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Release  作者: 氷室
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五章

「今日も練習お疲れさま」

「茜……」

 健一がある決断を覚悟した翌日、茜はいつも通り部活終了後の野球部部室前に現れた。あれだけ健一に対して不満を撒き散らした翌日だというのに、よく普通にしていられると健一はある意味畏敬の念を感じてしまう。健一側としては顔を合わせたくないとどうにか茜を避けて今日を過ごしてきたというのに。

(だけど好都合だな)

 もしも茜が健一を避けるようなことがあれば、捕まえることがまず大変だった。健一としては今日は気持ちを落ち着けて、明日接触しようと考えていたぐらいだった。

 それが向こうの方から接触してくれたのだから好機だと、健一は覚悟を決めて茜の瞳を見据える。

「茜。話があるんだ。ちょっと付き合ってくれないか?」

「話……? いいよ」

「それじゃ、こっちへ来てくれ」

 勇気を振り絞った健一に対して茜はあっさりと肯定の返答をする。その表情は至っていつも通りで健一はいささか拍子抜けしてしまう。恐らく健一の雰囲気を何も察していないのだろう。

 承諾を得た健一は茜を伴って部室を離れ、専用グラウンドを抜けて校舎へと向かう。向かう先は邪魔の入らない校舎裏だった。

「ねえ、健一。こんな所に連れてきてどうするの?」

 ここはあまり好きな場所ではないのか茜の表情は曇っていた。つい昨日、健一ともめ事を起こした場所だけに無理もないだろう。

 しかし、人気のない所などここぐらいしかないと健一は足を止めて茜へと体を向け直す。

「大事な話があるんだ」

「大事な話?」

 健一の雰囲気が普通でないとようやく悟ったのか、茜もまた健一の様子に合わせて体を緊張させる。重苦しい空気が辺りに漂い始めた。

「昨日も話したけど俺は今、野球に集中したいんだ」

「うん。わかってる」

 健一の告白に何を今更とばかりに茜は頷く。そのせいでデートもできないのではないかと茜の表情には不快な様子が浮かび始める。

 より一層周囲の空気は重くなり始めたが、健一は覚悟を持って話を続ける。

「それで俺はやっぱり休日は練習に出ないといけないし、茜の希望通りにスケジュールを合わせることができないんだ」

「……それで?」

 健一の言葉に茜の表情はますます怒りの色を帯びてくる。言葉は重く、眉間には皺が寄ってしまっている。言葉を荒げないだけまだ理性が残っているようだが、噴火するのも時間の問題のようだ。

「それだと茜にも悪いから……別れようと思うんだ」

「……えっ?」

 勇気を振り絞って別れの言葉を告げた健一に、茜はまるで言葉がわからないというような様子で疑問の表情を浮かべる。怒りの様子などは一気に吹き飛んでしまったようだ。

「い、今……何て言ったの?」

「別れようって言ったんだ」

 もう一度聞き直す茜に対して健一が心を非情にして別れの言葉を再度告げると、ようやく意味を悟ったのか茜は表情をみるみる絶望の色に変え、健一に縋りよる。

「な、何でっ!? いきなり何を言って……」

「これでも考えたんだよ。前々から茜を蔑ろにするようで悪いとは思ってたんだ」

 信じられないとばかりに迫る茜に対して健一は冷静に理由を告げる。きっかけは昨日だったものの、茜の希望に応えられないことが続いていたのが大きな理由だった。

「昨日も何で私が我慢ばかりしてって言ってただろ? だからもう我慢させるのも悪いと思って」

「それでもこんな結末は望んでないっ!」

 健一の意志が固いと悟った茜はより強く健一の決断に反対の意を叫ぶ。昨夜に続いてまたも茜の不満が爆発したが、今度は負けないと健一も一歩も引かずに茜と向き合う。

「このまま付き合い続けてもお互いに不幸になるだけだ」

「そんなことない! 絶対に別れないからっ!」

「今の俺には野球が一番なんだよ。茜を優先してあげられないんだよ」

「何で? 何でそこまでして野球するの? 私が一番じゃないなんておかしいよ……」

 何とか説得する健一だったが、茜はまるで納得する様子を見せない。大人しく引き下がるとは健一も思っていなかったが、解決の糸口が見えずに苦戦の色が浮かぶ。

 健一としては復縁する気は全くないが、だからといって強引な形で終える気もなかった。できれば双方が納得して別れる形に持っていきたいが、解決の見通しは全くつかず、健一は困ったように頭を抱えてしまう。

「もう無理なんだよ。別れるしかないんだよ」

「嫌だっ! 私は絶対に別れない。健一の恋人は私しかいないっ!」

「わかってくれよ……」

 説得しても懇願しても茜が納得する気配は微塵も見えない。むしろ余計に頑なになっている感じすら見受けられた。そのあまりの執着ぶりに健一は恐怖すら覚えてしまう。

(どうしよう、納得する気配が全くないぞ……)

 万策尽きた健一は引き止め続ける茜を前に立ち尽くしてしまう。お互いを尊重して綺麗に別れようということ自体が無理があったのかと自分の甘さを感じていた。

(こうなったら仕方ないか……)

 どうあっても付き合い続けるという結論はない。健一はこれ以上希望を持たせることは酷だと悟り、手段を選んでいる場合ではないと腹を括った。

「いい加減にしてくれよ。俺はもう別れるって決めたんだ」

「やだっ!」

「これ以上別れを拒むなら俺も容赦しない。学校や親に言って相談する」

「そんなの関係ない!」

「いい加減にしないと力づくで別れるぞ」

「いいよ。そしたら暴力事件で野球部は処分だね。私には好都合だから」

 あくまで別れを拒む茜に健一は怒りを堪えきれなくなってきていた。野球部が潰れたら好都合という考えには強い嫌悪感さえ覚えていた。

 だが、茜がここまでなりふり構わない以上、解決は困難を極めていた。押しても引いても離れない茜に対して健一はなす術が見当たらない。

(もうこうなったら茜が何と言おうと無視するぐらいしかないのか)

 言っても聞かない以上、茜の存在を無視するほかに手段が思い当たらない。一度クールダウンすることも考えて健一は口を閉じることにした。

「さあ、どうするの? 私は絶対に別れないからね」

「……」

「諦めたの? だったら別れるなんて言葉撤回してよね」

「……」

 次々出てくる茜の言葉に健一は無言を貫く。そのまま無視をしながら、注意深く茜の様子を窺う。

「ねえ、何か言ったらどう?」

「……」

「ちょっと! 無視するのやめてよっ!」

「……」

 無視を続ける健一の様子に気がついた茜はその態度に対して攻撃を始める。

 流れが変わったと感じた健一は茜の様子を慎重に見極め、言葉を発するタイミングを見計らう。

「何でさっきから何も言わないの?」

「……」

「ねえ、何か言ってよ……」

「……」

 徐々に茜の言葉に勢いがなくなり始める。どうやら無視がかなり応えているようである。

(もう少し……)

 計算通りの展開になってきた健一は解決の予感を感じ始めていた。

 あとはいつ口火を切るか。もう少し茜の口を開かせることにした。

「お願いだから無視しないで……」

「……」

「健一ぃ、ひどいよ……」

(ちょっと可哀そうだな……そろそろいいかな)

 健一の無視作戦が堪えた茜はとうとう涙さえ浮かべ始める。

 良心の呵責に苛まれそうな健一であったが、お互いのためと割り切ってとうとう閉ざしていた口を開いた。

「茜が別れないって言い続けるなら……俺はこれから茜を無視し続ける」

「えっ?」

「別に俺は茜が嫌いになったから別れるんじゃない。ただ野球と茜と両方を選ぶことができないから別れるんだ」

「い、いやっ! 別れない!」

「今なら好きなまま別れられる。だけど、そうじゃないなら俺は……茜を嫌いになってしまう」

「そんな……」

 健一の口から発せられた嫌いという言葉に茜は呆然としてしまう。目を見開き、信じられないといった表情を浮かべながら茜は地に膝をつけてへたり込んでしまった。

 まるでこの世の終わりに遭遇したといった様子の茜を見て健一の胸は痛んだが、これからずっと茜に我慢を強いるよりもマシと割り切ってその場に踏み止まる。

「だから今別れた方がいいんだ」

「何で? 別れるしか方法がないの?」

「悪いけど、茜を優先してあげられない。また昨日みたいな口論になる」

「何で……」

 座り込んだ茜の瞳からは途切れる間もなく涙が溢れてきている。刻々と近づく別れの瞬間に怯えるように体は震えが止まらない。華やかな美貌はもはや崩れきってしまっている。

 儚げな茜の姿は見る者の良心を揺さぶってやまないが、健一は心を鬼にして震える茜に背を向けて訣別の意志を示す。

「お別れだよ、茜」

「待って! 待ってよ健一っ!」

 背を向けて歩き始める健一を追おうと腕を伸ばす茜だったが、脚に力が入らないのか立ち上がることができない。

 悲愴な声を上げる茜に後ろ髪を引かれながらも健一は意志を貫こうと歩みを止めることはない。唇を噛み締めて振り向きたい衝動を抑え込む。

「行かないでっ! 別れたくないよ、健一ぃ……」

 消え入るような声で自身の名を呼ぶ茜を健一は振り切り、とうとう校舎裏を後にしたのだった。

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