教訓5:たまには人の話も聞きましょう。
二人分の体重がかかっているせいか、自転車は予想以上の速さで前へと進もうとする。それを上手くブレーキをかけて調節しながら進んでいると、前方から悲鳴が聞こえてきた。
「……なに?」
悲鳴のわき起こった方向に二人同時に目を向けると、信じられない光景が広がっていた。
この坂は両脇に様々な店舗が並び、下りきったところが交差点になっている。その交通量は多く、何十台もの車が走っている。
その交差点に向かって、ベビーカーが一台異常なスピードで坂を下っていた。
問題なのは、そのベビーカーの元に誰もいないことだ。
ばっと視線を移すと、携帯電話を持ちながら悲鳴を上げている若い女性がいる。あれが母親か?
「……マジかよ」
唖然とした声が耳に入った瞬間、私はブレーキにかけていた指を外していた。
ブレーキの外れた車輪は、徐々にそのスピードを速めていく。
ダメだ、このままじゃ間に合わない。でも。
「おいっ、おまえ!!」
奴は引きつったような声を出して、私の服を引っぱってくる。私の行動の意図を悟ったのだろう。私は走り続けるベビーカーから目を逸らさず言った。
「降りて、今すぐ」
「はぁ? おまえちょっと待――」
「あの、自転車に飛び乗ってくるような無駄な運動神経があれば行けるでしょ。早く!」
「だから――」
「うだうだ言ってないで、早く降りて!」
「――っ、だから、おまえはちゃんと人の話を聞け!」
そう怒鳴りつけられ、思い切り頭を叩かれる。私は後ろを振り返り、苛立ちを隠さないまま怒鳴り返そうとした。
「ペダルを漕げ。ブレーキを離したくらいじゃ、あのスピードには追いつかねぇだろ」
奴の言葉に、私はぎょっと目を見開く。
それは私が考えていたこととほとんど同じだったからだ。でも、それはあくまでもこいつを降ろしてからやろうと考えていた。
「大体よく考えてみろ、お前が一人で出来ることなんて限られてる。でも俺がいれば――」
奴はそこで言葉を切ると、にっと不敵な笑みを浮かべた。
「出来ないことなんかなんもねーんだよ」
おらっ、行け! と背中を押され、私はまた前を向いてペダルを漕ぎ出す。無駄な会話をしているうちに、時間を食ってしまったらしい。ベビーカーと自転車の距離は随分と離されてしまっていた。
それなのに、今はそんなことを聞いている場合じゃないのに、私の口は勝手に動いてしまう。
「なんでよ? 危ないって、わかってるでしょ。どうして逃げないの」
聞かずにいられなかった。だって、混乱する。こんなことは初めてだったんだ。
『危険』に巻き込まれるとき、誰かが自身の意思で(・・・・・・)私のそばにいるなんて。
自分がなぜここまでその理由に固執するのかもわからないでいると、奴が盛大なため息をついた。
「お前がさっき言ったんだろうが」
「え」
「〝災難は嫌だっつってもやってくるんだから、戦うだけだ″ってな。俺もお前と同じように、守るよりも攻める派だ」
言って、つい、と顎を引き、真っ直ぐに私を見てくる。
その目には何の気負いもない。きらきらと無邪気に輝いている。
奴は前方を指差して、私に発破をかけた。
「ちゃちゃっと片付けて、さっさと学校行くぞ。変人女!」
びゅう、と。
強い風が吹きつける。それは私の身体にだけでなく、心の中まで通り過ぎた。
ずっと胸の中にあったしこり。それが、吹っ飛ばされた気がした。
ひとり、ということに慣れきっていた。誰も私の側にはいなかったのだから。
ひとりで戦うしかなかった。負けることだけは我慢ならなかったから。
でもこいつは。この、変態は。
私と共に、今この瞬間、一緒にいて危険に突っ込もうというのか。
ああ、なんて馬鹿な奴。変な奴。どうしようもない奴。
だけど――なんて愉快な奴なんだろう。
「あはっ、あはははははっ!」
あまりにもおかしくてしょうがなくて、私は笑ってしまう。こんなに大笑いしたのは久しぶりだ。
「おい、何笑ってんだよ? そういう場合じゃ――うおおおぉっ?!」
私は止まらない笑いを必死に堪えながら、即ペダルを無茶苦茶に漕ぎ出す。
そのスピードの変化について来れなかったのか、奴は悲鳴を上げているが、関係ない。ここで突っ走られなければ、あの子を救えないのだから。
「言われなくても行くわよ、変態!」
「だから何回も言うが、誰が変態だ!」
奴のがなる声に笑いで答えながら、私は決意を新たにする。
さぁ、ここからが本番だ。あの子を助ける。必ず。