教訓3:蒸篭かつぎを見たらダッシュで逃げましょう。
「おいおい、しっかりしろよ」
「へ?」
呆れたような呟きに思わず目を開くと、私の肩越しに一本の腕が出て来て――私の手の上から、ハンドルを握った。
右に大きく傾いていたハンドルが、強い力で戻される。
「ほれ、ペダルを漕げ」
すっかり気が動転していた私は後ろから聞こえる声に素直に従ってしまう。それが良かったのか、転倒しそうだった車体は安定し、無事にまた道を走り出した。
「た、助かった……」
「だな」
ぽつりと洩らした独り言に応えが返されて、私は体を震わせた。そういえば、さっきから後ろにいるのは……。
「なっ、なんで後ろにあんたが乗ってんの?!」
あまりの驚愕に顎が落ちる。いったい、いつの間に!
後ろの荷台に図々しくも涼しい顔をして乗っている変態に、私は怒鳴りつける。
「なんなのあんたは! 人のお弁当を奪っておきながら、私の許可なく後ろに乗ってるし!」
「いや、待てって言っても止まらねぇから」
「言い訳になってない!」
「だってほれ、お弁当。返してねぇし」
言って、変態は私のお弁当を持ち出してくる。私は片手でそれをひったくるように取り返すと、自転車の前かごに突っ込んだ。ってか軽っ!! 全部食べやがったのか!
「はいはい、無事お弁当は受け取ったから。降りろ変態!!」
この際こいつと離れられるのならお弁当強奪の件はきれいさっぱり水に流してやっていい。私ってなんて優しいの! とりあえず早く降りろやゴルァ! と私は後ろに向かって頭を振る。
「いてっ! 頭突きはやめろ! つーか時計を見てみろ! 今何時だと思ってる」
私は一時攻撃の手、いや頭を止めて腕時計を見る。
「……八時だけど」
ちなみに新担任からこの時間には来るようにと言われているのは、八時二十分だ。ここから自転車で行くなら余裕で間に合う。徒歩ではきついかもしれないが。
「そうだろう! 徒歩でなんか行ってみろ。俺は完全に遅刻するだろうが」
そんなの知りません。という訳で後方頭突き再開。
「いてっいてっ、だから頭突きはやめろ!」
「うるさい変態! これは私の自転車なの。乗っていい人を決めるのは私! 大体人が行き倒れているのを助けてやったというのに何その態度! つーか歩け! ってか休め! さっきまで倒れてたんだから体調不良とか何でも理由はつくでしょ! なんなら私が証人になってやってもいい!」
変態に向かってぐっと親指を立てたら、その指を軽く逆方向に曲げられた。目が据わっていて怖いんですけど! そして痛い!
「アホか! 話は少し飛ぶが、俺はこの二ヶ月無遅刻無欠席を誇っている! 一年続けば皆勤賞として豪華な賞品(一年食堂タダ券)がもらえんだ、こんな所でそれを諦められっか! という訳でこのまま自転車に乗せてってくれ」
変態の言葉を聞いて、私は一瞬ポカンとせざるを得なかった。
ちょっと待ってください? なに自分勝手なことをペラペラのたまってくれてるんでしょうかこの人。という訳でって、そんな言い分納得できるか!
なんとかこいつを撒いてやる! と私が鼻息を荒くしたのに気付いたのか、変態はなんと私の腰に腕を回してきた。そして私のお腹の前で固く腕を交差する。
「ちょ……ちょ、ちょっと?」
なにこの体勢。混乱して、思わずどもってしまう。
振り返ると、変態はにやりと笑ってこちらを見返してきた。
「高校に着くまで、絶対放さん」
「なっ?!」
ふざけるな! と叫ぼうとしたその時、私の危険察知アンテナが反応した。
左だ! やばい!!
「変態、右に身体倒して!」
「誰が変態だ!!」
と言いつつも、変態は私の指示通り身体を右に倒す。
自転車はぐらりと右に傾いて、私はそれに任せてわき道に入る。そして。
耳障りな音が辺りに響き渡った。
「あ、あぶねー……」
振り返った先の惨状を見たのだろう。奴の唖然とした声が耳に入ってきたが、私はそれを無視してペダルを漕ぎ続ける。
そう、あの瞬間、視界の左に捉えていたのは、落下してくる屋根の瓦。なんとか回避できたから良かったもの、当たれば確実に怪我をしていただろう。なんか今日は落下系のトラブル多いな。
そんなことを考えていると、向こうから蒸篭を肩にかついだ兄ちゃんが自転車に乗ってやってきた。なんかもう、フラグが立った気がする。
かみさま、そんなに私のことがお嫌いですか。
鬱々と暗くなる私をよそに、後ろの変態は能天気にも感心したような声を上げる。
「おー、今時あんな担ぎ方してる人がいんだなぁ。よくあーいうのにぶつかってよ、蒸篭ひっくり返して兄ちゃんが“何しやがんだテメェ!”とか叫ぶんだよな」
「…………」
すんごい嫌な予感。というか多分この変態の言うことは十秒以内に実現してしまうだろう。もう嫌!
「ちょっと変態。すんごい嫌だけど、私にしっかり捕まって、頭下げてて!」
「あぁ? だから誰が変態ぃいぃーっ?!」
変態の言葉なんか聞かず、私はペダルを踏む足に力を入れて速度を上げた。
あの自転車は必ずこちらに突っ込んでくる。この道は狭い。横に避けるということは不可能だ。もたもた後方に方向転換しているうちにあれは突っ込んでくるだろう。ということはつまり。
超特急で飛ばして、あの兄ちゃんの隣をすり抜けるしかない!
身体を前に倒して、がむしゃらに自転車を漕ぐ。
前方からやってきた兄ちゃんの自転車は、道端に転がっていた石にタイヤを取られて、ふらっとバランスを崩していた。「おぉっ?!」と驚愕の顔でハンドルを操作しようとするが、何せ片腕だ。限界がある。
さぁ、今よ私!
「行くわよぉぉおぉっ!」
「なんなんだっ、おまえは?!」
あんたに言われたくない! と思いつつも、私は頭を低く下げて兄ちゃんの自転車――のすぐ隣をすり抜けるべくハンドルを動かす。
兄ちゃんの手から離れ、崩れ落ちる蒸篭。そして、宙を飛ぶそば。それらが、すり抜けざまに私たちの頭上を舞う。が、見事それらを避けて私はその場を突っ切った。
そう、わ・た・し・は。ここ重要です。
「あいてっ!」
軽い音と共に、背後から小さな悲鳴が上がる。大方、先ほどの蒸篭に頭をぶつけでもしたのだろう。情けない、あれぐらい避けられないとは。ザマーミロ!
加えて「うわあああっ」という叫び声と自転車が倒れる音が聞こえてきたが、そこはなんというか、心の中でそっと手を合わせておく。ごめんなさい、私にも急がねばならん事情があるのです。