教訓6:考えなしの行動もたまには悪くありません。
ハンドルを強く握り、私は身体を前傾姿勢にする。
ベビーカーは相変わらず、誰にも止められることなく爆走している。アスファルトの凹凸に車輪を取られて時折飛び跳ねているが、あれで赤ん坊が放り出されないのは奇跡に近い。
歩道を行く人々の中で、それを阻止しようと動く人もいるが、速度のついたベビーカーを誰も止められない。
一方私達の自転車もいくら急勾配ではないとはいえ、坂をブレーキもかけずに突っ走って下っていることでかなりのスピードが出ていた。
「で、作戦は?」
これだけのスピードが出ているのに、ひるむ気配の無い奴の声。
それを頼もしく思いながら、私は思い切り息を吸い込んだ。
「無い!」
「はあああっ!?」
悲鳴のような非難が聞こえてくるが、そう言われても私は参謀じゃないし。というのは無責任か。
一つ言えることは、私達ならあのベビーカーになんとか追いつけるかもしれないということだけだ。
私はもう一度前を見る。
走り続けるベビーカーはとても新しいもので、あんなにアスファルトの凹凸に車輪を取られているのに子どもが放り出されないということは、シートベルトがしっかり締められているのだろう。
私はぐっと歯を食いしばる。ということは、ベビーカーごと止めるしかないということだ。しかも変な止め方をすれば、いくら腰の位置でベルトが固定されていても赤ちゃんが前方へ吹っ飛ぶ可能性がある。ならば。
口を引き結んで、私はかなり無謀な作戦を口にすることにした。
「結構、危険なんだけど」
「なんだ? 時間がねぇ!」
私はベビーカーと自転車の距離が縮まったのを見て、次にさらにその先、道路の方に視線を移す。
「いい? 私、何とかあのベビーカーを追い越すわ。そしたらあんたは、あのベビーカーの進行方向に飛び降りて」
「……そんでもって、あのベビーカーを止めりゃいいんだな?」
「そう」
私は頷きながら、同時にこの賭けの怖さを思う。
この作戦は、言葉で言ってしまえば簡単だけど、大変な危険を伴う。こんなスピードの出ている自転車から飛び降りるという無謀。そして無事に着地した上で、これまた速度のついたベビーカーを上手く止めなければならない。
そして。もう一つ――大きな危険がある。でもそれは、今は無視だ。
こいつの度胸と運動神経、そして私の足にかかった賭け。
「この賭け、乗る?」
振り返らないまま、私は短く問うた。
後ろで、喉を鳴らすような笑い声が聞こえたかと思うと、ガシャン、と荷台が揺れる。
肩に置かれる手。前方に影ができ、見上げると、後ろから覗き込むようにしている奴の笑顔があった。
「乗った!」
その答えを受けて、私はさらに足を早く動かす。限界を越えて、足はしびれたようになるけれど、そんなこと言っている場合じゃない。
重いペダルを前に、前に、前に、必死で漕ぐ。
縮まるベビーカーとの距離。けれど同時に、車が走行する交差点も間近に迫っている。
心臓が何度も強く胸を叩く。息が上がる。額にかいた汗が風に散っていく。
「もう少しだ!」
肩に置かれている手に力が入ったのを感じて、私は限界を越えて足を動かした。
「う……らああああっ!」
気合の一声を発して、ついに私は自転車がベビーカーを追い越したのを見た。
キュッと金属をこするような音がして、奴が荷台の上で方向転換をする。
後もう少し。もう少しだけ、距離を。
勢い余って、ペダルからずり落ちそうになる足を叱咤して、私は限界を越えて前へと踏み込んだ。
「行くぞ!」
ダンッと大きく荷台が傾ぎ、車体が軽くなる。
ああ、飛び降りたんだな、とそんなことが頭に浮かぶ。もう、大丈夫だとも。
不思議なことに、駄目ではないかという考えは無かった。会ってまだ一時間も経っていないというのに何故か、あの変態ならやってくれると根拠の無い信用が、一ミクロンほどではあるけれど、出来上がっていた。
ふっと思わずこぼれる笑み。
全身に込めていた力が一気に抜けて、筋肉が緩む。
あのベビーカーを追い越すため、限界まで出していたツケが来た。そうでなくても、個々に来るまで無駄な体力を使いすぎていたのだ。こうなっても当然だ。
私は目を上げる。――残っていた一つの大きな危険。
速度のついた自転車。しかも、奴が飛び降りた際に荷台を蹴り飛ばしていったために、それは更に増している。
ということは。
「……どうしよう」
自転車は私を乗せたまま、交差点に飛び出していた。