教訓8:後悔は後で悔いるから後悔と言います。
それを見つけ、私は安堵に胸を撫で下ろす。そして、手をアスファルトについてふらつきながら立ち上がった。
奴の元まで歩み寄り、いまだ寝転がったままの姿を見下ろす。
おそらくこちらの方はろくな受け身も取れなかったに違いない。地面で擦った体が痛むのだろう、眉間に皺を寄せ、目をかたく瞑っていた。
「なんで……」
思わず零れ落ちた声が耳に届いたのか、奴は目を開けてこちらを見上げてきた。
痛みをこらえるようにしかめられていた顔に、わずか不敵な笑みが浮かぶ。
「だぁから、言っただろ。俺がいれば、出来ないことなんかなんもねーって」
その憎たらしい言い様にしばらく呆けながら、私は肝心なことを思い出した。
「あっ、あかちゃんは!?」
よろよろと体を起こそうとする奴の腕を取って、立ち上がるのを助ける。
「心配すんなって……ほれ」
言って奴が指差す方向を見ると、赤ちゃんを抱きしめながら泣いている若い女性の姿が見えた。
きっとやってくれるとは思っていたが、改めて無事な姿を確認するとほっとする。しかし、私にはもう一つこいつに聞かなければならないことがあった。
「あんた、なんでここに……っていうか、私、何が起こったのかよくわかんないんだけど」
こいつはベビーカーを止めるのに必死だったはずだ。なぜ車道を挟んだこちら側にいる?
いくつもの疑問を解いてもらうために視線を向けると、奴はこちらを睨みつけてきた。そのあまりの眼力の強さにたじろぐと、奴はふんっと口を尖らせてそっぽを向いた。
「あのな、俺だってバカじゃねーんだよ。あん時はチャリに相当スピードついてただろ。俺が飛び降りた後、お前はどーすんだ?って飛んでる途中に気づいたから、とりあえずあのベビーカー止めて振り返ったら、お前マヌケにも車道に飛び出てるじゃねぇか」
ゴミだらけになった背中をさすりながら、奴は横転した自転車を見やる。
「だから、勇敢にも猛ダッシュで追いかけて、後ろからキックをかましてやったという訳だ」
自信満々に胸を張って奴をとりあえず無視して、私は車道をもう一度見る。
ベビーカーを止め、あの距離を走って、しかも車が走る車道に飛び込んで、なおかつ私の自転車を後ろから吹っ飛ばしたというのか。
私が自転車ごと車道に飛び出してから、わずかな時間しか無かった筈なのに、奴はやってのけたのだ、これだけのことを。
どうやら、この変態はやはりただの変態ではなかったらしい。
「あんたって……」
「なんだよ?」
私は苦笑しながら、言おうと思っていた言葉を飲み込み、違う言葉を紡いだ。
「本当にびっくりするくらいの――変人ね」
「だからっ!! 誰が変態っ……だ……?」
がなろうとした勢いを途中で落とし、奴が目を丸くする。
私は、踵を返して倒れている自転車に歩み寄った。そして自転車を起こし、片足をペダルにかけ、軽く回転させる。ブレーキを触り、きちんとかかることを確かめて奴を振り返った。
「助けてもらったお礼。今日は特別に、ちゃんと学校まで乗せてってあげる」
私はサドルに跨り、何かの合図のようにチリン、と鈴を鳴らした。
バカみたいに突っ立っていた奴は、あの不敵な笑みをまた浮かべ、ずかずかと歩み寄ってきた。そして、何を思ったのか私の腰に腕を回してきた。
「ちょっ……!?」
突然何を、とこの一連のやりとりに既視感を覚えながら、私は腕をばたつかせる。
しかし奴は、こんな細腕のどこにそんな力が、と驚嘆するほどの力で私の体を持ち上げた。しかも片腕で。
「動くなっつーの、何もしねーよ」
若干不機嫌そうな声音で呟き、奴は持ち上げた私の体をサドルのすぐ後ろ、荷台の上に下ろした。驚く私をよそに、奴はサドルに跨ってゆっくりとペダルを漕ぎ始めた。うわ、サドル低っ、漕ぎづれぇ! と少し腹が立つようなことを言いながら。
私はしばらく瞠目していたが、奴の制服の端っこをそっと掴んで微笑んだ。
背中はもうボロボロで、かなり痛いだろうに。疲れた私に気を遣ってくれたのか。
意味が分からなくて、食欲が旺盛で、貧乏で、自分勝手で、運動神経が人間レベルじゃなくて。
不器用で、分かりづらいけど、ちょっとだけ――優しい変人。
こいつとの出会いが最悪だとは思わなかった。でも、最低と決めつけてしまうのも、まだ少し早いかもしれない。
そんなことを思う私と奴を乗せた自転車は、ベビーカーの一件でざわつく場から静かに走り去った。
学校への道のりも、奴が頑張ってくれているためか、あと少しだ。
「つーか、よく潰れなかったな、この自転車」
「私と同じで丈夫なの。すぐに潰れるようなら、私が乗ったら一日も保たないわよ」
「おまえ何やってんだよ……」
げんなり、という表現がお似合いな声音で奴は自転車を漕ぐ。こういうのはなんとも奴を褒めるようで嫌なのだが、奴は足が長いので、少々ペダルを漕ぎづらそうである。
「やっぱり代わろうか? もうだいぶ体力も戻ったし」
「いいっての。つーか、もう回復したのかよっ!?」
「それぐらいじゃないと、普段の災難を乗り越えられないから」
「そーか……」
そんな風にどうでもいいことを話しながら、私ははたと気づいた。
私、こんな奴に自分が「トラブルメーカー」ってばらしてどうすんの……。いや、断じて私は「トラブルメーカー」だなんて認めてはいないけど。周りが勝手にそう呼ぶから言ってみただけで。
表情を窺うことは出来ないから、私は奴の背中をじっと見つめた。もう、今更か。
今日この日、こいつは十分すぎるくらい、この災難を共にしてくれたのだから。
そこまで考えて、私は小首を傾げる。それはちょっと語弊があるか。こいつは勝手に乗ってきたんだし。
自分をそんな風に納得させたところで、奴がぽつりと言った言葉が私の胸をついた。
「お前ってさぁ……災難に強いよなぁ」
その言葉はしみじみと実感に満ちていて、裏が無いように思えた。
私は目を丸くして、息を呑む。しばらくそれ以上の反応が出来ず、やっと何か言葉が出てきたと思ったら、それはたったの一文字だった。
「……は?」
呆然の体で口を半開きにした私をちらりと振り返って、奴は全くイイ笑顔で言ってのけた。
「つまりは、おまえがいれば災難も何も怖いモン無しってことだ。そうだろ?」
「…………」
私は唖然としていたが、体の奥からむず痒い衝動がこみ上げてくるのを感じて、顔を伏せた。手を当てた頬が熱い。これは一体なんだろう。
機嫌よく鼻歌まで歌い出す奴を前に、何も言うことが出来ないままに自転車は私の新天地、高校の前に着く。
奴の言葉に放心していて気づかなかったが、登校時間ということもあって、高校の正門前は多くの生徒でごった返していた。
すこんと頭から抜け落ちていたが、今日から私はこの中で生きていくのだ。新しい生活が始まる。なんとしても、平穏で平凡な日々を勝ち取らねば。
うん、と強く自分に言い聞かせるように頷いていると、私は何やら視線のようなものを感じて顔を上げた。
会ったこともない幾人もの人たちの視線が、こちらに集中、している気がする。辺りを見回してみるが、やはり見られているのは私達のようだ。
「な、なんか見られてる気がしない?」
「さぁ、気のせいじゃねぇか?」
奴はそう言うが、明らかに注目されている。そして何事か囁かれている。
耳のいい私は、その内容をしっかりと聞き取ってしまった。
「あの変人に、ついに彼女が出来たのか!」「うわあ、勇気あるーっ」「真似できない……」「苦労するな……あの子」
その囁きの内容に、私の目は点になる。頭はそれを理解するのを必死に拒否している。しているが、否応なく理解してしまう。
なんで、なんでそんなことになって……と真っ青になっていると、私ははたと気付いた。ゆっくりと視線を手元に落とす。奴の制服の裾を掴んだままの手。慌てて私は手を離した。
時既に遅し、という感が否めない気がするが、何もせずにはいられない。私はとりあえず荷台から飛び降りた。
「ちょ……ちょ、ちょっと、自転車返して」
「あ? ここまで貸してもらったんだから、駐輪場まで留めてきてやるよ」
あくまでも何気ない一言に聞こえるが、奴が発した言葉に周囲がどよめく。「聞いた!? 今の!」「信じられねー」「あの自己チュー王が……」
もれ聞こえてくる内容に呆れながらも、私は空恐ろしい誤解が周囲に広まりつつあるのを確信していた。
もしかしなくとも、私はこの、こいつと……付き合ってる、と勘違いされてる?
体中の血液が足元まで一気に落ちるような感覚に陥って、いっそここで失神できたらと逃避の考えが頭を掠める。
しかし悲しいかな、現実とはいつだって残酷なものだ。私は気を失うことすら出来ずに、立っている。
「いいから!! 降りてってば、降りてーっ!!」
自転車を取り返そうとハンドルを揺さぶるが、奴はそれを離そうとしない。何故か意固地になっているようだ。これではまるで子どもである。
「この俺の好意を無下にする気か!?」
「そうじゃなくって!」
「じゃあ何だ!?」
全く周りの状況を分かっていないバカを睨みつけるが、奴も負けじと私をねめつけてくる。
しかし、奴の向こう側にいる生徒達を見ると、その睨みつける力も落ちそうになる。
何故か? ほとんどの目が何故かこちらに注いでいて、生暖かかったり、興味深深だったり、哀れみを含んだ目だったりするからだ!
「もう、やだー!!」
私は両手を握り締めて、空に向かって思い切り叫ぶ。
今の時点で、私の鍛え上げられた勘はこう言っている。
「平穏は遠く、前途多難」と。
長々と続きましたこのお話もこれにて終了です。
このお話は、スランプ地獄に陥ってもがき苦しんでいた私が「恋愛モノなら楽しく書けるんじゃ!?」とリハビリも兼ねて書いた話なんですが、完成してみると恋愛モノではなく変態が出てくる変愛モノになってしまったという……。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました! 感想頂けますと喜びます。