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『京都嵯峨野・ダイヤの殺意』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第七章 綻びの旋律


1.午後六時二十二分の記録


 ――ビーッ。


 二人の間に落ちていた沈黙が、その音ひとつで弾けた。


 坂本は反射的にポケットへ手を伸ばし、振動の余韻を残す携帯電話を引き抜いた。


 〈進展あり――復元可能な動画ファイル、一件〉


 画面に表示された短い文言を見た瞬間、胸の奥で何かがわずかに軋んだ。


 止まっていた歯車が、再び噛み合い始める感触。


 ――動いた。


 低く呟いた坂本の声に、リサは何も言わず、ただ小さく頷いた。


「鑑識課からだ。行くぞ」


 *


 京都府警・鑑識課。


 無機質な室内に、解析用サーバーの静かな稼働音だけが淡々と流れている。


 坂本は鑑識官の木村に軽く頭を下げ、モニターに視線を集中した。


 京都府警が現場から押収した、メイが最期にブーツに隠した、恋人ジェイとの連絡用のブルーのスマートフォン。


 その解析画面がモニター中央に映し出されている。


 木村が操作する解析バーが、徐々に右へと進む。


「……出ます。ここです」


 木村の短い声と同時に、再生が始まった。


 画面右上に、無機質な白文字が浮かぶ。


 ――18:22――


 あの時刻だ。


 夕暮れに染まる冬枯れの紅葉が、画面いっぱいに広がり、画面はゆっくりと保津峡の山肌をなぞる。


 そして、鉄橋の影が伸びる先――嵯峨野トロッコ列車の線路を捉えている。


 《プォオオオオ》


 野太いディーゼル機関車の汽笛が、音割れ混じりに響いた。


 トロッコ保津峡駅を発車する合図だ。


 映像の中で、メイの声が小さく囁いた。


“……美しい場所。ジェイ、早くあなたに会いたい……”


 汽笛の余韻を消すかのように、男の低い声が聞こえる。


「すいません、この後の声、拾えますか」


 坂本の息を弾ませた問いに、木村は音声レベルを上げる。


「はい、もちろん、ここからです」


 そのあとに続く、低く、押し殺したような男の声。 


 ――森下……展望台へ戻れ


 室内の空気が、わずかに張り詰める。


「その声は、久保寺の声で間違いないんやね?」


 大河原が木村の顔を覗き込むように尋ねる。


「はい、音声鑑定の結果、久保寺の声で間違いありません」


 鑑識官はマウスを動かす手に、わずかに力を込めたまま再生を続けた。


「それから……ここです。坂本さん、気づきましたか?」


 映像が一時停止され、フレームが拡大される。


 画面の上部から一瞬、レンズを撫でるように、藍色の布地が滑り込んだ。


 坂本は、瞬きもせずにそれを見据えた。


 ――間違いない。


 あの夜、久保寺の首元を覆っていた色。


「拡大します」


 木村が操作すると、拡大された布地の繊維が浮かび上がる。


「絞殺に使ったマフラーのようですね……」


 大河原はポンと手を叩いて、声を上げた。


「……ここまでは、揃いましたな、ほな・・・」


 そう言いかけた時、木村がまだモニターを見続けている。


「実は続きがあるんです‥‥」


 木村は途切れた動画を再生して数秒の動画を流した。


 スピーカーからメイの微かなうめき声が微かに聴こえる。


「……うぅ……」


 一瞬、誰の声か分からなかった。


 だが続いて、絞り出すような、か細い音が重なる。


「……お・と……さん……」


 たどたどしい、日本語。


 苦しみと、(すが)るような感情が滲んだ声。 


 メイの声が消え、映像はひっそりと幕を下ろしたかのように、足元に落ちる影だけだった。


 誰も、すぐには言葉を発しなかった。


 その声が意味するものを、全員が同時に理解してしまったからだ。


 室内の空気が、ぴんと張り詰めた。


「……メイの声だわ、 “《《おとうさん》》”?」


 リサが、震えを抑えるように言った。


 坂本が眉を寄せて額を抑えながら、


「“《《おとうさん》》”だって?まさか…?」


 大河原がその場の淀んだ空気を遮断するように言った。


「いやいや、ちょっと、まぁ、ここは一旦証拠が揃ったんやから、まず、久保寺の逮捕状を取りましょか」


 大河原は、頭を抱える坂本を他所に、部下の署員に向かって指示を出した。


「ほな、明日一番で久保寺を引っ張ってこい。それと、トロッコ保津峡駅の駅員への裏取りな。あとはあの“あのマフラー”だけや……」



2.ダイヤは嘘をつかない


 京都府警・鑑識課を出た直後だった。


 坂本の携帯が、ポケットの中で短く震えた。


 反射的に画面を確かめ、足を止める。


「……港署か」


 通話ボタンを押した瞬間、受話口の向こうから切迫した声が流れ込んできた。


『久保寺の都内スタジオです。敷地内の焼却設備から、例のマフラーを押収しました』


 坂本は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。


『昨夜、焼却予定だったものです。ただ、豪雨で作業が中断されまして……社員が処理を取りやめたそうです。炉の中に、そのまま残っていました』


 雨――。


 あの夜の天候が、脳裏をよぎる。


 坂本は歩き出しながら、低く問い返した。


「……マフラーの特徴は?」


『藍色です。カシミヤ生地のようで、かなり高級な品かと』


 隣を歩くリサが、わずかに息を呑む気配が伝わってきた。


 坂本は視線だけを向け頷く。


「重要証拠です、扱いは最優先で。鑑識でDNA鑑定を急いでください」


『了解しました!』


 通話が切れたあとも、坂本はしばらく携帯を手にしたまま立ち尽くしていた。


 雨上がりの烏丸通りに冷たく乾いた風が吹き抜けていく。


 坂本の胸の奥に溜まっていた澱みを一気に(さら)っていく。


 理屈の上では、それだけで十分だ。


 だが――。


 ぽつりと零れた声は、安堵とも確信ともつかない。


 リサは、すぐには言葉を返さなかった。


 代わりに、ゆっくりと息を吐く。


「肝心な証拠を消したつもりだったんですね……」 


 自分の手で始末したはずのものが、雨に阻まれて残っていた。


 完璧を演じる人間ほど、こういう落とし穴に気づかない。  


 すべては計画通りに処理された、という前提を信じ切り、その過信が盲点に変わることを知らない。


「完全犯罪を演じたつもりなのね……」


 坂本は答えず、濡れた舗道の先を見ていた。


「でも――雨までは、管理できなかった……これで逃げ道は、もうない」


     *


 嵯峨野トロッコ保津峡駅。


 運行終了後の構内は、人の気配が抜け落ち、線路に沿って冷えた空気だけが溜まっていた。


 駅員室の蛍光灯が、やや白く明るすぎる。


 待っていた若い駅員は、坂本の身分証を一瞥すると、わずかに背筋を正した。


「午後六時二十二分……ですか」


 駅員は一瞬、視線を宙に泳がせた。


「えーと、その時間帯は、営業列車は終わっています。ただ——」


 駅員は一瞬だけ言葉を切り、タブレットを操作した。


「回送列車が通過していますね」


「回送?」


「ええ。観光列車の最終便のあと、空車の車両を嵯峨駅へ戻すための列車です。乗客はいません」


 画面に表示されたダイヤグラム(列車運行表)には、線と数字だけが、無機質に並んでいる。


「回送列車は、例外なくこのダイヤに沿って運行します。この日はえっと……」


 駅員の指が、一本の線をなぞった。


「はい、その時刻です。汽笛を鳴らす地点は——ちょうどここ、保津峡駅構内です」


 坂本は、即座に問い返した。


「その汽笛、本当に鳴っていますか?」


 駅員は一瞬、意外そうな顔をしたが、すぐに首を横に振った。


「いえ……“鳴ったかどうか”という話ではありません」


「どういう意味ですか」


「回送列車がこの駅を通過する際、汽笛を鳴らすのは、運行規定上の義務なんです。例外はありません」


 駅員はそう言って、タブレットの画面を閉じた。


「つまり……」


 坂本が言葉を継ぐ。


「この時刻にこの駅を通過した時、汽笛が鳴った、間違いないですね」


「ええ。鳴らしています」


 駅員は断定するように言った。


「しかも、D()E()1()0()(*)の警笛は甲高い音で、谷に反響します。あの時間帯なら、山肌に残るように響いたはずです」


 動画の記録とダイヤの数字が完全に一致した。


「なるほど……」


 坂本は、ゆっくりと息を吐く。


 駅員は淡々と頷いた。


「回送列車が通過した以上――この時刻に、汽笛が鳴ったことだけは確かです」


 坂本は、その言葉を胸の奥で噛みしめた。


 ――午後六時二十二分。


 そのとき、汽笛が鳴り、動画が回り、久保寺の声と、あのマフラーが、同じ時間の中に存在していた。


 *DE10ディーゼル機関車:旧国鉄のディーゼル機関車。独特の乾いた、高い汽笛音が特徴。現在は嵯峨野観光鉄道で活躍中。



3.逆走のダイヤグラム


 逮捕状の読み上げは、極めて事務的に行われた。


 被疑者、久保寺洋一。


 被疑事実、タイ国籍「メイ・チャンシリ」の殺人——。


 警視庁港署の取調室に響くその声は、感情を排した記録の積み上げに過ぎない。


 久保寺は正面から坂本を見据えることもせず、高級腕時計の文字盤に視線を落としていた。 


「弁護士を呼んでいます。彼が来るまで、無駄な問答に付き合うつもりはありません」


 短く告げると、久保寺は口を閉ざした。


 その沈黙は、追い詰められている実感すら想定内だと言わんばかりの、揺るぎない自信の表れだった。


     *


 取調室に久保寺の弁護士が入室したのと同時に、坂本が資料を滑らせた。


「久保寺さん。あなたのアリバイ、証拠隠滅、部下への指示……すべてが緻密なダイヤグラムのようですが、完璧な殺意の運行表に致命的な狂いが出ましたね」


 久保寺の眉が、わずかに動く。


「狂いだと? 坂本さん、空想で語るなら小説家にでも転身されたらどうだ」


 久保寺は鼻で笑ったが、その笑みこそが、坂本には滑稽に見えた。


「これを見てから判断してください」


 坂本は、鑑識が復元したブルーのスマートフォンの動画写真を並べた。


「森下に処分させたピンクの携帯。だがメイさんは、このブルーの端末をブーツの中に隠して使っていた。あなたが現場を去った時刻、午後六時二十二分、トロッコ列車の汽笛が証明している」


「ふん、何を言う……心中を図ったジェイという男の偽装工作だろう。嫉妬に狂ったストーカーの凶行。ピンクの端末に残されたメッセージが何よりの証拠だろう」


 久保寺は、メイに成りすまして打たせたタイ語のメッセージを盾にする。


 背後に控えていたリサが、冷ややかに一蹴した。


「あの不自然なタイ語、タイ人なら絶対に使いません。翻訳アプリの精度の低さを呪うことね」


 久保寺は大きく溜息をつき、椅子の背もたれに深く身を預け、隣の弁護士に目線を向けた。


「……刑事さん、久保寺さんにはメイさんを殺す動機など万に一つもありません。メイさんは、久保寺の重要なビジネスパートナーのウィチャイ氏の愛娘だ。彼との信頼関係を損なうような真似をするはずがありません。むしろ彼女の死は、久保寺にしても多大な損失なのです」


 久保寺は、友の娘を失った慈愛深きパトロンの顔を作り、静かに坂本を睨んだ。


 その内心で、かつての"一方的な屈辱”を募らせていることなど、微塵も見せずに。


「損失、ですか」


 リサが冷徹な足取りで久保寺の前に歩み寄った。


「でも、メイさんの最後の言葉を聞いても、同じことが言えますか?」


 リサはタブレットの再生ボタンを、躊躇なくタップした。


 スピーカーから、ざらついたノイズに混じって、か細い音が重なる。


『……お・と……さん……』 


 リサの声が、冷たく取調室を射抜いた。


「タイ人の彼女が、父であるウィチャイさんに助けを乞うなら、タイ語で《クン・ポー》と呼ぶはずだわ。でも、彼女が遺したのは《おとうさん》というたどたどしい日本語だった。…………彼女が誰を呼んだの? あなたならわかるはずよ」


 久保寺の喉が、わずかに震えた。


「……風のノイズか、日本語に似たタイ語の聞き間違いだろう。彼女は、父親であるウィチャイを呼んだのだ。……私に娘などいない」


「聞き間違い?……いいえ、彼女が《日本語》で言ったことに意味があるのよ」


 久保寺の唇が、何かを言いかけて閉ざされた。


 ——あの時、俺を裏切ったのは奴とあの女のはずだ……。 


「メイさんを殺したのは、あなたですね」


 坂本は、その仮面の裏に隠された動揺を見逃さず、改めて問うた。


 久保寺は大きく息を吐き、天井を仰いだ。


 その瞳には、もはや腕時計を見る余裕など残っていなかった。


「……私は、殺していませんよ」


 その声は、不協和音のように震えていた。


 完璧に設計されたはずのダイヤは、そこから静かに逆走を始めていた。


(第八章に続く)


第七章、最後までお読みいただきありがとうございます!

完璧なダイヤを狂わせたのは、計算外の雨と、メイが遺したたどたどしい「日本語」でした。リサが見破ったのは翻訳アプリの日本語ータイ語の翻訳精度の未熟さなのです。かくいう筆者も好んでタイ語翻訳アプリを多用しますが、まだまだ日本語への精度が今一つなんですね…

久保寺が頑なに拒絶する「おとうさん」という言葉。なぜタイ人の彼女が、最期にその呼び名を選んだのか。次章・第八章「因縁の鑑定書」では、二十五年前のタイで、久保寺が「裏切り」だと思い込んでいたものの正体が現像されるとき、物語は最も残酷な局面を迎えます。乞うご期待!

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