断章~2枚目の手紙~
玄関に残された手紙には、このような内容が書かれていた…
続きにまで目を通してくれてありがとう。
ここに私がいる理由をわかっていただけると|《ルビを入力…》幸いです。
私、藤堂 修は3月までこの保育園の職員でした。
それだけではここで自殺に及んだことに、理解ができないでしょう。
私の絶望を理解してもらうには、すべてを知って下さい。
まず私は両親を幼くして失い、幼いころから遠い親類に預けられていました。
そこでの生活は家族というには程遠い、殺伐とした利害関係だけ。
昔でいうところの下男が、私の家での立ち位置に一番当てはまります。
早朝に家事を行い、放課後は遊びに行く友人を横目に真っ直ぐ家へ。掃除や夕食の準備に時間をとられ、部活に入ることも出来ませんでした。
自分の状況が異常であると気づいたのは、中学生になってから。当時の友人と交わした何気ない雑談がクラス中に広まり、全員から心配される始末。いじめに発展しなかったことだけは、唯一自慢できることかもしれません。
自身の置かれた状況を理解した私は、すぐさま睡眠時間を削って必死に勉強しました。
このままでは死ぬまで不幸かもしれない。天国の両親になんと言って説明すればいいのか。その恐怖が私の行動を後押ししました。
担任や学年主任を味方につけ、親類をなんとか説得し高校に通うことだけは約束させました。その時に知ったことですが、気づかないまま暮らしていれば、どこかの工場で働かされることになっていたそうです。
10年以上虐げられた生活を送り高校卒業後、児童福祉施設で働きあの家から独立し保育士となりました。
本当の家族というものがわからなかった私にとっては、保育士という職業は天職でした。
毎日目の回るような忙しさでしたが、子供たちの楽しそうな姿から暖かい家庭というものが伝わってきます。
そこに私が得られたもしもをみて、幸せを感じていました。
お母さんは優しい人だったのかな…
お父さんとは休みの日に遊んだりしていたのかな…
二人に手を繋いでもらって、公園を歩いたりしたのかな…
そんな充実した日々を過ごし数年、その日が訪れました。
読んでいるあなたも、新聞やテレビで知っているかもしれませんね。
3月に起きた無差別爆破テロ。
起きた場所はショッピングモール、地下鉄、市役所、保育園。
そうです、私が勤める保育園がテロ現場に選ばれてしまいました。
爆発の少し前、私は外での卒園記念の撮影準備のために一人で先に裏門まで出ました。そこには園長が趣味で育てていた緋寒桜が咲いていて、卒園の記念写真が桜とともに撮れることで保護者から好評でした。
その日、本来は園長の知り合いのカメラマンが来てくれるはずだったのですが、高熱のため前日から欠席が伝えられました。そんな状況で白羽の矢が立ったのが、園で一番の若手であった私。
普通職場に誰か得意な人がいてもおかしくはないのですが、圧倒的に女性職員が多く、複雑な一眼レフカメラとなると誰ひとりとして手は上がりませんでした。
私も詳しいわけではありませんでしたが、園児の記念すべき日に水を差さないため受験ですらしたことがなかった一夜漬けというものをしました。
当日私は一眼レフまとめサイトで学んだことを駆使し、太陽の位置を考慮しカメラの位置や明度彩度などを決め笑顔で出てくるであろう子供たちの姿を思い浮かべながら今か今かと待ち構えていました。
失敗してもいいから、納得するまで何度も撮り直しさせてもらおう。
そんなことを思った直後、目の前が真っ白になり、一瞬だけ大きな音が聞こえ直ぐ様耳鳴りに変わりました。
次に立っていられない程の風が私を襲い、後ろに倒れ頭を打ち、一時的に気を失いました。
目覚めた時に見たものは今でもはっきり覚えています。
燃え盛る炎
瓦礫の山
なぎ倒された桜
現実感などまるでない光景。ですがそんなものは序の口に過ぎませんでした・・・
”周囲に散らばった黒い塊”
砕けたコンクリートに紛れたそれと、私は目が合いました。
そう、”目”があったんです。
最初私は炭かなにかだと思いました。ですがそれに近づいていくほどに、次第に嫌な予感を覚えました。
勇気を振り絞り手が届く距離までくると、さすがに錯乱した私でも理解が出来ました。
黒い塊……それは教え子の変わり果てた姿でした。
「ひっ!―――うぇげぇぇ」
襲い来る恐怖に耐え切れず、私はその場で吐いてしまいました。
涙を流しながらこれは何かの間違いなんだと、目の前のモノを否定するため他の塊を確認します。
確認するたび心が引き裂かれる想いでした。
残念ながらいくつも転がったソレらを確認しましたが、結果は変わりませんでした。
革靴らしきものを履いた先のない小さな足、あばら骨がむき出しになった胴体、血の付いた爪
そんなものしか見つかりません。
晴れの舞台を飾る笑顔は、どこにもありません。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!」
のどが枯れるまで叫び続け、気づいた時には病室のベッドの上でした。
幸いにして私は頭を打った以外目立った外傷はなく、すぐさま警察から簡単な事情聴取が行われました。
状況は全く飲み込めませんでしたが、どこか他人事のようにありのまま、見たままを機械的に伝えました。
退院した私はしばらくひっそりと暮らしました。もう放っておいてほしいそんな気持ちでした。
そんなある日、友人から一通のメールが
「お前事件と関係有るのか?」
当然職員だったのですから関係は有ります。ですが彼が伝えたかったのは、そんなことではありませんでした。
「お前、疑われてるぞ」
ぞっとしました。私が周りを避けている間に、世間ではそんな誤解が生じていたのかと。
私は保育園でたった一人生き残りました。あまりにも不自然なほぼ無傷な姿で。
それがいけなかった。
私が犯人と繋がりがあったのではないか?と疑いがかかっていました。
急遽カメラマンが交代したことも、私のせいではないかと聞かれたりもしました。
ですが勿論私は犯人と関係はないので、警察がいくら調べたところで犯人と繋がる証拠は出てきません。
犯人が捕まることなく、1ヶ月以上過ぎたそんな時です。
ある記事が私の実名を公表しました。
どうやら亡くなった教え子の関係者が根拠の無い義憤にかられ、憶測交じりの情報を伝えたようです。
記事は私の経歴や素行が、おもしろおかしく書かれていました。
事実とは全く異なることが大半です。
元不良少年だった・子供に暴力を振るった・毎晩飲み歩くほどのアルコール依存症…その他よくこんなに思いつくな、というくらい嘘が書かれていました。合っていたのは年齢と両親がいないという情報くらい。
もはや笑えてしまうくらいに、本当のことは書かれていませんでした。
ですがそんな嘘の生地でも、私を知らない人間には事実に見えたのでしょう。知人ですら私に確認をとったくらいですから。
こうして私は世間から、テログループの仲間として扱われました。
友人、知人は誰一人いなくなり、玄関には毎日のようにゴミが投げ入れられる始末。外を歩けば無遠慮な視線に晒されて、周りの人間全員が敵に見えほとんど外に出られなくなりました。
その頃には精神安定剤、睡眠導入剤を常用し始め、日に日に量が増えました。
しかし最もダメージが大きかったのは、二度と保育士の仕事ができなくなったこと。
当たり前ですよね…こんな奴に誰が自分の子供を預けるんだ。
もう生きる希望なんてあるはずがありません。
あれ程努力して得たものがこれです。夢なんて見ないほうが余程幸せだったのかな。
先に逝ってしまった父、母には合わせる顔もありません。どうしてこんな…
もう終わりにしよう。せめて思い出の側で・・・