六章
「いってきます……」
茜に別れを告げた翌朝、健一はいつも通りに家を出た。
だが、清々しい早朝の空気に似つかわしくなく、健一の表情は暗く曇ってしまっていた。
(茜のやつ、どんだけメッセージ送ってくるんだよ……)
昨晩、家に帰ってからというものの、納得のいかない茜からの着信が相次ぎ、健一はほとほと疲れて果ててしまっていた。
さすがに我慢ならないと着信拒否にしたが、その執念にはある意味尊敬の念さえ抱いてしまう。
(これで諦めるとは思えないんだよなあ)
あれだけの着信攻勢を見せた茜のことを考えると、直接接触してくることは間違いないと健一は覚悟していた。
いつもであれば、まだ茜は登校していない。健一が学校に到着して朝練をこなし、教室へ向かおうとする時にようやく遭遇するのである。それでも今この瞬間、目の前に現れてもおかしくない。そんな風にさえ思えてしまう。
(最悪寝ずにいて待ち構えるとかあるかな? まさかね)
朝に弱い茜が今、接触してくるとしたらそれぐらいしかないと想像した健一だったが、それはさすがにあり得ないと自身で笑い飛ばす。自身の魅力を十分に把握している茜が美貌を損なうような不摂生をするわけがないと健一が一番よくわかっているのである。取り越し苦労というものだ。
「まあ、一悶着あるとしたら放課後かな」
「一悶着って何よ」
「えっ!?」
いきなり脇から掛けられた声に健一は驚きの声を上げて歩みを止めた。
まるで金縛りにあったかのように健一は体を満足に動かせず、首だけをぎこちなく横に向けて声の主を確認する。
「何で電話にも出ないし、返信もしてくれないの?」
「あ、茜……何でこんな所にいるんだ?」
そこにいたのはやはり茜だった。予想はしていたが、恐らくないだろうと自身でその予想を切り捨てた矢先だっただけに驚きは大きい。
「何でこんな所にって? 健一が返事してくれないからじゃない。だから寝ないで朝までいたんだから」
「やっぱり寝てないのか……」
まさかと思っていたことが次々的中して健一はがっくりと肩を落とす。恐らく自宅で寝ずに待機し、健一の登校時間がわからないため、早朝からこの場所で待ち構えていたのだろう。
さすがに健一宅へと押しかけるような真似こそしなかったようだが、その執念に健一は空恐ろしささえ感じていた。
徹夜をした茜の容貌は普段と明らかに異なっている。目元には隈が浮かび上がり、肌は心なし張りを失っており、全体的に疲れ切った印象を与える。
それでも瞳だけは異様にギラギラと輝いており、その視線を一身に受ける健一には得体の知れない威圧感が圧し掛かってくる。
「それで何で返信してくれないの? 何で無視するの?」
「別れるって言っただろう」
「私は別れるって言ってない!」
「そんなの関係ないだろう。どっちが言った時点でもうお終いだよ」
迫り来る茜に健一は改めて別れを告げる。最初は茜のためを思った別れだったが、もはや健一の中では自身のために別れたいと方向が転換されていた。
元々、自分中心にものを考える節がある茜だったが、現在に至ってはもう自分の考え以外の事柄は頭に入らないようである。都合の悪い現実は知らないという茜の態度に健一は困り果ててしまった。
「とにかく俺は続ける気がないんだから、茜も早く忘れた方がいいって」
「いやっ! 絶対に別れないから!」
「またこの展開か……はぁ」
まるで昨日のやり直しかのような展開に健一は頭を抱える。何故晴れやかな早朝からこんな泥沼の愛憎劇を繰り広げなくてはいけないのかとげんなりしてしまう。
(こんなことやってる場合じゃないんだよなあ。朝練の時間が……)
茜と言い合いをしている内にどんどん時は過ぎていってしまう。余裕を持って家を出ているはずが、もう朝練遅刻ギリギリである。
(このままやってても解決なんかしそうにないし……)
目の前の茜の剣幕はどう見ても容易に収まりそうにない。むしろ容易に収まるなら昨夜で決着はついているはずだ。
(とにかく、今収めるのは無理だな)
この場での説得を諦めた健一は離脱を試みるため、密かに飛び出す準備を整える。
運動部の健一に対して茜は帰宅部の上に徹夜明けだ。まず振り切れるだろう。
(隙を見計らって……今だっ!)
盗塁も得意な健一は抜群のスタートを切って茜を振り切る。重い野球道具を持っていることがネックだったが、喚き立てて注意散漫な茜を出し抜くことは思いのほか簡単だった。
「あっ! ちょっと待って。健一っ!」
「とにかくもう別れたんだから構わないでくれよっ!」
捨て台詞を残して走り去る健一に茜は引き止める言葉を投げかけるほかできることがない。途中、恨み言も聞こえたが、健一は気づかぬふりをして路上を猛スピードで駆けていく。
(絶対怒ってるよなあ。このまま引き下がりそうにないし。どうすればいいんだ……)
所詮問題を先送りしたに過ぎないことを健一は自覚していた。
自身の気持ちは決まっているだけに解決の糸口が見えない状況を健一はもどかしく感じていた。