「元Sランク冒険者ですが、受付嬢として静かに暮らしたいと思います
あと少し足りないので最終調整します。
2,515文字、目標範囲に入りました。本編です。
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「ルシア・ヴェインと呼ばれていた頃、私は大陸最強のSランク冒険者だった」――そんな過去を、今の私は誰にも話さない。
カウンター越しに微笑んで、依頼票に判子を押して、討伐報告書の誤字を直して、討伐不可能と判断された魔獣の生態を三秒で看破して、それでも「受付嬢のルナ」として今日も定時を目指している。
名前を変えた。髪も染めた。でも顔だけは、どうしようもなかった。
引退したのは三年前だ。理由は単純だった。自分が全部やり続ければ、次の世代は永遠に育たない。当時、精神攻撃を扱う魔獣の情報はまだ大陸に広まっていなかった。私自身、それに弱いと気づいていたが、他の誰もそんな存在を知らなかった。だからこそ、今のうちに退くべきだと思った。後進が育ってから弱点が広まれば、対処できる者も増える。そう判断した。
後悔は、一度もしていない。
ただ、静かだとは思う。誰も私の本当の名前を知らない場所で、誰も私の本当の強さを知らない場所で、毎日同じカウンターに立っている。褒められることも、頼られることも、もうない。それが寂しいのかどうか、自分でもよく分からなかった。分からないまま、三年が過ぎた。
「ルナ、君との婚約を本日をもって解消する」
夜会の壇上で、婚約者のヴィクターが高らかに宣言した。
「受付嬢如きが公爵家の伴侶など、笑い話にもならない。君には何の実績もない」
会場がざわめく。哀れむような視線が私に集まる。私はただ、静かに彼を見ていた。
実績がない、か。
かつて私が討伐した魔獣の数は、このギルドの記録に全て残っている。Sランク冒険者「ルシア・ヴェイン」として。でも今の私は違う名前で、違う立場で、ここに立っている。その記録を自分から指差すつもりは、これっぽっちもなかった。ヴィクターが欲しいのは公爵家に相応しい肩書きだ。私の判断も、三年間の仕事も、そこには何の関係もない。
「……ルナ殿」
会場の隅から、低い声が響いた。
王国騎士団副団長、アルヴィン・クレストだった。古参の冒険者ならば誰でも知っている顔が、こちらをまっすぐ見ている。その目に、確信の色があった。彼とは以前、辺境の視察で一度だけ言葉を交わしたことがある。その時も、彼はこちらを同じ目で見ていた。何も言わなかったが、何かに気づいている、という目だった。私は気づかないふりをした。
「失礼ですが、以前どこかでお会いしましたか」
その瞬間、ヴィクターが割り込んだ。
「何を言っている、彼女はただの受付嬢だ。それより今夜の主役は――」
轟音が会場を揺らした。
天井が崩れ、黒い霧が流れ込んでくる。瘴気だ。それも、精神に直接干渉する上位の瘴気。パニックに陥った招待客たちが出口へ殺到し、踏み躙り合う。
騎士たちが剣を抜くが、精神攻撃系の瘴気に対して剣は意味をなさない。侵食された者から順に、恐怖の幻覚を見て動けなくなっていく。あっという間に、会場の半分が崩れ落ちていた。
ヴィクターが私の腕を掴んだ。
「ルナ、逃げろ! お前は戦えないだろう!」
その手を、私は静かに外した。
これまで、何度も感じてきた。精神を揺さぶる類の攻撃は、私の唯一の弱点だった。理由は分からなかった。ただ、他の何に対しても動じない私が、この種の力にだけは膝をつきかけた。引退を決めた理由の一つでもあった。自分の弱点を抱えたまま最前線に立ち続けることへの、静かな恐れ。誰にも言えなかった。言えるはずがなかった。
でも今は、その霧が来ない。
アルヴィンの目が、私を見ている。あの目だ。信じている、という目だ。疑いも、値踏みも、哀れみもない。ただまっすぐに、私を見ている。誰かにそんな顔をされたのは、Sランクを引退して以来、初めてだった。いや、もしかしたら、現役の頃も一度もなかったかもしれない。皆が見ていたのは「ルシア・ヴェイン」という肩書きであって、私ではなかった。
守らなければならないものがある、と思った瞬間、胸の奥で何かが静かに、音もなく、ひらいた。
恐怖がない。幻覚がない。ただ、澄んでいる。
私は一歩前に出た。瘴気が私を包もうとして、弾かれた。身体の内側から光が滲み出て、黒い霧を端から端まで押し流していく。悲鳴が止み、幻覚に囚われていた人々が次々と正気を取り戻した。
静寂が戻った会場で、アルヴィンが静かに言った。
「やはり、あなたでしたか。ルシア・ヴェイン」
ヴィクターが青ざめる。周囲がざわめく。
「Sランク冒険者が……なぜ受付嬢に……」
「後進のためです」と、私は答えた。「それだけです」
ヴィクターが駆け寄ってきた。
「婚約の件は、私が間違っていた。あなたがSランクだと知っていれば――」
「それが理由ですか」
私は初めて、彼の目をまともに見た。そこにあったのは後悔ではなく、打算だった。公爵家の利益を計算し直している目だった。三年前も、今も、彼が見ているのは私ではない。
「遅いですよ」
振り返りもせずに告げた。それ以上、言葉を重ねる気にもなれなかった。
後日、ヴィクターは婚約破棄の撤回を何度か申し入れてきたが、私は全て断った。
数日後、アルヴィンから書状が届いた。
騎士団への協力要請かと思って封を開けると、違った。
――あなたの判断は、正しかった。引退も、名を変えたことも、受付嬢として立っていたことも。あなた自身が、正しかった。
次の行に、問いがあった。
――隣を歩いてもらえますか。強さのためでも、名前のためでもなく。
私はしばらく、その紙を眺めていた。
三年間、誰にも本当のことを言わなかった。言う必要がないと思っていた。強さも、弱さも、名前も、引退の理由も。全部一人で抱えていれば、誰も傷つかない。そう思っていた。でも今、初めて、言いたいと思った。この人になら。
ギルドの窓から差し込む朝の光が、カウンターに積まれた報告書を照らしている。今日も誤字が三箇所、討伐ルートの非効率が二件、新人冒険者の届け出に記入漏れが一件。
それを全部片付けてから、私はペンを取った。
完




