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後編

更新が大変遅れてしまって、申し訳ありません。ようやく掲載させることができるので、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

 彼女のそのはにかんだような笑みを見て、僕はそれまでの想いが体を震わせて、今すぐに彼女の為に何かをしてあげたいと思えてくる。だから自然とうなずき、僕は彼女の手を引いて、近くに引き寄せていた。

「わかった。まずは簡単な曲から弾いてみようか」

 今まで、会えなくてごめん。ずっとずっと葉月は僕のことを忘れていなかったのに、会いに行かずに一人ぼっちにさせて、本当に悪かった。だから、僕は君に今までの想いを音楽として全て渡すから。だから――。

 僕は彼女と肩を並べて砂浜に座り、そのハーモニカで「列車」を弾く練習を手伝った。彼女はあまり大きな息を吐きつけることはできなかったけれど、微かな音色が夏の風に乗って運ばれてくる、優しい潮の香りのように僕の心に美しい色彩を広げさせた。

 彼女は「列車」を何度も何度も弾いて、僕へと満面の笑みを浮かべて、嬉しそうにする。そして、ほんのりと頬を赤くして、はにかんだような顔をした。

「初めてにしては、上出来だよ」

 それは僕の心からの言葉だった。葉月はこれからもっともっとハーモニカを弾けば、もっともっとうまくなって、やがて潮風よりももっともっと遠くへと心を旅させていくことができるだろう。

 そこで葉月がそっとハーモニカを下ろし、膝の上に置きながら、ぽつりと言った。

「私ね、前にもハーモニカをもらったことがあるんだ」

 彼女は水平線のずっと向こうを見つめて、遠い眼差しをしてそう微笑んだ。

「ずっと会っていなかったいとこなんだけど、誕生日プレゼントにそれをくれたの」

 僕の喉が激しく震えて、今にも「葉月」と名前を呼びかけそうになってしまう。でも寸前で堪えて、そうなんだ、と掠れかかった声を零す。

「今日帰ったら、そのハーモニカを弾いてみようかな」

 うん、と僕は何度も何度もうなずいて、彼女に笑みを浮かべた。

「そうするといいよ」

 彼女に「目の前にいるよ」と伝えたいのに、喉まで出掛かった声は胸に落ちて溶けた鉛みたいに張り付いてしまう。

 僕は自分の膝に手を置いて拳を握りかけて、それを抑えることを繰り返した。

 僕に言葉はなく、ただただ震えながら彼女をじっと見つめることしかできなかった。

 彼女はじっと僕を見つめて微笑みながら、長い長い沈黙を過ごした。やがて立ち上がって、「じゃあね」と夏の琥珀色の陽射しに負けないくらいに透き通った笑顔を浮かべて、うなずいてみせた。

 僕はうなずき、彼女の笑顔をこの目に焼き付けることしかできなかった。彼女の顎をまた雫が流れていった。

 僕が手を振ると、彼女はゆっくりと遠ざかりながら、小さく手を振り返した。

 その長い黒髪が背中で揺れる度に、微かな花の香りが僕の元まで漂ってくるような気がした。彼女のサンダルが遺した小さな足跡だけが、僕の前に残った。それはやがて他の子ども達の足跡に掻き消されて、あの水色のワンピースが海と溶け合って僕の心に焼き付いただけだった。

 僕は彼女のことを追えずに、ただそこに腰を下ろして唇を噛み締めていた。葉月と会えた嬉しさが彼女を救えなかった情けなさに変わって、僕はハーモニカの感触だけをぎゅっと握り締めた。

 全ては潮風に乗って、洗い流されてしまうのだろう。僕が葉月と会ったその確かな記憶も、夏の熱気に掻き消されてしまうに違いない。

 でも、それでも――。


 そして、その数日後、親戚のおじさんから葉月が亡くなったという連絡をもらった。


 *


 僕は両親を残して、一人でお通夜に行った。

 当然そうするしかなかった。おじさんと僕の父が会ったら、葉月も僕も、死んだ祖父も、心を引き裂かれることになるかもしれないから。

 おじさんは全然変わっていなかった。こんな時でも僕を気遣ってくれて、話を聞いてくれた。髪には白いものが半分くらい散りばめられていたけれど、その笑みはあの頃と変わらない優しさを感じさせた。

 両親にも、おじさんのそういうところを伝えてあげたかったけれど、もうそれは叶わないのだろうか、と僕は胸が締め付けられた。

「久しぶりだな」

 おじさんは僕の頭にぽんと手を置いて、懐かしそうな顔で笑った。でも、その笑みは頼りなくて、今にも崩れ落ちて、僕の足元に蹲ってしまいそうな危うさがあった。

「葉月は君にずっと会いたがっていたんだよ。すぐに来てくれても良かったのに」

 おじさんは僕を責める訳でもなく、ただこうして僕が葉月の元にやって来たことが本当に嬉しそうだった。

 それでも、僕はおじさんのその言葉が胸を抉り、心臓を突き刺して、哀しみを溢れ出させるのがわかった。僕も、どうして会いに行ってやれなかったんだろう、と拳を握って俯いた。

「僕は……葉月にずっと会いたかった」

 涙が浮かんできたけれど、それを堪えて、代わりに言葉を零した。

「でも、今更どういう顔をして会いに行けばいいのか、わからなかったんだ」

 葉月の両親は離婚して、おじさんの元に彼女は付いていくことになった。当然、葉月の母親と兄妹である僕の父が、おじさんのことを良く思わなくなるのは当然のことだった。それで、おじさんとうちの両親の仲は険悪なことになり、それ以来葉月の家に寄り付いていなかったのだ。

 何度も喧嘩が重なって色々とあり、気付けば僕は葉月と遠く離れた場所にいることになった。無理して会いに行く訳にもいかなかったし、どうしたらいいのかわからなかったのだ。

 それでもあの海へと行ったのは、心の底では彼女と会いたいと思っていたからかもしれない。

「不思議なものだな。死ぬ何日か前に海から帰ってきた時に、君からもらったハーモニカを取り出して、弾いたんだ。初めてなのに、とてもうまくてびっくりしたよ」

 おじさんはそれだけが死ぬ間際の彼女にとって、唯一の幸せだったかのように、涙を浮かべながら語った。

 僕は目を見開いて、そして微笑んだ。やっぱり、弾いてくれたんだな、と。

「何か……葉月は言ってましたか?」

 さっきとても嬉しいことがあったの、と彼女はそう言った。

『これで、悔いはないよ。会いたい人に、会えたから。ハーモニカの弾き方、教えてもらったんだ。本当はもっと話したかったんだけど、その子も私のこと見て、悲しそうにしてたから。でも、このハーモニカを持っていれば、ずっと私はあの子と一緒なんだ、って思えて。だから、』

 おじさんは彼女の言葉を一つ一つ胸から紐解くように、そうつぶやいた。そして、再び一つ一つ、心に刻むように目を閉じた。

 僕はきつくきつく肌に爪を立てる。あの時、どうして彼女に言ってやれなかったんだろう。再会を喜んで、自分が目の前にいることを伝えて、笑い合っていれば、彼女は――。

「葉月に言葉を掛けてやってくれないか?」

 おじさんが頬を伝う涙を拭わないままそう笑顔で言うと、僕はその嗚咽を堪えながらうなずいた。

 真っ白な肌の葉月に近づいた僕は、その頬に手を当てながら、囁いた。

「僕だよ。また……会ったね」

 涙が彼女の頬に弾けて、僕の掌に吸い込まれていく。

「ハーモニカ、弾いたんだって? あのさ、僕が何で葉月にハーモニカを渡したか、わかる?」

 葉月の透き通るような白い肌に呑まれてしまいそうになりながら、それでも僕は言った。

「僕のこと、忘れて欲しくなかったからだよ。葉月が僕のハーモニカを聞きたいって何度もせがんできたのを覚えていて、これがあれば僕らは繋がっていられると思ったんだ」

 これからは、君の為にハーモニカを弾くよ。

 僕はおじさんへと振り向き、ハーモニカを取り出した。そして、いいですか、と問い掛けた。彼は大きくうなずき、聞かせてやってくれ、と懇願した。

 僕は「葉月」という曲を弾いた。それは祖父が病弱な葉月の為に書いた曲だった。とても柔らかな空気が流れる曲で、その中で無邪気に跳ね回るメロディが耳に残った。彼女にこの曲を、その曇りのない笑顔の前で弾けたら、どんなに良かっただろうか。

 でも、それはもう叶わないのだ。

 小さな音の連なりがやがて風となって、ずっと遠くへ旅立った葉月の元へと全てを届けてくれるだろう。だから、僕は今、彼女の笑顔を脳裏に焼き付けて、彼女のことだけを想って弾く。

 祖父は自分の孫の為に、一人一人曲を作ったのだった。『海』と、『葉月』だ。僕の名前は海人で、そこから一字取り、僕らは小さい頃、お互いにその曲を唄って遊び続けたのだった。

 ……葉月。僕は、君のことを絶対に忘れないよ。ずっとずっと、ハーモニカを弾いて、天国の君に届けるから。だから、どうか……安らかに。

 そう心の中で囁きかけて、ハーモニカを彼女に近づけ、涼しげな音色を暖かな風に乗せると、そこで彼女の口元に花びらが舞い、微かにそっと微笑んだ気がした。


 了

いかがだったでしょうか。少しでも心に残る何かがあったら、幸いです。

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