七章
「ちーっす……」
放課後の野球部室内に覇気のない声が聞こえてくる。およそ運動部として似つかわしくない声に部室内の視線が声の主の元へと向く。
「おいおい。まだ部活も始まってないのにそんな声出す奴があるかよ」
「あー、ちょっと今日は疲れててなあ……」
呆れたように声を掛ける和彦に健一は言葉通りくたびれ切った表情を見せる。肩も落として疲労困憊といった様子だ。
「そんなに疲れることあったか? 別に授業も普通だったろ?」
「プライベートでちょっとな」
「あー、森本か」
鋭く原因を指摘する和彦に健一は素直に頷く。茜との雰囲気が不穏であることは和彦も察していたので、思い至っても何も不思議ではなかった。
朝こそ無理矢理話を打ち切って逃げ出すことに成功したが、結局茜がそのまま引き下がることはなかった。健一の予感はやはり的中したのである。
朝練後の昇降口、休み時間、昼休みと茜は自由時間ができる度に健一へと接触を試みてきた。そのあくなき執念に健一はほとほと困り果てることとなった。
茜が襲来する度に健一は離脱行動を取ってかわしてきたのだが、流石にいつまでもこんな状況が続くのは勘弁願いたいところであった。今日一日だけでこれだけ疲れたというのにこれが続いては本当に参ってしまう。
「どうにかしないとなあ……」
「モテるってのも考えもんだな。初めてモテなくてよかったと思ったぜ」
深い悩みに落ち込む健一に和彦は同情の視線を向ける。いつもは茜の話をする度に悔しそうな顔をしていたというのに現金なものだと思ったが、たしかに今までは美人な彼女がいるという優越感をばら撒いていただけに文句はつけられない。
「まっ、悩みなんか思いっきり体動かせば発散しちまうもんだ。とっとと練習行こうぜ」
「そうだな。今日は思いっきり投げ込んでやる」
いかにも脳筋そうな和彦の発言だったが、今は好きなことやって忘れた方がいいと健一も割り切ることにした。練習中は茜も接近できないので余計なことを考えずに済む。
そうと決まったら、さっさと練習へ向かおうと健一は着替えを済まし、道具を持って和彦と一緒に部室を出る。
「今日は飛ばしていくからなっ!」
「ああ、全部受けてやるよ。……と思ったけど、お客さんみたいですよ?」
やる気満々で部室を飛び出した健一に和彦は怯えたような様子で前方を指差す。いつでも強気な和彦らしくないと不審に思う健一だったが、その指の差す先を見るとそこにはたしかに恐ろしい鬼の姿があった。
「やっと捉まえた」
「あ、茜……」
いつも練習中には姿を現さないので油断していた健一は、茜の姿を目に映すと驚愕の表情を浮かべる。もはやなりふり構わないという本気の意志が健一に襲い掛かる。
「何で逃げちゃうの? 話したいこといっぱいあるのに」
「そ、そっちこそ何でこれから練習なのにここにいるんだよ。部活中はグラウンドに入っちゃダメだって言っただろ」
まさかの茜の登場に驚いた健一だったが、何とか平静を取り戻して茜に注意を促す。果たしてこんなことを言って、聞き入れるのかどうか謎だったが、ルールなのだから言わずにはいられない。
しかし、茜にとってはやはりそんなルールはもはやどうでもいいようで立ち去る気配など微塵も見せない。むしろ健一の元へと歩を進めて間合いを詰めるぐらいである。
「イヤだ。ここから出たら、また健一逃げる気でしょ」
「わかったよ。逃げないから。だから頼むから練習中だけは勘弁してくれ」
「本当?」
「本当だよ。練習の後で話をしよう」
とにかくこんな部員の目につくような場所で痴情のもつれを展開したくないと健一は茜との話し合いに応じることにした。不本意ではあるが、どのみち話をすることは避けられないのだからちょうどいい。
ようやく健一から妥協の意志を引き出した茜はそれでとりあえず満足したのか、強張っていた表情をあっという間に笑顔に変える。本当に今の状態さえなければ、見とれるような笑顔なのにと健一の胸中は複雑であった。
「じゃあ、わかった。終わるまで待ってる」
「多分いつもと同じぐらいに終わると思うから」
ようやく納得がいったようで約束を取り付けた茜は部室を後にしてグラウンド外へと去っていく。足取りは非常に軽やかでご機嫌な様子が窺える。
一方で健一の方は一仕事終えたといった風に肩を下ろす。ただでさえ今日一日の逃亡生活で疲れ切っていたのに追撃が来たのだから無理もない。そのうえ、まだ一仕事あると自身の横で黙って立っている和彦の方を見る。
「……見てたし、聞いてたよな?」
「もちろん。お前ら別れるのか?」
「少なくとも俺はそのつもりだ」
これは詳細を話さないといけないよなあと健一はうんざりした様子で天を仰ぐ。その代わりに和彦の口止めをしておかないといけない。ちっとも野球に集中できそうもなかった。
(茜がいようといまいと今日は振り回されるってことだな)
もう今日はどうしようもないと割り切った健一は和彦を伴ってグラウンドへと歩き出す。今日だけは頼りになる恋女房が途轍もなく憎らしく思えるのだった。