絵描きは吸血鬼の絵を描く
「ねえ、服は脱いだ方が良いの?」
「脱がなくて良いですから!」
「あはは! 何だ、ざーんねん」
部屋に連れて来たクリスを、とりあえずベッドに座らせる。この部屋はディータが知るどんな宿の個室よりも豪華で、清潔で、上等だった。
窓とドアを閉めれば、室内は十分に温かい。ベッドはふかふかだし、テーブルや棚には埃一つない。この部屋の調度品もまた、ロココ調で統一されている。
退廃的な紅と黒の空間。そこに住むのは、祭服の吸血鬼。
「部屋に連れ込んで、ベッドに誘われたから……期待したのに」
「な、何を言ってるんですか!」
椅子を引き寄せて腰を下ろしながら、ディータが叫ぶ。頬が熱くなるのがわかる。いや、決して意識しなかったわけではない。だって、昨日見てしまったから。
ベルの雄々しい手に、荒々しく扱われているところを。思えばあの時、ディータが部屋に入らなかったら。彼はどうなってしまっていたのだろうか。
……いや、何を考えているんだ。自分にそういう性癖はなかった筈。邪念を思考の端に押し退けて、ディータはスケッチブックに鉛筆を走らせる。
だが、彼を見れば見る程に、クリスの美しさに魅了されてしまう。中性的な容姿に、煌めくピジョンブラッドの瞳。肌は陶器のように滑らかで、銀色の髪はさらりと揺れる。
手が冷え切っていた印象が色濃く残っているからだろう。乱暴に触れれば、壊れてしまいそうな。彼の美貌は、そういう繊細な類のものだ。
「あの……クリスさんって、男……ですよね」
「うん? ああ、性別の話かな。そうだよ、何で?」
「いや、その……同じ男にしては、随分綺麗だなって思って」
「あはは! そういうことか。吸血鬼は男でも女でも、美形に育つことが多いみたいだよ? 獲物を誘いやすくするように、ね。色鮮やかな花弁と甘い蜜で蜂や蝶々を呼び寄せる花と一緒さ」
クリスが笑う。ううむ、なるほど。でも、多くの花は寄ってくる虫を食べたりはしないが。
「だから、吸血鬼は一番キレイで魅力的に見える時期で成長が止まっちゃうんだって。ボクの場合は……人間で言うと、十五歳くらいかな」
「その人によって違うんですか?」
「そうだよ。中には三十代とか、逆に六十代くらいの人も居るね。ボクはもう少し大人な身体になってから止まりたかったけど……ふふん、これでも三世紀は生きてるんだよ」
「え……三百歳、ってことですか」
「あ! 今、スゴいおじいちゃんだって思ったね? 言っておくけど、べるべるはボクの三倍以上生きてるから!」
むすっ、と不貞腐れるクリス。吸血鬼や悪魔は不老不死だと聞いたことがあるが、正しいらしい。
……それにしては、どうにも幼いようだが。
「ふふっ、でも嬉しいな。絵描きさんにキレイって言われると、なんか照れちゃうねぇ」
クスクスと、クリスがはにかむ。本当に照れているのか、頬がほんのり赤くなっている。可憐だ。不覚にも、心臓が跳ねた。
思えば、借りているとは言え美青年が自分の部屋に、それもあろうことかベッドに腰掛けているだなんて。しかも、相手は祭服を着込んだ聖職者の装いだ。
神に仕える身でありながら、男の部屋に連れ込まれて……そんな背徳的なシチュエーションに、思考に靄がかかる。
「んー? どうしたの、手が止ったけど」
「え、あ……その、クリスさんの着てる服って……キャソックですよね? 神父さまが着てる」
「うん、そうだよ。昔からの名残りで落ち着くっていうのもあるけど、単純に嫌がらせ目的で着てるんだ」
「嫌がらせ?」
「ふっふっふ。ほら、べるべるって悪魔じゃん?」
悪魔じゃん、と言われても。実際彼が本当に悪魔なのか、そもそも悪魔という存在自体がよくわかっていないのだが。よく本や絵で描かれる悪魔は、翼や角が生えていたり、恐ろしい姿をしているものだが。ベルには特にそういう特徴は見られなかった。
ディータが悩み、黙っていたからだろうか。クリスはふっと小さく微笑むと、静かに語り出す。
それは今までの笑みとは違う、酷く痛々しい自虐的な笑みだった。
「ねえ、ディータ。ボクがこの部屋に来る前に言ったこと、覚えてる? 元々ボクは神父だったって」
「……はい」
「ウソじゃない、本当のことなんだよ。そうだなぁ、この屋敷に来る前だから……百年くらい前かな」
「本当、なんですか? あの、言い方が悪いとは思いますけど……吸血鬼が聖職者になれるだなんて」
「そもそも人外は、意外と上手く人間に化けて暮らしていたりするんだよ。ディータの身近な人達の中にも、人外が居たかもしれないね? でも、流石に聖職者の中に人外が紛れ込んでいるのは珍しいと思うよ。人外は邪悪の化身だからね、神さまに嫌われているんだ。……でも、ボクだけは違った。ボクは神さまに許されていた、愛されていたんだ」
クリスは語る。彼がどういう経緯で、聖職者になったかはわからない。それは遠い遠い過去のことだから。でも、彼は確かに聖職者として神に仕えていた時期があったのだと言う。
神に許され、愛される為に吸血鬼としての本性を必死に押し隠した。絶対にして大いなる存在は、そんなクリスを許し、愛したという。最初は吸血鬼の彼を気味悪がっていた人間達も、いつしか彼を慕うようになった。
持ち合わせていた美貌と、温厚で親しみやすい性格に人々は心を寄せた。神聖で、厳かで。充実した日々だった。神、そして人々から愛されて。クリスは自分の身に余る『幸福』に満たされていた。
――でも、彼の『幸福』は突然終わりを告げた。
「さっき、ボクの身体が冷えてるって言ったよね? でも、違うんだ。この温度は、いつものことだよ。どんなに暑い日でも、どれだけ暖炉を焚いても……あの日からずっと、ボクの体温はこんな感じ。ううん、体温だけじゃないね。体力も腕力も、かなり落ちてる。魂が食べられちゃっているからね、仕方がないことなんだ」
「魂が食べられている……?」
クリスの言葉に、ディータは目を大きく見開いた。そういえば、聞いたことがある。悪魔は人を誘惑し、時には契約し、魂を喰らうのだと。
魂を食われたものは抜け殻のようになり、やがて衰弱して死ぬ。
「ああ、でも見ての通りこうして生きてるから安心してね。吸血鬼だから、人間よりもずっとタフに出来てるっていうのもあるけど……あの悪魔、ボクが死なないように毎日少しずつ齧ってるんだよ。だから、こうやって力は落ちてるけど生きてるってわけ」
「で、でもそれって」
「あの日、大切だと思っていたものを全て奪われてしまった瞬間から、ボクはベルンフリート・エリゴスという悪魔の『餌』になってしまった。セシルちゃんだけじゃない、ボクも所詮は……あの悪魔の飢えを満たす為だけの所有物モノでしかないんだ」
仄暗い感情が、クリスの美貌を曇らせる。紅い双眸は今にも泣きだしそうな程に潤み、華奢な肩が小さく震えている。
自分の身体を抱き締め、クリスが絞り出すように言った。
「ねえ、あの悪魔が何をしたと思う? ボクは今でもよく覚えているよ。あれはとても綺麗な満月の夜……銀色の月光を浴びて、頭上にあったステンドグラスから虹色の光が教会の中いっぱいに降り注ぐ、そんな美しく幻想的な夜だった。鍵を締めた筈の扉が力づくで開けられて、あの悪魔はボクに襲い掛かった。教会での生活のせいで、ボクの力は人間と同じくらいまで落ちてしまっていた。それに、ベルンフリートは悪魔の中でもかなり強力な悪魔だからね。体格差もあったし、彼から逃げることも……いや、抵抗らしい抵抗なんて出来なかったよ」
「クリスさん、もう――」
「最初に、彼は自分の指をボクの口に突っ込んできたよ。咄嗟に噛み付いたのがいけなかったね。彼の血が、舌を伝って喉に流れ込んだ。大した出血量じゃなかったと思うけど、それでも凄く熱く感じて……ずっと我慢してたのに、ボクの吸血鬼としての本性が呆気なく目覚めてしまった。そして彼は、ボクの服を引き裂いて身体を押さえ付けて……すごく痛かった。苦しかった。怖かった。でも、何度も繰り返される内に……変だよね。ずっと神さまに仕えていた筈なのに、愛されていたのに。悪魔に触れられることが……凄く」
――気持ち良くなってしまった。
クリスの言葉は、呪詛そのものだった。ディータの中で、何かが焼き切れる。遠くの方から聞こえた物音が、スケッチブックを床に落としてしまった音だと気がついたのは随分後のことだった。
甘い香りが強まり、肺を満たす。そういえば、この香りは一体何だろう? どこから香るものだろうか。
「ディー、タ」
花……否、蜜だろうか。石鹸や香水とは明らかに違う。そういえば、先程クリスが言っていた。吸血鬼は花のようなもの。美しく咲き誇り、自分の餌となる獲物を誘い込むのだと。なる程、納得だ。
性別を超越した美貌に、劣情を抑えることなど出来ない――
「んっ……ふふふ、捕まえた」
「え……ええ!? く、クリスさん? おれは、一体何を――」
「えー? 今更とぼけないでよ、そっちから襲てきたくせにさぁ」
「うわわっ!!」
視界が回る。ふんわりと甘い香りに包まれ、身体は柔らかいベッドに倒される。突然のことに理解が追いつかない。自分は今、何をした?
どうして、クリスが自分の上に居るんだ。しかも、覆い被さるような形で。
「な、ななな……」
「うーん、久しぶりに誘惑してみたけど……ディータって真面目なんだねぇ」
「誘惑!?」
「うん、そうだよ。ディータにボクを襲わせようと頑張ってたんだけどねぇ。服のボタンを外させるので精一杯だったよ」
神父の装いは剥がれ、見せ付けられる淫靡な印。白い肌に刻まれたいくつもの紅い痣は、毒々しい程に鮮やかだ。
先程の怯えた表情は何処へやら。クリスは僅かに頬を紅潮させ、露になった鎖骨を自らの指でつうっと撫でる。不覚にも、喉が鳴ってしまう。
「あはっ、まだ気が付かない? きみはねぇ、今からボクの餌になるんだよ。罠にハマっちゃったねぇ、可哀想に」
「餌って……ええ!? って、ことは今のは全部嘘だったんですか!」
「んーん、あれは全部本当の話さ。ボクは間違いなく神父だったし、ボクを襲って穢したのはベルンフリート。でも……もうそんなことはどうでも良いんだ。ボクが許せないのは、たった一つだけ。彼が絶対に指輪を外さないことだよ」
「ゆ、指輪?」
「ねえ、ディータは気が付いた? べるべるの左手、薬指……指輪が嵌ってるの。あの人ね、既婚者なんだよ。奥さんが居ながら、この屋敷で暮らしてるんだ」
クリス曰く、ベルの配偶者のことはほとんど知らない。ただ彼の妻は今も魔界――悪魔や吸血鬼などが住まう世界のこと――で暮らしており、ベルは一か月に一度程度の頻度で会いに行くのだそう。
それ以外のことはわからない。名前も、年齢も。どんなところに住んでいるのか、何をしているのかも。
「でも、多分だけど結構趣味が良くておしとやかな人だと思うよ。いっつも柑橘系の香水付けてるから」
「何で、そんなことを」
「え? だって、べるべるに香りが移ってるからねぇ」
するりと、冷たい指先が頬を撫でる。
「本当にムカつくよね。彼に穢されたことも、ここに閉じ込めて餌にされることも今となってはどうでも良いんだよ。でもね……あの人が一瞬でもボクのことを愛してくれないことだけが許せない。ベッドの中でも指輪を外さないんだよ? 酷いよね、ディータもそう思うよね」
だからさ。頬から首筋、そして胸元に辿り着いた手がシャツのボタンを外す。振り払わなければ。彼は人外だが、体格的にはディータの方が勝っている。事実、跨っているクリスは驚く程に軽い。突き飛ばせば逃げられる。
……でも、
「く、クリスさん」
「ねえ、ディータ。夜までの間で良いから……ボクの餌になって。ボクの飢えを癒して」
甘い匂いが思考を、理性を掻き乱す。窓を叩く雨音が遠ざかり、自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。
恐怖と罪悪感が消え去って。残ったのは、浅ましい欲だけ。
「……おれ、今まで恋人とか居たことなくて。えっと、全然経験が無いんですけど」
「ふふっ、知ってる。だから、きみを誘惑してるんだけど」
「そうでしたね。……それなら」
「……え?」
視界が再び回る。銀の髪が、シーツに散らばる。驚きに見開かれた瞳がディータを見上げた。
理性なんて、とっくに焼き切れている。あるのはただ、劣情だけ。欲望の赴くままに、まるで満開に咲き誇る花弁のような紅い痣を撫でる。
その度に、息を詰まらせるクリスに自然と口角がつり上がる。
「あっ、ひぅ……ディータ」
「色々と、教えてくれませんか? あなたのことを、全部。クリスさんの心の傷を、少しでも癒してあげたいので」
自分でもわかる、欲に濡れた声で囁く。今、自分がどんな顔をしているかなんてわからない。男同士、しかも吸血鬼であるクリスとこんな交わりを犯すだなんて、許されるわけがない。
それでも……もう止められないし、彼も自分も止まるつもりはなかった。