覚悟を。
――クリスを傷付けるベルを許さない。
「あなたには奥さんが居ながら、クリスさんの自由を奪い餌として傍に置いている。笑っていたけれど、クリスさんは本当に怯えていました。どうして、そんな酷いことを? なぜベルさんは、あの人の幸せを奪うようなことをするんですか?」
「幸せ、か……確かに、俺はクリスと最初に会った時にアイツを無理矢理襲った。それで怖がらせたのは認めよう。だが……俺は、アイツの幸せを奪ったことなんて一度もねぇよ」
別の見方をしてみろ。ベルが嗤いながら言った。
「話くらいは聞いたことがあるだろう。人は死ぬ寸前に、幸せな夢や幻を見るって。クリスが俺と出会った時もそうだった。アイツは、死ぬ寸前だったんだ」
「え!?」
「生き物は飯が食えないと死ぬだろ? それと同じだ、クリスは餓死寸前だった。吸血鬼にとっての飯は血だ。血じゃねぇと飢えを満たすことは出来ねぇ。人と同じ飯を食っていても、アイツはずっと飢えていたんだ。それを自分では感じることが出来ないくらいまで、アイツは弱っていた」
ベルが言った。クリスは神父として、神に仕えるものとして節制した生活を送っていた。もちろん血なんて、長い間口にしていなかったのだろう。吸血鬼という人外だったからこそ、彼の飢餓状態はゆるやかに悪化していった。クリス自身でさえ、気が付かない程に。
そして、彼は幸福を得た。でもそれは、凄まじい飢えが彼に見せた『幻覚』でしかなかった。
「クリスは言っていたな、自分は神に愛されていたと。だが、お前は知っているだろう? 神は良い意味でも、悪い意味でも平等だ。強い者を抑えることもしなければ、弱者を助けることもしない。神は誰かを愛したりしない。だからクリスが、神に愛されていたことなんて……一度もない」
ベルは語る。クリスが得たと思っていた、そして奪われたと思っている幸福。それらは全て、彼が見ていた幻覚でしかなかった。最初から、存在しなかったのだ。
もしも、そのままベルと出会わなかったら。クリスは間違いなく餓死していた。
自分は神に愛されているという、虚像の中で。
「で、でも……だからと言って、あなたがクリスさんに働いた行為は彼を傷付けているだけです!」
「へえ、言うじゃねえか。それなら、あのままクリスを餓死させておけば良かったって? ひでぇな、お前」
「ち、違う……そうじゃ、なくて」
「けどな。実を言うと、罠に嵌ったのは俺だったんだ。お前も思い知っただろうが、クリスのあの香り……餌を誘い込む為の催淫作用がある。あの時、クリスは飢餓状態ゆえに無意識に香りを振り撒いていた。それに惑わされたんだ。俺も腹が減っていたからな、最中に失血死寸前まで噛み付かれてるとは気が付かないくらいにな」
そうしてベルはクリスの魂を、クリスはベルの血を飲むことで命を繋ぐことが出来た。吸血鬼でありながら、それまで聖職者として生きてきたクリスの魂はベルの嗜好に合っていたそうで。ベルはクリスを攫い、この屋敷で暮らすようになった。
「……それなら、どうして指輪を外さないんですか? あなたはクリスさんをどう思っているんですか?」
「俺も、あいつもお互いのことを餌としか思ってねぇよ。やることはやってても、クリスとは断じてそういう関係にはならねぇ。この屋敷に『幸福』なんて存在しねぇんだ」
「ッ――――!!」
許せない。ディータの思考が真っ赤に染まる。クリスの幸せは存在しない夢幻のものであった。だが、それならどうして彼に幸せを与えようとしないのか。
否、それだけじゃない。ベルはクリスだけではなく、指輪を贈った妻のことまで蔑ろにしている。他者の幸せを弄び、踏みにじるだなんて。
無意識に、左手がポケットの中のナイフを掴む。小さな刃だが、手入れは欠かしていない。切れ味は問題無い。
人……いや、悪魔を一人くらい――
「残念だが、テメェみたいな人間に殺される程ヤワじゃねぇよ」
「ッ、な……」
沸騰しかけていた頭が、一瞬で冷やされるのを感じた。音もなくディータの前に降り立ち、額に触れてくるベル。たったそれだけで、血の気が引いた。
目の前が暗くなり、スツールに座っていることすら出来ず。崩れるように床へと倒れ込み、途切れそうになる意識を何とか繋ぎ留めるように歯を食いしばる。
「へえ、なる程……お前、両親と妹の四人家族か。十四歳の時に画塾に通うも、上手く馴染めず。それでも絵描きの夢は捨てられずに今は絵を描きながら旅を続けている、と」
「どうして、それを……家族のことはクリスさんには言ってないのに」
「残念だが、俺に隠し事は出来ねぇよ。今、テメェの魂を少し味見させて貰った。魂っていうのは、記憶や感情の集合体だからな。お前の過去も、俺に対する殺意も全て筒抜けなんだよ」
ディータを見下ろしながら、くつくつとベルが嗤う。このまま殺されてもおかしくはないし、文句も言えない。ディータは覚悟を決めて、目をギュッと瞑った。
だが、ベルがトドメを刺してくることはなかった。代わりに、一つだけ問い掛けてくる。
「……小僧、お前は『幸せ』という代物の本性を知っているか?」
そう言って、ベルは先程のように机の前に腰を下した。助かった……? 肌を舐めるような寒気に、腕を擦りながらディータは彼を見つめる。問い掛けの意味が、上手く飲みこめなかった。
幸せとは、何か。ディータは、答えられなかった。
「くくっ、哲学的だったか? 人間の寿命は精々百二十年。大して長くはないその時間を精一杯に生きようとする。自分、もしくはそれ以外の者の為に。根幹にあるのは幸福。ならば、お前達が求める幸福とは何だ、幸せとは何だ? ……いや、言い方が悪いな。お前が思う幸せとは、何だ?」
「そ、それは……」
「自分の絵が売れて、世界に名を馳せることか? 金持ちになって、裕福な生活を手に入れることか? 愛する伴侶を見つけることか? 答えられないのなら、代わりに答えてやろう。自分が満たされれば、それを幸福と呼ぶんだ」
言い換えれば、とベルが続ける。
「幸せというものは、個人によって価値が異なるということだ。愛する家族が飢えずに生活できればそれで十分だと思う者も居れば、金や愛、そして名誉の全てを手に入れても尚足りないと言う者だって存在する。幸せという代物は目には見えず、形を持たず、無限のように思わせながらも有限。それは果たして……存在すると言えるのだろうか。そんなものを追い求めるということ程、くだらないものはないと思わないか?」
「そ、そんなこと――」
「いや、お前は思っている。才能のあるお前を僻んで、嫌がらせをしてお前の居場所を奪ったヤツらは幸せだったんだろうぜ。自分よりも優れたお前の可能性を潰し、自分が前に出られるチャンスを増やすことが出来たんだからな。そいつらが得た幸せはそういうものだ」
ディータは何も言い返せなかった。そうだ、彼の言う通りだ。幸せという価値観は人それぞれだ。決まった形は存在せず、定義を持たない。唯一の条件としては、心や気持ちが満たされることだろう。
だが、満足する為には時に他人を傷付けてしまう場合がある。他でもない、ディータがそれを知っている。
……そうだ。
所詮、幸福なんて個人の自己満足。自己満足を、他人と共有することなんて出来ない。出来ていると思っても、それは押し付けているだけだ。
「俺の妻は、とにかく子供が欲しい、家族で過ごしたいっていう願望が強くてな。だが、俺はそういうのは苦手でな。妻のことは大事に思っているが、あいつの幸せを叶えようとすれば絶対に破綻してしまう。クリスもそうだ、あいつの望みはわかっているし叶えてやれないこともない。だが、それもやはり破綻する。今の状態が丁度良いんだ俺にとっても、クリスにとってもな。だが、お前が望むのならばまた別だ」
「え?」
「クリスはお前のことを気に入ったらしい。俺もそれなりに気に入っている。お前の血、そして魂は中々に質が良い。餌として申し分ない。この屋敷で餌として暮らすなら、衣食住は面倒見てやる。代わりに幸せを諦めて貰う上に、セシルのように定期的に血と魂を貰うがな。殺しはしねぇよ」
どうだ? とベルが聞く。それは、ディータにとってはこの上なく魅力的な申し出だと思えた。
不思議な屋敷で、何の不自由もなく暮らせる。彼等と共に、同じ時間を過ごせる。決して幸福ではないものの、欲と快楽とまみれた蜜の日々。
――その言葉がまるで、『毒』のようにディータの心に染み渡る。
「ま、返事は急がねえからよ。考えてみてくれねぇか? この雨が止むまで……な」
そう言って、ベルは再びペンを取る。それ以降、部屋を出るまで二人が言葉を交わすことはなかった。