第六章 反撃の序曲
1.砂の供述
京都府警の取調室。
無機質なコンクリート壁に囲まれた空間に、重苦しい沈黙が沈殿している。
坂本は、錆びついたような音を立てるパイプ椅子を鳴らし、机を挟んで座る久保寺をまっすぐに見据えた。
対する久保寺は、そこが取調室であることを忘れたかのように、高級ホテルのラウンジで寛ぐかのような仕草で背もたれに身を預けている。
仕立ての良い三揃いのスーツに身を包み、傍らに無表情で坂本を見返す専属弁護士を控えさせ、優雅に脚を組むその姿は、その場の空気から完全に浮き上がっていた。
「……残念ながら、アーティット君の供述は一貫しています。あくまで単独犯であり、突発的な犯行ということになります」
坂本の言葉に、久保寺は芝居がかった深いため息をついてみせた。
「実に遺憾だ。彼がそれほどまでに激しい気性を隠し持っていたとは……。私の教育不足、管理不足を痛感しますよ。……それで、参考人としての私の義務はこれで果たせましたかな? 東京では分刻みのスケジュールでインフルエンサーたちの撮影が控えていましてね。そろそろ戻りたいのですが……」
「まあ、そう焦らずに。少しお話を聞かせていただきたいだけです。……ところで久保寺さん、今日は首元が随分と寂しいようですが」
坂本はわざとらしく、久保寺のジャケットの襟元に目をやった。
あの日、彼の首を誇らしげに支配していた“マフラー”は、そこにはない。
「おや、よく見ていらっしゃる。昨日お見せした、あのカシミヤのことですか?」
「ええ。一流品しか身につけないのがモットーのあなたが、あんな一級品を外して歩くのは珍しいと思いましてね。今日もさぞ、その感触を楽しまれているのかと」
「ふふ、買いかぶりすぎですよ、坂本さん。実は昨日、日帰りで東北のクライアント先へ向かう新幹線の中で、つい居眠りをしてしまいましてね。デッキで電話を終えて席に戻った際、棚に置いたまま下車してしまった。急いで那須塩原駅で紛失届は出しましたが……おそらく戻ってはこないでしょう。残念でなりません」
「ほう。新幹線に……。それは災難でしたな。あれほど執着されていたものを失くすとは、あなたらしくもない」
坂本はあえて机へ身を乗り出し、久保寺に顔を近づけ、囁くように言った。
「だが、不思議ですね。あれほど一級品の肌触りを知ってしまうと、二度と手放したくなくなるのが人間の性だ。……それを、こうもあっさりと『紛失』したと仰る。よほど、なにかの記憶ごと置き去って来た……そんな風にも見えますがね」
坂本の薄笑いの不遜な物言いに、久保寺の口角に昏い怒りが滲む。
「……詩的な解釈ですね。ですが、私は合理主義者でしてね。失くしたものは、また手に入れればいい。直せばいい。ただそれだけですよ」
「ああ、そうでしたね。代わりはいくらでも手に入る……。メイさんの時も、そう仰っていた」
久保寺の表情から、わずかに余裕が剥がれ、その奥に冷徹な瞳が覗いた。
坂本は低く、這うような声で単刀直入に尋ねた。
「久保寺さん。あなたはアーティットに命じて、森下を殺させた。違いますか?」
久保寺が唇を歪め、反論の言葉を吐き出そうとした。
それを予期していたかのように、弁護士が鋭い咳払いをひとつした。
「失礼。坂本刑事。久保寺氏の貴重な時間を、これ以上空想に割かせるつもりなら、しかるべき手続きを取らせていただきますよ。アーティット氏は、森下氏と口論の末に突発的に手を下したと自供している。動機は私的な金銭トラブルでしょう。久保寺氏が指示をした証拠も、あなたが固執しているそのマフラーも、この世には存在しない。……違いますか?」
久保寺は満足げに頷き、ゆっくりと席を立った。
「坂本さん、証拠がないなら失礼するよ。……あなた方警察の組織というのは、意外と杜撰な管理体制のようですな……」
背中を向けて去る久保寺の足音に、坂本は砂を噛むような焦りと怒りを噛みしめた。
2.泥の忠誠
地下留置場の面会室。
古都・京都の雅を完全に遮断する特殊な空間だった。
鉄扉の向こうから、規則正しい足音が近づく。
先に姿を現したのは、紺色のスーツに身を包んだ大阪のタイ総領事館職員だった。
タイの国旗をあしらった胸元の控えめな徽章が、その立場を静かに主張している。
その一歩後ろに、リサが続いていた。
「本日は、タイ国籍、アーティット・チャイワット氏の状況確認のため、面会を願います」
形式的なやり取りの後、職員はアクリル板越しの席に着き、必要最低限の確認を済ませると、静かに部屋の隅へと下がった。
――ここから先は、同じ母国語を持つ者同士の時間だった。
アーティットは、没収されたプラクルアンがあった胸元に、無意識に手をやった。
今の自分を守ってくれるものは、この部屋には何もなかった。
アクリル板越しに、リサと目が合った。
彼女は、ほんのわずかに頷く。
「……妹さんは、重い病気なのね……」
アーティットが答える前に、リサは静かに言葉を続けた。
「あなたの状況は、総領事を通じてタイ本国へ報告されるわ。でも……無理に話さなくていいのよ。私は、あなたの言葉を直接聞きたいだけ、それだけよ」
それは職務としての言葉だった。
本当は、その先を言いたかった。
――必ず、助けてあげる。
だが、その約束を守れる保証が、自分にはない。
リサは、その一言を飲み込んだ。
アーティットの胸に、殺してしまった森下の記憶が悪夢のように蘇ってくる。
雨の降る桂川の深夜の河原。
森下は必死に語りかけてきた。
久保寺から離れろ、不法な仕事に戻るな――それは叱責ではなく、日本人の優しい兄のような心配だった。
揉み合いになり、足元の石を掴んだ。
振り下ろした瞬間の、鈍い衝撃。
短い喘ぎ声が増水した桂川の濁流に呑まれて消えた。
坂本刑事の言う通りだ。
久保寺が、指示をした。それは紛れもない事実だった。
だが、その事実を語る自由は、アーティットにはなかった。
一週間前、久保寺はドイツ製の高級車の後部座席で、一枚の書類を差し出した。
タイの私立病院のロゴが入った、妹の診断書と見積書。
妹は、生まれつき重い心臓疾患を抱えている。
出稼ぎで送る金では、延命が精一杯だった。
「来月には手術ができる。費用は私が全額出そう。執刀医も、最高のチームを揃えてやれるが……」
両手を胸の前で併せ、感謝の言葉を述べようとしたアーティットを、久保寺は指一本で制した。
「その代わりだ。これから言うことは、すべて君一人でやる。取引じゃない。ただの役割分担だ」
条件は明確だった。
森下を殺し、突発的な単独犯としてすべての罪を被ること。
理由は何でもいい。
――久保寺の名を一言も出さず、刑務所へ行くこと。
そうすれば、妹の命は救われる。
家族には、匿名の口座を通じて一生困らないだけの金が振り込まれる。
「……もし、私が警察に捕まったらどうなりますか?」
絞り出すように尋ねた時、久保寺は初めて彼を見た。
その目には、期限切れの食材を見るような無関心さしかなかった。
「その時は手術は中止だ。支援も止める。君の家族がどうなろうと、私には関係ない」
久保寺は、最後まで「殺せ」とは言わなかった。
ただ、真実を語った場合の“当然の結果”を淡々と説明しただけだ。
取調室で坂本刑事に詰め寄られた時、アーティットは何度も叫びたくなった。
助けてくれ、真実を話したい、久保寺が怖い――と。
だが、日本の警察が、バンコクの片隅で消えかけている妹の命を救ってくれるわけではない。
自分が外国人犯罪者として法廷に立ち、長い刑期を務めること。
それだけが、妹の心臓を動かし続ける唯一の代償だった。
真実を語る選択肢は、最初からなかった。
森下の、最後の困ったような笑みが、何度も脳裏に浮かぶ。
――本当に、すまない……。
独房の天井を見つめるアーティットの瞳から、熱い涙が一筋、耳元へと流れた。
彼は声を殺して泣いた。
3.不協和音
京都府警の屋上。
晩秋の乾いた風が、夕闇に沈みかけた古都の街を吹き抜けていた。
低いビルの谷間に灯りが点り始め、遠くでクラクションの音がかすかに混じる。
坂本はフェンスにもたれ、紙コップの冷めきったブラックコーヒーを一口すすった。
苦味だけが、妙に舌に残る。
「……何をしているんですか、坂本さん。探してたんですよ……」
振り返らずとも分かった。
リサの声だ。
そこには、抑えきれない憤りが滲んでいる。
「久保寺を帰したそうですね。指一本、触れさせずに!」
「任意同行だ。引き止める理由がない」
「理由……?」
リサは坂本の前に回り込み、真正面から睨んだ。
「私は、面会室で彼の話を聞きました。アーティットは久保寺に脅されている。妹の命を人質に取られて、罪を被らされているんです。――それでも、日本の警察は何もできないんですか!」
坂本は視線を外し、古都の碁盤の目のような街の灯りを見つめた。
京都御所の森は、彼の目にぽっかりとした暗い空白として映っている。
そこに感情を落とせば、何かが壊れる。
守ってきたのは正義だけじゃない。
組織の中で役割を果たす、自分の立ち位置だ。
それを疑わずにいた時間が、今、リサの前で静かに崩れ始め、胸の奥に言葉にならない高まりを残していた。
「リサ、わかってくれ。日本の裁判で通用するのは、証拠だけだ。本人の供述も、書面も、すでに“単独犯”で処理されている。君が聞いた話は、法廷ではただの伝聞なんだ……」
「……それじゃあ、正直者が馬鹿を見るだけじゃないですか……」
リサの声が、わずかに震えた。
「久保寺は今も自由で、アーティットは独房にいる。真実は分かっているのに、日本の警察制度がそれを拒んでいる。そんな捜査、意味があるんですか?」
坂本は紙コップを右手で潰した。
乾いた音が、風にさらわれる。
「意味がないと思ったら、とっくに辞めてるさ……」
リサは唇を噛み、しばらく黙っていた。
「……じゃあ、どうするんですか」
坂本は短く息を吐いた。
「正面からは行かない。もう一度、奴の周囲を崩してみよう……必ず綻びはあるはずだ」
坂本は手にしていた紙コップを無造作にゴミ箱へ放り投げた。
だが、コップは縁に当たって床に転がる。
一瞬の間。
リサが、思わずクスッと鼻を鳴らした。
坂本は眉をひそめ、紙コップを拾い上げ、今度はきちんとゴミ箱に入れる。
その何気ない動作を見つめながら、リサがぽつりと呟いた。
「……ゴミ箱」
坂本の動きが、わずかに止まった。
「久保寺は、俺たちがマフラーを追っていることも承知していた。その上で『新幹線に置き忘れた』と届けを出した。だが、あれは置き忘れじゃない。……恐らく、自分のスタジオにある焼却用のゴミ箱に放り込んだんだ!」
もし、坂本の読みが正しければ――
だがマフラーは、すでに灰になっている可能性が高い。
リサは、喉の奥で息を詰まらせた。
胸の底に沈んでいく落胆。それでも、完全には沈みきらない何かが残る。
坂本はポケットから携帯電話を取り出した。
迷いはなかった。
「公安に繋いでください。至急お願いします」
短く告げ、フェンスから身を起こす。
風に揺れる街の灯りが、彼の横顔を一瞬だけ照らした。
「都内、久保寺のスタジオ。敷地内に焼却炉があるはずだ。まだ火を入れていなければ、痕跡が残っている可能性がある。今すぐ押さえてほしい」
通話を終えた坂本は、しばし暗い空を仰いだ。
希望を口にするには、あまりに分が悪い。
それでも、手を止める理由はなかった。
リサは、その背中を見つめていた。
落胆は確かにある。
だが、彼が電話を入れたその瞬間、胸の奥で小さな火が灯った。
――まだ、終わっていない。
「……間に合いますよね?」
祈るような声だった。
坂本は振り返らずに答えた。
「ああ。久保寺は、自分の手で終わらせるタイプだ。必ず隙がある……」
その言葉に、リサは小さく頷いた。
二人の間で鳴っていた不協和音は、形を変えつつあった。
それは、絶望の音ではない。
踏み出すための、静かな反撃の序曲だった。
(第七章に続く)
第六章までお読みいただき、ありがとうございます。
この章では、「真実を知っているのに動けない人間」と、「知ってしまったからこそ動かずにいられない人間」を描きました。坂本が立っている場所は、冷たい制度の内側です。そこでは感情より証拠が、怒りより手続きが優先されます。彼が守ってきたのは正義ではなく、その中で自分が果たすべき役割でした。
一方、リサは制度の外から、その歪みに触れます。助けたい、見過ごせない――その素朴な感情が、坂本の中にあった「疑わずにいられた時間」を静かに崩していきます。この不協和音は、まだ解決には至りません。けれど、踏み出す前に鳴る小さな前触れです。正しさと現実の狭間で揺れる二人の背中を、少しでも近くで感じていただけたなら幸いです。物語はだんだんとクライマックスへと向かいます。次章、ご期待ください!




