お茶味な彼女
小学生の頃、カレー味のう○こと、う○こ味のカレーと、どちらの方がマシかという糞みたいな話をしなかっただろうか。今となっては答えは明白だが、当時の僕はちょっと悩んだ。
僕は子供の頃から味覚が発達していたみたいで「共感覚」というものを強く持っていた。それは例えば音が色としてと見えるとか、つまり一つの対象を別の感覚も交えて受ける事なのだが、これは誰しも赤ん坊の頃は持っているものの、大人になるにつれて失っていくものらしい。
僕を悩ませたのはカレー味とう○こ味、双方の味をリアルに想像してしまった事に起因する。
そんなスカトロジックな僕にも彼女らしきものができた。彼女は僕とは正反対のとても清楚な人だった。
味覚の強い僕ならばこそ分かるのだが、彼女はハッキリと「お茶」の味がする。おーいお茶レベルではない、例えるなら玉露100%という感じの渋さだ。
そんな一点の混じりけもない彼女に会う為によく剣道部を抜けだしたものだ。と言っても、彼女も部活中だから、遠くから見ているだけなのだが。
休日は彼女とデートに行った。
彼女のコーディネートは、流石に和服ではないが濃い緑や赤など、和服っぽいカラーリングを選んでいる所が可愛いらしい。流行のファッションに捕われない鈍感さが好きだ。
女子は流行に敏感で、こういった鈍感な女子の方がモテるとすれば、鈍感ささえも取り入れる。そうした挙句、不思議ちゃんなんてものが生まれたけど、不思議ちゃんはあざといだけで、どこか違う。
あえて定義するならば、鈍感さの魅力というのは「一つの事に一生懸命」だという事じゃないだろうか。
彼女のお茶の腕前は部内でも群を抜いているが、彼女に聞くと重要なのは姿勢らしい。自分も剣道をやっているので、何となく分かる。現実の「姿勢」が物事に対する「姿勢」そのものという事なのだろう。
誰かが入れたお茶やコーヒーは格別においしい、という現象も彼女からすれば当然というか、その為に茶の道を極めようとしているのだから、おいしくなってもらわなければ困るのだろうけど、人においしいものを飲んでもらうというのが、どれほど素晴らしい事なのか、当時の僕はまだよく分かっておらず、彼女の魅力を知的に理解していたわけではなかった。だから些細なことで彼女と別れた事を今でもたまに後悔していたりする。
――あれからもう五年か。おいしいお茶に巡り会えた時、いつも彼女を思い出す。
「彼女味のお茶」も悪くないけど、僕はやっぱり「お茶味の彼女」が忘れられない。
僕は剣の道を諦めて別の道を行ったけど、君はきっと今でも茶の道を進んでいると思う。
加筆修正してます。