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中編

 そして、『ラザニア』という曲を弾きだす。その瞬間、周囲の海辺の景色が消え、黄色い光が溢れる台所の風景へと移り変わり、僕らは確かに食卓の情景を思い出していた。

 その水の上を跳ねるような軽快なリズムに合わせて肩を揺らせ、僕はにっこりと笑いながら『ラザニア』を弾いた。彼女も目を潤めながら何度もうなずき、体を揺らせている。

 僕の奏でる旋律は彼女の置かれている状況など全て取るに足らないものとして砂浜に押し込め、心から音楽と繋がることができるように優しいリズムで背中を後押ししてくれる。

 ゆっくりと彼女の瞳から涙が溢れ出し、瞬く間に頬を伝いだした。僕は彼女をまっすぐ見つめながら、その演奏に今までの沈黙の意味を伝えようと想いを篭め、今まで会えなかったことを謝った。

 でも、彼女は僕のそんな心など気にせず、ただ僕のハーモニカの音色を聴いて笑ってくれる。僕らは確かにその透き通った音色に身を委ねて、言葉を交わしていた。

 彼女は目を閉じ、意識を僕のハーモニカへと向けた。僕は彼女の心へと音符と鼓動を伝えていく。やがて曲は静かに終わりを告げ、彼女はぱっと顔を輝かせて瞼を開いた。

「すごい。本当にハーモニカ、うまいんだね。おじいちゃんのこと、いっぱい思い出したよ」

 彼女はそう言って涙を拭い取り、嬉しそうに笑った。僕も頬を緩ませて、すかさずハーモニカを口に近づけた。

 そして『列車』を弾いた。汽笛と線路の揺れが彼女の胸を揺さぶり、『手紙』が流れ出すと、淡く切ない恋物語が彼女の頬を色づかせる。最後に『花咲く木』を弾いて、彼女は息を切らせながら、満ち足りたような笑顔を浮かべて拍手してくれた。

「君のおじいちゃんが作った曲だよ。僕も好きなんだ。この曲を弾きたくて、ハーモニカを習いだしたんだ」

 僕がそう言ってハーモニカを膝の上に置くと、葉月はそこで何故かじっと僕の顔を見つめてきた。その眼差しに何か切実な感情が篭められているような気がして、僕は身を乗り出して彼女に顔を近づけた。

「何か、リクエストはある?」

 僕が言った瞬間、彼女の唇から漏れたその言葉に、僕は鼓動が跳ね上がるのがわかった。

 ――『海』、を聞かせて欲しいの。

 彼女は星に願い事をするように、祈る表情で言った。

「『海』、か。なんでこの曲を?」

 僕は震える唇を動かせてそう聞いた。すると、彼女は雲の隙間から覗いたお日様みたいな笑顔で言った。

「おじいちゃんの曲の中で、一番好きだから」

 彼女は赤みがかった顔でそう小さな声で言った。僕は彼女のはにかむような表情を見て、押し黙っていたけれど、やがて覚悟を決めてうなずいてみせた。

「わかった。弾くよ」

 そう言ってハーモニカを再び握り、その想いを口先に篭めて、音色を響かせた。海の潮騒がゆっくりとハーモニカから漏れ出し、波打ち際の水の弾ける音と重なって、彼女の心を暖かく包み込んだ。

 僕はその曲を弾きながら、切ない想いが喉元をせり上がってくるのを感じた。この曲を選んだ彼女の心を想像して何もできない自分に対してどうしようもない焦りが湧いてくる。

 僕にはまだ、彼女に対して何かできることがあったんじゃないのか。それを今、躊躇って彼女を苦しませることになったら、自分が許せなくなるかもしれない。

 それでも僕は本当の想いを彼女に伝えることはできなかった。『海』というその曲はただ優しく、繰り返し繰り返しメロディがゆったりと流れていき、ただ美しく綺麗な旋律を奏でていた。

 僕の息吹が恋物語を紡ぎだし、ひっそりとした海の囁き声に変わり、辺りに溶け合っていく。僕は確かに空へと音がふわりふわりと浮き上がって、風に乗って彼方まで旅していくのを見た気がした。

 この曲は……君にとって、どんな想いが篭められた曲なんだ?

 僕は目の前の彼女の優しい笑顔を見つめながら、目の奥が熱くなっていくのを感じた。

 ゆっくりと曲は静かになっていき、僕はハーモニカを口から離すと、笑いかけた。顔が引き攣っていないように、全身の力を篭めて笑いを作った。

 彼女はすっと手を上げて、掌を叩いた。その拍手はすぐに大きくなり、彼女は何か声を上げながら嬉しそうにした。

「すごい、この曲いつか聞きたいと思ってたの。ピアノでもない、レコードでもない、そのハーモニカで一度だけ……願いが叶って良かったわ」

 彼女はそう語り、胸にそっと手を置いて心を篭めるように言葉を紡ぎ出した。

「私ね、この曲と同じ名前の男の子を知っているんだけど、ずっとずっとその子と会いたいって思ってたんだ。でもね、その願いが――」

 そこまで言葉を零して、彼女はふっと微笑みを浮かべて押し黙った。彼女はじっと僕の瞳を見つめ、何か感情がこもった深い眼差しを僕に向けてきた。

 そして、口を開きかけたが、彼女はそれ以上何も言うことはなかった。

 ゆっくりと僕の近くへとすり寄ってきて、じっとハーモニカを見つめてくる。そして、僕へと元のような純粋な笑顔を見せて、「これ」とつぶやいた。

「ハーモニカの弾き方、教えてくれない?」



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