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『京都嵯峨野・ダイヤの殺意』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第五章 沈黙の聖域

1.京都発・上り最終列車


 京都を出た最終の「のぞみ」は、夜の帳が降りた沿線を東京へ向けて突き進んでいた。

 

 低い走行音が遠い街の灯火を視界の端へ散らしていく。


 車内には、缶ビールを片手に、パソコンを叩く出張帰りのビジネスマンや、疲れ果てて眠る観光客がそれぞれの目的地を目指して静かに座っていた。 

 

 リサは座席に深く沈み、窓の外を流れる街の光をぼんやりと眺めていた。

 

「……ふぁあ。疲れた」


 隣で、坂本が盛大にあくびをしながら上体を起こした。


「……坂本さん、寝てたんじゃないんですか」


「いや、腹が減って目が覚めた。……リサ、これ食うか」


 坂本は足元のバッグから、大河原が別れ際に押し付けてきた阿闍梨餅(あじゃりもち)(*)の包みを取り出した。


「何ですか、それ。……饅頭?」


「京都の有名な餅菓子だ。大河原さんが『車内で食いなはれ』ってな。ほら」


 坂本は包みを二つ取ると、一つをリサに差し出した。


 袋を破ると、しっとりとした質感の、こんがりとした飴色の餅が現れた。  


 リサは戸惑いながらも一口かじる。


 モチモチとした弾力と、中に詰まった粒あんの控えめな甘さが、張り詰めていた神経をほどくように口の中で溶けていった。


「今のうちに腹に入れとけ。品川に着いたら、もう一息つく暇もないからな……」


 坂本はそう言って喉を餅を飲み込むと、売店で買った「伊右衛門」のキャップをひねった。


 宇治茶の渋みで口の中をさっぱりさせると、彼は座席の背もたれから上体を起こした。


 メイに起きた真実を白日の下に晒し、ジェイの名誉を回復したい。


 そして、自分たちを出し抜こうとしている久保寺を追い詰める。  


 阿闍梨餅のまろやかな甘さは、張り詰めたリサの意識をわずかに現実へ繋ぎ止めてくれた。


「……美味しいですね。でも坂本さん、よくそんな勢いよく食べられますね。口の端に餡子がついてますよ」


 リサが自分の口角を指さして教えると、坂本は


「……ん? ああ、悪い」


 呆れたようにリサがバッグからハンカチを取り出そうとした、その時だった。


 サイドテーブルのスマートフォンが鋭く震えた。画面には「大河原」の名が表示されている。

 

 坂本は即座に端末を手に取った。


「……大河原さんだ。森下の件、詳細が上がってきた」


 その目つきから先ほどまでの弛緩した空気が完全に消え去る。


「リサ、ちょっと失礼……」 


 坂本は携帯電話を持ってデッキへと足早に向かった。




2. 深夜の桂川


「……坂本さん、大河原です。昨夜の零時、森下から久保寺にメッセージが入ったそうや。内容は『メイの金を横領していたのがバレて、カッとなって殺した。死んで詫びる』いう遺書らしい。……けどな、久保寺が警察に連絡してきたんは、今日の午後九時過ぎや。森下が死んで丸一日経ってから『今気づいた、信じたくなかった』やと。白々しいにも程があるわ……」


「……昨夜の零時、か。鑑識の結果はどうだったんです?」  


 坂本が低く問い返すと、大河原が苦い溜息を吐くのが聞こえた。


「死亡推定時刻も零時前後や。つまり、メッセージが送られた時には森下はもう殺されとったんや。川に沈められるのとほぼ同時にな」


「久保寺は東京で、遺体が上がるのをじっと待っていたわけだ。自分が『部下の凶行を今さら知らされた被害者』として名乗り出るタイミングを計るために……」


「そういうことや。丸一日の沈黙は、奴が完璧な『悲劇の経営者』を演じるための準備期間やったんやろう」


 坂本は冷たい戦慄を覚えた。


 久保寺は、森下の立場を逆手に取り、彼を「横領の果てに自壊した男」に書き換えたのだ。  


 通話を終えて席に戻った坂本に、リサが尋ねた。 「何か進展があったの?」


「大河原さんの話では、昨夜の午後十一時過ぎ、現場近くで森下と言い争っていた不審な男がいたそうだ」  


 リサが怪訝な顔をして「不審な、男……?」と訊いた。


「ああ、ホテル付近のコンビニ店員によれば、『アジア系の若い男』だったらしい。そいつはフードを深く被り、森下と日本語混じりの聞き慣れない言葉で喚き合っていたそうだ」


 リサは窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。


「……アジア系。タイ人とは、限りませんよね……?」


「うむ。仮にその男が久保寺に差し向けられた者だとすると……」


「久保寺の会社のスタッフ、ということかしら?」


「おそらくな……。彼のスタジオで働く従業員は多国籍だ。出入り業者を含めれば、アジア系の人間などいくらでもいる。だがな、リサ。久保寺が森下を消すための駒を選ぶなら、身元の確かな人間は使わないはずだ。しかし……」


 坂本は冷静に分析を口にする。


「森下が夜中に二人きりで会うのを拒まず、かつ久保寺が弱みを握って自在に操れる人物……。例えば、日本での在留資格が切れ、不法就労になった人間なら、久保寺にとってはこれ以上ない便利な道具になる」


 リサの指先が、かすかに震えた。


 タイの警察官として、彼女は多くの犯罪を見てきた。


 夢を抱いて日本へ渡った若者が、弱みに付け込まれ、犯罪に加担させられる構図。


 それはバンコクでも、日本の華やかなスタジオの裏側でも、本質的には同じだ。


「……あの男なら、やりかねないわ。そうやって他人の人生を使い捨てにするのね?」  


 リサの言葉に、坂本は無言で頷いた。


「……リサ。まだ推測の域を出ない。今は、大元を叩くことだけを考えよう」  


 坂本の静かな、だが重みのある言葉が、迷走し始めたリサの思考を繋ぎ止めた。


「はい。……そうですね。誰が手を下したにせよ、裏で糸を引いているのは久保寺でしょうから……」


 リサは唇を噛んだ。


 新幹線は減速を始め、窓の外の景色が光の矢からくっきりと街の灯りへと変わりつつあった。


 品川駅のホームへと滑り込む窓に、二人の険しい表情が映り込む。


「明日は、奴のスタジオに乗り込むぞ……。今夜はゆっくりと休んでおこう……」




3. 虚飾の報酬


 港区の一等地に建つビル。


 その最上階にある久保寺のスタジオは、機能性を突き詰めた無機質な空間だった。


 エレベーターを降りると、そこには彼が手掛けるアジアの人気インフルエンサーたちの巨大なポートレートが並んでいる。


 メイもその一人として、この場所で「商品」としての価値を管理されていた。


 案内された応接スペースは、スタジオの奥に位置していた。


 撮影用の機材や遮光カーテンが整然と並ぶ中、中心に置かれた白いレザーソファに久保寺は深く腰掛けていた。  


 特注のシルクシャツを纏い、指先には細い煙草。


 そして、彼の傍らのソファの背もたれには、あの日メイの命を奪った藍色のカシミヤのマフラーが、無造作に掛けられていた。


「いらっしゃい、坂本さん。それにタイからお越しの……リサ警部補でしたね。どうぞ、お掛けください」


 久保寺は薄く笑みを浮かべ、ソファへと二人を促した。


 その眼差しは冷徹で、相手を値踏みするような鋭さがある。


 リサは視線の先にあるマフラーに意識を奪われそうになりながらも、懸命に冷静を装った。


 久保寺はリサの視線に気づくと、満足げに目を細めた。


「ああ、このマフラーですか。私のお気に入りなんですよ。カシミヤの純度が高くて肌に触れる感覚が実にいい。大切な人からの贈り物でしてね」


 久保寺は指先でマフラーをなぞり、その滑らかな感触を楽しむように言った。


 その言葉の裏にある残酷さを、リサは奥歯を噛み締めて耐えた。


「森下の件なら、昨日警察にお話しした通りですよ」  


 久保寺は悠然と煙草の煙を吐き出した。


「実に遺憾だ。長年、私の右腕として経理まで任せていたマネージャーが、あろうことかメイさんに支払われるべき多額のギャラを着服していたとは。彼女に問い詰められ、発覚を恐れて……あんな悲惨な事件を起こした。彼はすべてを清算するために、自ら命を絶った。そうでしょう?」


 久保寺の言葉は、淀みなく流れた。


 森下に「横領」という汚名を着せ、全ての罪を死人に押し付ける。


 それが彼の描いた完璧なストーリーの結末だった。


「久保寺さん。あなたの言う通りなら、森下は随分と杜撰な男だったことになるな」  


 坂本が、低い声で応接テーブルを指先で叩いた。


「だが、着服の証拠とされる口座記録も、本人が死んでしまっては確認のしようがない。我々は、森下が死ぬ直前に何をしていたのか、もう少し詳しく調べる必要があると考えています」


「ほほぉ。この期に及んで、まだ何か調べたいのかね?」


 久保寺は煙草を灰皿に押し付けると、上体をゆっくりと前に乗り出した。


 高価な香水の香りが、スタジオの無機質な空気の中に不自然に立ち込める。


「死人に口なし、と言うでしょう? 彼は自白とも取れる遺書を残した。京都府警もそれで納得している。それとも……私のスタジオの管理体制に不備があったとでも言いたいのか?」  


 その声には、隠しきれない傲慢さと、暗にこれ以上の介入を拒む威圧感が籠もっていた。  


 リサは、彼の背後にある巨大なメイのポートレートに目をやった。


 光を浴びて微笑む彼女の首筋を、あの藍色のマフラーで締め上げたのだろうか……。  


 その光景を幻視したリサの胸に去来したのは、深い悲しみと、それを踏みにじる男への激しい怒りだった……。




4.見えない鎖


「ちょっと、お手洗いを借りてもいいでしょうか?」


 リサが静かに切り出すと、久保寺は鷹揚に手を振り、スタジオの奥を指差した。


「ええ、もちろん。自由になさってください」


 リサは立ち上がり、機材搬入出口の重いカーテンを開けた。


 表の洗練とは無縁の、機材のコードがのたうつ埃っぽいバックヤード。


 数人のスタッフが黙々と照明セットを調整している。


 リサの視線が、一人の若い青年に釘付けになった。


 Tシャツの襟元から覗く「プラクルアン(小仏像の御守り)」を必死に握りしめ、念仏を唱える様な仕草をしている。


 窮地で御守りに縋るその所作に、リサは確信した。


(……タイ人だわ)


 周囲に人がいないことを確認し、迷いなく歩み寄る。


「……サワディーカー。少し、話をしてもいい?」


 母国語で語りかけた瞬間、青年の身体が凍りついた。


 名をアーティットというその青年は、血の気の引いた顔でリサと正対した。


「怖がらなくていいわ、アーティットさん。私はバンコクからタイ公安警察のリサよ。メイさんのことは、あなたも知っているわよね?」


 アーティットは一瞬縋るような目を向けたが、すぐに視線を落とした。


「……ダメだ。あの人には逆らえない。警察に話せば、僕は強制退去させられる。日本を追い出されたら、故郷の家族はどうなるのさ?」


 リサは一歩踏み込む。


「でも、このままでは食いつぶされるだけよ。森下さんがギャラを着服していたなんて、本当なの?」


 彼は母国語で、堰を切ったように話し始めた。


「違う! 森下さんはメイさんの味方だった。だから汚名を着せられたんだ」


「……じゃあ、京都で何があったの? あなたが森下さんの命を奪ったのね?」


 彼はその場に力なくしゃがみ込んだ。


「森下さんは、京都に残って警察に協力するよう命じられていました。でも……久保寺さんは僕に、彼を殺せと命じた。でも逆らえなかった。午後十一時ごろ、ホテルの前の路地で森下さんと話をしていたら、彼は逆上して……喧嘩になった。僕は無我夢中で、そばにあった石で彼の頭を……」


「……そのあと、どうしたの?」  リサが続きを促した。


 肩が激しく上下する。


「息をしなくなった彼を桂川に投げ捨て、東京へ戻って報告しました。あの人は平然と『ご苦労、君の在留資格と査証の件は問題ない、これからも頑張りたまえ』と言ったんです。一瞬ホッとしてしまった自分が恐ろしい。森下さんには、本当に悪いことをした……」


 リサは彼の震える手を取った。


「あなたが行ったことは罪だけど、久保寺に操られていたのも事実よ。お願い、証言台に立って。あの男を裁くために!」


「ダメだ! そんなことをしたら僕は刑務所だ。家族はどうなる? 久保寺さんは僕を消すかもしれない。証言なんて、絶対に嫌だ!」


 拒絶は切実だった。


 久保寺が植え付けた恐怖は、正義感だけで拭えるものではない……。


 リサが沈痛な面持ちで応接室へ戻ると、久保寺は依然として優雅に煙草を燻らせ、傍らにはあの藍色のマフラーが掛けられていた。


 リサの表情から、坂本は「証言」の確約が取れなかったことを察した。久保寺は二人の焦りを見透かしたように、マフラーにそっと手を触れ、満足げに微笑む。


 スタジオの空気は、嵐の前の凪のように重く冷たく、膠着したまま沈殿していった……。


(第六章に続く)


(*)阿闍梨餅(あじゃりもち):京都・満月が製造する名菓。比叡山の修行僧「阿闍梨」に由来し、もちもちの皮で丹波大納言小豆の粒あんを包む。香ばしく上品な甘さが特徴。

物語は、華やかなインフルエンサー業界の裏側に潜む、久保寺の冷徹な支配構造を浮き彫りにしました。実行犯であるアーティットの告白によって「森下殺し」の真相は明らかになりましたが、彼が抱える「恐怖の鎖」はあまりに重く、法による裁きへの道は依然として膠着しています。

メイを奪い、森下を陥れ、弱者の人生を使い捨てる久保寺。彼の傍らにある藍色のマフラーは、亡きメイの最期を知る無言の証人です。次章、坂本とリサはこの難攻不落の“久保寺の要塞”をどう崩していくのか。物語はいよいよ解決編へと加速します。乞うご期待!

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久保寺のガラ拐って、拷問加えて自白させる、なんて強攻手段は職務上とれないのがもどかしい。
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