第四章 虚構のダイヤ
1.時間の規律
京都府警へと向かう地下鉄烏丸線の改札口。
リサは、坂本から渡された京都市の紋章と地下鉄の車両が描かれたICカード「ICOCA」を物珍しそうに眺めていた。
名刺サイズの樹脂製プレートに、ICチップが埋め込まれている。
「これをかざすだけで、切符も買わずに電車に乗れるし、買い物もできちゃうなんて……。タイにも似たものはあるけど、日本のスピード感は異常ですね」
リサは早速、自動販売機で買った温かい缶コーヒーで手を温めながら感心している。
ホームの掲示板に並ぶ表示は、まるで目に見えない糸で操られているかのように、滑り込んでくる列車の動きとぴたりと重なった。
一分の狂いもなく刻まれていく時間。
「バンコクなら、五分や十分の遅れは『マイペンライ(気にしない)』よ。でも日本は、時間を一秒ずつ丁寧に編み上げているみたい……」
リサの横で、坂本は携帯端末を操作しながら言った。
「いま、京都府警から連絡が入った。久保寺と森下の当日の行動を確認中だ。同時に、大阪府警へも久保寺の足取りについて照会を依頼したそうだ」
暗いトンネルを走る車内には、五条、四条、烏丸御池と、日本語と英語の正確なアナウンスが響き続ける。
その規則正しい振動が、久保寺の完璧なアリバイに刻まれたわずかな亀裂を震わせ始めているかのようだった。
「久保寺のアリバイは、今のところ揺らいでいないんだ」
坂本は吊り革を掴んだまま、低い声でリサに告げた。
「あの日、彼は午後五時に大阪のテレビ局に入り、七時過ぎまで梅田の繁華街で複数の人間に目撃されている。嵐山での殺害推定時刻が午後六時三十分前後だとすれば、物理的な移動は不可能……普通なら、そう結論づける」
「でも坂本さん、あのブルーの携帯に残された、空気を引き裂くようなあの汽笛……。あれは一体何なの? ひょっとして久保寺は、日本の鉄道が持つこの『ダイヤの神話』を逆手に取ったのかしら?」
「さすがの日本通だな。その可能性は大アリだよ、リサ」
坂本はリサの耳元へ顔を寄せ、声を潜めた。
「大河原警部はすでに動いている。右京署を通じて、トロッコ保津峡駅の駅員に裏を取ったんだ。あの日、営業運転を終えて終点の亀岡から折り返してきた『回送列車』があった。ディーゼル機関車DE10が引くその空の列車は、午後六時二十二分、トロッコ保津峡駅を確かに発車している。駅員は、その瞬間に山々に響き渡った汽笛の咆哮をはっきりと覚えているそうだ」
地下鉄が丸太町駅に停車すると同時に、圧縮空気の排気音を「プシュー」と鳴らしドアが開いた。
リサは吐き出される乗客の波を見つめながら、一歩ホームへ踏み出した。
二人は地上へ上がり、京都御所を右手に見ながら烏丸通を足早に歩き出す。
「……つまり、あの動画の汽笛がその回送列車のものだとしたら、メイはあの時刻、確実に展望台にいたことになるわね。そして、大阪にいるはずの久保寺の声が、そのすぐ隣で記録されていた……」
「ああ。久保寺が大阪に現れる直前の足取りに、不自然な『空白』があるんだ。森下のあの怯えたような目……彼の足取りを詳しく調べる必要がある。久保寺の『影武者』を務めたんじゃないか。久保寺が大阪にいたという記録が本物でも、その『データ上の足跡』を刻んだのは、なりすました別の人間だった可能性が高い」
「データ?」
「それさ……」 坂本は、リサが持っているICOCAを指さした。
「日本では、どこで改札を通り、どこで買い物をしたか、そのすべてが時刻と共に記録される。犯人はその仕組みを、自分が大阪にいたという証拠作りに利用したのだと思う。久保寺は、この一分も狂わないダイヤの連鎖を、鉄壁のアリバイにしたつもりだろう」
坂本は府警の建物を見上げ、言葉を継いだ。
「だがな、リサ。どれだけシステムが完璧でも、使うのは人間だ。あのアリバイ、そのうち見苦しい音を立てて壊れるはずだぞ……」
2.京都府警察本部
二人は、京都御苑の深い緑を背に、ガラス張りの京都府警本部のロビーへと足を踏み入れた。
そこには警察特有の威圧感はなく、美術館のような静謐な空気が流れている。
高い天井の吹き抜けから差し込む光が、空間に独特の静寂を醸し出していた。
「うわぁ、綺麗で静かですね。タイの警察署とは大違いですよ」
リサが感嘆の声を漏らすと、坂本は軽く襟を正した。
「リサ、場所が変わってもやることは同じだ。見とれてないで、行くぞ」
坂本は足を止めず、エレベーターの「4」のボタンを押した。
扉が滑らかに開く。
そこには一階とは質の違う、張り詰めた空気が充満していた。
無数のタイピング音、低く響く電話の応対、そして刑事たちの険しい顔つき……。
壁に掲げられた「タイ人インフルエンサー殺人事件捜査本部」の幕板。
刑事たちの眼差しは鋭く、リサという部外者を瞬時にスキャンしては切り捨てていく。
「驚くことはない。これがこの建物の“中身”だ」
坂本が素っ気なく言い、二人は大河原のデスクへと向かった。
「待っとりましたで。大阪での久保寺と森下の“足跡”、洗えば洗うほどおもろいことになってますわ」
大河原は、数枚の防犯カメラの静止画とICカードの履歴表を机に広げた。
「あの日、昼過ぎに久保寺は“別件がある”とメイさんに告げ、大阪へ向かったことになっとる。だがな……」
大河原が突きつけたのは、百貨店の食品売り場の鮮明な画像だった。
「実際に、四条河原町の百貨店で生八つ橋を買い、阪急電車で大阪へ移動。梅田の家電量販店で久保寺のカードを使って決済ログを残したのは、身代わりの森下や。本物の久保寺は京都市内に残り、自由時間になったメイさんを展望台へと誘い出した」
「データ上のアリバイ……?。でも、顔までは隠せなかったということね」
リサが覗き込んだ静止画には、防犯カメラを意識する余裕もなく怯えた表情を晒している森下が映っていた。
「その通り。なりすましだけで精一杯の男ですわ。だが、さらに決定的なのは久保寺本人のヘマや」
大河原は、時系列が書き込まれたホワイトボードを指し示した。
【久保寺・森下/当日の動き】
16:47 大阪梅田駅 発(森下)大阪での「久保寺の足跡」を刻み終え、嵐山へ戻る。
17:40 阪急嵐山駅 着(森下)そのまま駅で待機。
18:22 久保寺から「戻って来い」の電話音声。
18:23 メイ殺害(実行犯・久保寺)森下は久保寺の犯行を目撃。ジェイを待ち受ける役を担う。
18:30 小倉山展望台 発(久保寺)下山開始。
18:34 阪急嵐山駅(久保寺)自販機決済(予備カード使用)
18:36 阪急嵐山駅 発(久保寺)。
19:28 大阪梅田駅 着(久保寺)「大阪にいた久保寺」として、北新地で会食に合流。
「午後六時二十二分の汽笛の直後に殺害。そこからわずか七分後にはもう山を下り始めている。冷酷なまでの手際の良さだな……」
坂本がホワイトボードを凝視しながら呟いた。
「まさしく……。一方、大阪での工作を終えて嵐山へ戻っていた森下は、六時三十分過ぎ、入れ替わるように展望台へ現れ、遺体のそばでジェイさんと鉢合わせる役を演じた。本物の久保寺はその隙に、森下が作り上げた“大阪のログ”を引き継ぐため、駅へと急いだんですわ」
一人の女性を殺めるために、秒単位の計画を完遂する男の狂気に、リサは背筋が寒くなるのを感じた。
「そやけど久保寺は、一つだけ致命的なヘマをやりよりました。府警のIT班と右京署の執念が、その“矛盾”を突き止めたんです。殺害直後の午後六時三十四分、阪急嵐山駅のホームや。喉が渇ききっていたんやろな。自販機で水を買う際、あいつは無意識に、財布に残っていた『予備のICカード』をかざしてしもたんや…」
「予備のカード……それも久保寺名義だったの?」
「そうや。森下が大阪で久保寺名義のメインのカードを使い、久保寺本人が嵐山駅で『予備のカード』で水を一本買った。デジタルな足跡と、防犯カメラに映った実像が、ここで鮮やかに食い違った。……まさに、“天狗の分身の術”が破れた瞬間ですわ」
「ハイテクなログ監視と、足で稼いだ地道な聞き込み。久保寺は、日本警察のしつこさを読み違えたな……」
3.暗転する勝利
「一分一秒を争う完璧なリレーを組んだつもりでも、喉の渇きという人間の本能までは計算に入れられんかった。……これで、化けの皮は完全に剥がれましたわ……」
大河原がホワイトボードを叩き、勝利を確信したように言い放った。
ふっと一瞬の安堵感が訪れたのも束の間、ただ一人、リサだけが険しい表情で顔を上げた。
「大河原警部。久保寺のアリバイが崩れた今、もう一つ正さなければならない『誤解』があります。……ジェイがメイを殺し、自らも死を選ぼうとしたという、あの心中説の根拠です」
リサの声は静かだが、鋭く芯を突いている。
「日本の警察は彼を『嫉妬に狂ったストーカー』と見ていますが、それは久保寺の策略でしょう。ジェイは名家の跡取りです。地位も将来もある彼が、凶行に走る動機はどこにもない。彼はプロポーズするためにあの場所へ行った……ただ、それだけなんです」
リサは、押収品リストにある「ダイヤモンドの箱」を指差した。
「ジェイは現場でメイの遺体を見てパニックになり、そこに現れた森下に『殺人犯になりたくなければ逃げろ』と唆されて逃走した……。坂本さんに追跡され、不幸にも崖下に転落してしまった。彼の手の中に残されていたのは、メイに贈るはずだったダイヤモンドです。彼は最期まで、彼女との未来を信じていたんです」
大河原が頷くと同時に、若い刑事が駆け寄ってきた。
「警部! 鑑識の結果が出ました。メイさんの頸部に残されていた微細な繊維片、特定できました。カシミア百パーセント、極細の藍色の糸片です」
「……あの男が首に巻いていた、藍色のマフラーだ」
坂本の脳裏に、初めて久保寺に会った時の光景が蘇った。
「間違いありまへんか、坂本さん」
「はい。高級ブランド特有の織り目とロゴをよく覚えています。奴は素手で触れずに、そのマフラーを凶器にしてメイを絞め殺したのでしょう」
「……よし。繊維の特定とあんたの証言。これで『点』が『線』に繋がりましたわ。あとは本人のマフラーを押さえて鑑定に回せば、逃げ道は完全に塞がりますな。すぐに久保寺の身柄を――」
言い切るより早く、机の上の内線電話が鋭い悲鳴を上げた。
受話器を取った大河原の表情が、見る間に凍りついていく。
「……何やと? どこや。……ああ、すぐ行く。現場は保存しときや!」
大河原は受話器を置き、長く深い溜息をついた。
「森下ですわ。今朝、桂川の下流で水死体で上がったようですわ……」
「死んだ……!? 事故ですか?」
坂本の問いに、大河原は苦々しく首を振った。
「詳しい状況はこれからです。やけど……嫌な予感がしますわ。久保寺の奴、裏切る可能性のある共犯者を消してしまおうと思ったんやないでしょうかね……」
「これで、うちが出せるはずやった逮捕状は足止めや。証言者が死んだ以上、物的証拠を積み直さなあかん。坂本さん、リサさん。ここからはもう、京都だけの問題やのうなりましたわ。自分は今から桂川へ直行します。……坂本さん、あんたはリサさんとすぐに東京へ戻り、何食わぬ顔で戻っとるはずの久保寺を抑えてください」
「マフラー、ですね」
坂本の言葉に、大河原が深く頷く。
「左様です。奴が今もあのマフラーを持っとるのか、あるいは処分したのか。……もし手元にあるなら、何とかして鑑定に回せるよう外堀を埋めてもらわなあきまへん。あの天狗、必ず引きずり出してください。よろしゅう頼みますわ」
大河原は足早に部屋を飛び出し、階段を駆け降りていった。
その背中を見送った坂本とリサも、あとを追うように京都府警の門を後にした。
静かな東京行きの最終新幹線の車内―。
ふと隣を見ると、坂本は深く座席に身を沈め、既に小さな寝息を立てている。
連日の強行軍が、タフな彼にも限界を強いたのだろう。
リサは再び窓の向こうの闇へ視線を戻した。
ライトアップされた古都の風景が、高速で遠ざかっていく。
――タイの教えでは、生前の徳が魂の行く末を決めると信じられている。
誰よりも誠実に生きたジェイが、人殺しの汚名を着せられたまま彷徨うなど、あってはならないことだった。
「สาธุ(サートゥ)(功徳あれ)……」 リサは胸の前で静かに手を合わせた。
メイ、そしてジェイ。
二人の魂を、汚れなき真実の場所へ連れ戻す。
それが、自分に課せられた血の通った弔いだ。
新幹線が夜を切り裂き、一路、東京へと突き進む。
加速とともに高まる静かな振動は、もはやリサを鼓舞する「戦いの序曲」のように響いていた。
(第五章へ続く)
本章では、日本の「時間の規律」を象徴する鉄道ダイヤを舞台装置に、デジタルな足跡が織りなす現代的なアリバイ崩しを描きました。一分一秒の隙もない鉄壁の計画が、皮肉にも「喉の渇き」という人間の根源的な本能によって瓦解する展開は、本作の大きな転換点です。また、リサの祈り「サートゥ(功徳あれ)」を通じて、タイの死生観と日本的な捜査が交差する瞬間を大切に描きました。森下の死という衝撃の結末を経て、物語の舞台は決戦の地・東京へ。ジェイの名誉と魂を救うための、リサと坂本の孤独な戦いが始まります。次章にこうご期待!お読み頂きありがとうございました!




