教訓2:知らない人が倒れていても簡単に近づいちゃいけません。
玄関のドアを開けると、暖かい日差しが私を出迎えてくれた。
しかし、この程度の日光では私の心は晴れはしない。それほどまでに私の心は暗い。めちゃくちゃ暗い。
とぼとぼと俯きながら庭に置いてある自転車を押して、私は外に出る。自転車に跨り、高校に向かうべくペダルを踏んだ。
「あつ……」
六月後半とはいえ、もう夏はそこまで来ているということなのか、頬をなぶる風は湿気を含んで熱い。制服の前をぱたぱたとはためかせて、なんとか涼をとる。
まだ慣れない町並みを眺めながら、私は先ほどの馬鹿兄貴の予言を反芻した。
「人生で最高の出会い、かぁ……」
あの馬鹿兄貴の占いは絶対に当たらない――ということはつまり、人生で最悪の出会いが今日私を待っているということだ。
頭上では、不吉の象徴とされるカラスが鳴いている。なんだか、どんどん今日という日が嫌に思えてきた。ついさっきまでは、希望に満ち溢れた朝だったのに。まったく、それもこれも――。
「あんの馬鹿兄貴のせいよっ! 人生で最悪の出会いってどんな出会いだっつーの!」
そう言うや否や、私はハンドルを右に切って道の端に寄った。
その次の瞬間、バタバタッと私のすぐ隣に鳥のフンが落ちてきた。そこは、そのまま進んでいれば私が直撃していたであろう場所。
それを横目に見て、私は大きなため息をついた。常日頃あらゆるトラブルに巻き込まれてきたせいで、これぐらいのトラブルなら回避することが出来るようになった。様々なトラブルを経験して、トラブルに関する勘と反射神経が非常に良くなったという訳だけど、全然喜べない。
これ以上無いほどの暗い顔で自転車を漕いでいると、制服姿の人やスーツ姿の人がばらばらと家から出てきた。それを見た私は、事前に調べておいた脇道に入る。
私の遭遇するトラブルは、人が関わるものが半数以上だ。
こんな人の多いところにいたら、どんな酷い目に遭うか分かったもんじゃない。
だから、人通りの少ない学校までの道を調べておいたのだ。
家と家との間の、アスファルトで舗装された道を行く。脇道を抜け、右に曲がると広い道に出るが、人っ子一人見当たらない。
流れていく視界の左側には神社があり、いくつもの石を積み上げた玉垣が続いている。
その玉垣を乗り越えるように、神社の中の木々が枝を伸ばしていた。枝と枝とが各々好きなように伸びて、茂る葉の合間から差す光が暖かくて、気持ちいい。
風に揺すられて奏でられる葉擦れの音も、聞いているととても心が落ち着いた。
――あぁ、いいなぁ。こういう雰囲気。
静かで、とても穏やかで。誰もいない――何者にも邪魔されない平穏な時間。
そこには悲しみも、辛さも、怒りも、そしてきっと寂しささえも存在しないのだろう。
「……正反対よね」
――私の過ごす日常とは。
目を細めて空を見上げ、自転車を走らせる。
そうしていると、神社の入り口である朱色の鳥居が見えてきた。その前を通り過ぎようとして、しかし、私は何か違和感を覚えた。
「……ん?」
いま、視界の隅を何かが過ぎったような。
ペダルを漕ぐ足を止める。しかし、自転車は惰性のまましばらく前に進む。私はブレーキをかけて、片足を地面についた。
「……」
しばし私は考え、そして、地面についた足を前に蹴り上げて、自転車ごと後退する。
鳥居の目の前まで後退すると、私は足を止めて、じっと鳥居の奥を見つめた。
境内の石畳の上に何かがいる。
紺色のジャケット、チェック柄のズボン――先日親から渡された高校のパンフレットに載っていた、男子生徒の制服だ。
その制服を着た少年が、うつ伏せに倒れている。
「なんでこんな所に……」
とりあえず自転車を降りて、神社の玉垣にもたせかけて鳥居をくぐる。
そのまま少年に近づこうとしたところで、ぴたりと足が止まった。
ちょっと待てよ、と私の長年鍛えられた勘が語りかけてくる。
今日、馬鹿兄貴は言った。
『今日は、おまえの人生で最高の出会いがあるぞ』と。
兄の占いは絶対に当たらないのでその逆、最低の出会いが私を待っている。
このタイミングで、こんな不審な少年の出現……怪しい。怪しすぎる!
そう思うと、自然、体がこれ以上前に進むことを拒否する。引け腰になる。
あぁ、誰か偶然にも通りがかってはくれまいか。そしたら私はこのトラブルの可能性を回避できるかもしれないのに。
ぐるりと辺りを見渡したが、私の期待を裏切ってそこには一人の影すら無かった。
……そういえば、ここ人通り少ない場所だった! 不覚! 自分で調べたんじゃん! バカ! 私のバカ!
やることなすことどうやってもトラブルに繋がってしまうというのか。なんて不幸なの私。
自分で自分を哀れみながら、どうしよう、どうしようと同じ言葉が頭の中を駆け回る。
いくらなんでも、トラブルが嫌だからって倒れている人を放ってはおけない。かといって不用意に近づくことも出来ない。もしかしたらコイツは、私にとんでもないトラブルを運んでくるかもしれないのだ。
……まぁ、もう運んで来てるっちゃあ、来てるんだけど。
――どうしてここですぐ、もっと少年から距離を取って、救急車を呼ぶなり近くの民家の人を呼ぶなりしなかったのかが、返す返すも悔やまれる。
そう、私は気がつかなかったのだ。倒れているはずの少年が、ずりずりと少しずつ私に近づいてきていたことを。
「…………く……れ……」
終わらない思考のループに振り回されていた私は、はっと我に返る。
いま、声が――と思った瞬間、何かが私の足首をぐっと掴んだ。
「ひっ……!」
悲鳴を上げて足首を見下ろす。そこにあったのは、まさに餓鬼の形相。
「め、飯をくれぇええぇ」
ぎょろりと光る目、その下の隈、こけた頬。
まともに目が合った私は反応さえ出来ず、その場でフリーズ。ここで意識を保てる人がいたら尊敬するね。
魂の抜け落ちた人形になってあっちの世界に行ってしまった私であったが、次の瞬間目に飛び込んできた光景に三途の川を飛び越えて戻ってくることになる。
たらり、と垂れたのだ。
奴の口から。
あれが。
そう、私の靴に!
「ぎ――ぎゃああああああっ!」
卸したばかりの新しい革靴に落ちた奴の「よだれ」に、私は先ほどまでの恐怖を忘れ、絶叫し、掴まれていた足を思い切り蹴り上げた。
が、しつこい手は私の足から離れない。「とっつあんの仇!」と言わんばかりに離れない。というか、いつのまにか両腕でがっちりとホールドされている。
「放してーっ! この変態! よだれ垂らすな!」
「ハァハァ…………め……飯だ! 飯を…………寄越せ!」
「足に息吹きかけないでっ、キモい、キモいいいっ!」
足を前後に振るが、コイツはびくともしない。青白い顔で、私の足にしがみついている。
「何なのよっ、あんたは?! 放さないと、腕の一本は覚悟してもらうわよ!!」
「知るかーっ!! おまえ、なんか食いもん……食いもんを……からあげ、卵焼き、ほうれん草の胡麻和え……持ってるだろう!!」
「なんでわかんのよーっ!! 犬かあんたは?! つか、足を放せーっ」
全身を使って少年を振り回すが、やっぱり振りほどけない。
なんという執念、というか本気で気持ち悪いし、この少年、いやいやこの変態を振り切るためにも、弁当の一つや二つ犠牲にして……と悩んでいると、ふと足が軽くなった。
「……あれ?」
再び足に視線を落とすが、そこにはあれほど振りほどこうとしても離れなかった、ガムのような変態はいなかった。
少し離れたところで、こちらに背を向けて座り込んでいる。
やっと諦めたのか! よっしゃ、今のうちに鮮やかに逃亡だ!と駆け出そうとしたそのとき、私は気付いた。
肩にかけていた鞄が、やたらと軽いことに。
「…………」
よくよく見てみれば、鞄のチャックがいつのまにか開いている。探ってみる。がさごそと探ってみる。無い。
アレが、無い。
「…………」
振り返って、変態を見てみる。かすかに頭が上下している気がする。むちゃむちゃという下品な音も聞こえる。
私は踵を返して変態に歩み寄る。漂ってくるこの匂い、私の大好物であるからあげの匂いだ。
変態の頭を鷲づかみ、後ろに逸らさせると、その口はもぐもぐと腹立たしいほどに動いていた。
変態は一丁前にこちらを睨みつけてくる。
「ひゃひほふるっ?!」
「こ、このアホーっ! 口に食べ物入れたまま喋んないで! つーか、それ私のお弁当でしょ! 何勝手に食べてんのよ!!」
少年の頭を離すとその前に回り込み、変態によって奪い取られたマイ弁当を掴み、思い切り引っ張ろうとした。
だが少年はラグビー選手かのように私のお弁当を腕の中に抱え込み、死守しようとする。その顔は真剣そのものだ。つか、その弁当は私のだっつーの!
なんなのこいつ!!
幾多のトラブルで鍛えられたとはいえ、私は所詮うら若き可憐な乙女だ。変態といえども男の力には敵わない。
弁当の奪い合いに疲れ果てた私は、泣く泣く敗北を認めた。
変態は疲労に膝をついた私を見下すように笑っている。悔しい! なんでこんな変態なんかに!
「このアホ! 変態! 行き倒れ!!」
私は目尻に浮かぶ何かを手の甲で拭いながら、ダッシュで自転車の元へと向かった。もちろん、変態への罵倒を置き土産に。
あぁ、今日のお弁当どうしよう……やっぱり今日は最悪な一日になってしまうんだろうか。
兄の占いの、ある意味恐ろしいほどの的中率に目の前が真っ暗になる。
変態には遭うわ、卸したての靴は汚されるわ、お弁当取られるわ。ってか、お弁当箱どうしよう。
とりあえずこれ以上の被害を受けるのはノーサンキューなので、もたせかけていた自転車に跨り、ここから逃げ出すべく走り出した。
が、後ろから、何かが聞こえてくる。地面を蹴る音。まさか。
「待てええーっ」
追いかけてきた! 変態が私のお弁当手に追いかけてきたヨー!
私はもう、これまでこんな必死に自転車を漕いだことがあっただろうか、いやないっ!(反語)という勢いでペダルを踏んだ。めちゃくちゃに足を動かした。しかしながら私はお弁当争奪戦により気力・体力ともに疲労していたのを忘れていた。それ故にスピードは言うほど出ていなかったのだ。
「……だ、か、らっ」
そんな、苛立ち交じりの声が耳に届いたとき、自転車の後輪に、ズシッと何かが乗っかってきた。
「わ、わ、わっ」
急な出来事に自転車がバランスを崩す。蛇行する自転車を上手く操作できないまま、倒れるっと私は目を瞑った。