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『京都嵯峨野・ダイヤの殺意』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第二章 異国の虚像

1.熱い宇治茶


 晩秋の京都の朝は、一段と底冷えが厳しい。  


 坂本は、宿泊先のホテルから京都府警本部へ向かう地下鉄の中で、手元のスマートフォンに映し出すニュース文字が、まだ疲れの残る脳裏に突き刺さる。


《タイの人気カリスマ的インフルエンサー、日本の京都で悲劇の最期》


《交際相手のタイ人青年と無理心中か!》


 携帯の小さな画面には、メイの華やかな生前の写真と、保津峡の谷底で大破したポルシェの無惨な姿が交互に映し出される。

 

 SNSのタイムラインは、メイの死を惜しむ声と、犯人と目されるジェイへの根拠のない怒り、そして無責任な憶測で濁流のように溢れかえっていた。

 

 メイが微笑む生前の動画は、死という結末がついた瞬間、視聴者に消費される「悲劇の舞台装置」へと成り下がっている。


「……無理心中、か」


 坂本は、画面を消した。


 暗転したディスプレイに、自分のひどく疲れた顔が映り込む。


 この「分かりやすい結論」が、世間の、そして組織の望む答えなのか…。


 日タイ首脳会談を控え、一刻も早くこの騒動を収束させたい日本政府や警察上層部にとって、この見出しは格好の幕引きに他ならない。


 心中という言葉では到底説明がつかない、喉の奥に張り付いたようなもやもやとした感覚。


 それは、昨夜の京都府警の一室で行われた、メイの日本の芸能プロダクションのマネジャー・森下への事情聴取から始まっていた。


 メイの活動実績やスケジュールといった、ありきたりな情報は饒舌に語った森下だったが、死亡した青年の話に及ぶと、急に慎重な面持ちになった。


 坂本が試すように、「恋人のジェイさんのことですが……」と切り出した時だ。  


 森下は一瞬の躊躇もなく、「ああ、ジェイ君がどうかしたんですか?」と即座に反応した。


 その反応こそが、坂本の喉元に刺さった小さな(とげ)となった。  


 タイ人の本名は長く複雑で、親しい間柄であれば、ニックネーム(ชื่อเล่น)で呼び合うのが普通だ。 


しかし、ビジネスの世界では、出会ってから相当な時間を経るか、本人から「こう呼んでくれ」と提示されない限り、本名(ชื่อจริง)で呼ぶのが礼儀である。


 ジェイの本名はジラワット・ラタナチャイ。


 それを即座にニックネームの「ジェイ君」と呼び、既知の存在として扱った森下の態度は、彼らが相当親密な関係にあったことを示唆していた。


「……森下さん。昨日のお話では、メイさんの恋人のジェイさんのことはあまりご存知ないようでしたね?」  


 坂本が静かに問うと、森下は「ええ、まあ、ジェイさん、いや、ジラワットさんの名前は、メイさんから時々聞いていた程度ですから」と、不自然に視線を逸らした。


 あの男は、ジェイ、すなわちジラワットの存在を、あるいは彼との深い関わりを、意図的に隠そうとしているのだろうか……。


* 



 京都府警の執務室に戻っても、坂本の脳裏に、昨晩の狼狽した瞳が焼き付いて離れなかった。


「どうも納得いかないんだよなぁ…」


 その重苦しい沈黙を破ったのは、一杯の熱い茶の湯気だった。


 本庁への報告書を書きながら独り言を吐いた坂本の机に、女性巡査の三原が淹れたての茶を置いた。


「坂本警部、朝からあんまり根を詰めへんほうがよろしいですよ、まぁ、あったかい宇治茶でもお飲みになったらどないですか?」


 はんなりとした京都弁(きょうことば)に、坂本は急に緊張を研ぎほぐされたような気になった。


「あ、ああ、どうも……えっと、おおきに、どす」


 後ろでネクタイを締め直していた白髪交じりの警部・大河原が、堪えきれずに吹き出した。


「坂本はん、無理せんといて。慣れん言葉使うと、返って(いけず)に聞こえますわ、ははは」


 坂本は耳を赤くして、熱すぎる宇治茶を一気に飲み干した。


「そや、坂本はん、大事なこと一つ忘れてましたわ、まぁ、警視庁の公安の刑事さんやから、お訊ねしますけど、これから例のタイ人の女性の現場検証へ行くんですわ、一緒に行きはりまっか?」


 “ったく、それを早く言えよな。宇治茶を飲ませてさっさと東京へ帰れ、という意味だったのかよ”  

 

 「ほな、ぼちぼち行きまひょか?」


  坂本は自嘲気味に不自然な京都弁を放つと、居心地の悪さを振り払うように、力任せに車のドアを閉めた。


 


2.トロッコ列車の汽笛


 右京署の芦田が運転するパトカーは、朝の光に包まれた京都市内を抜け、再び惨劇の舞台となった嵐山・嵯峨野へと向かった。


 坂本は、助手席に揺られながら、車窓の外に広がる景色を眺めていた。


 渡月橋の上は、昨夜の惨劇など嘘であったかのように、色とりどりの旗を掲げたガイドと自撮り棒を掲げる外国人観光客で埋め尽くされていた。 


 オーバーツーリズムの波は悲劇の余韻さえも冷酷に飲み込み、竹林の小径からは多言語の喧騒が風に乗って漏れ聞こえる。


 時折、保津川沿いの断崖から響く嵯峨野トロッコ列車の「プォォォォ」という乾いた汽笛が、坂本の耳には空虚に響いた。


「……坂本さん、顔色が優れませんね。昨夜から一睡もされてないんじゃ」


 芦田が気遣うように声をかけたが、坂本は曖昧に頷く。


 脳裏には、整理のつかない断片がパズルのピースのように散らばっている。


 昨夜、ジェイという愛称に過剰に反応した森下マネジャー。


 メイの遺体の傍らに置かれた血塗れのスマートフォン。


 そして、死の間際までジェイが掌の中で守り抜こうとした、あのダイヤモンドの冷たい輝き。


 それらは、警察が急いで作り上げようとしている「無理心中」という絵図を、根本から拒んでいた。


 車は亀山公園を抜け、勾配のきつい坂道を上り、現場の小倉山展望台へと到着した。


 展望台テラスの脇、黄色い規制線が寒風に吹かれてバタバタと音を立てている。


 坂本は展望台の縁に立ち、手すりを握った。


 眼下には、深い緑を湛えた保津川が蛇行しながら静かに横たわっていた。


「ここですか……」


 芦田が後ろで声を潜める。


 そうだ。昨夜、ジェイが水色のポルシェがガードレールを突き破り、奈落の底へと消えていったのは、まさにこの真下だった。

 

 坂本は資料に目を落とした。


 メイ・チャンシリ — フォロワー数六百万。


 彼女がSNSで発信する華やかな活動記録は、日タイ親善の清廉な象徴そのものだった。  


 アユタヤの遺跡を背に、絹の民族衣装を纏って微笑む彼女。


 その美しさもさることながら、たどたどしくも一生懸命な日本語で、日本の伝統文化や食文化を紹介する愛らしい姿は、日本のファンを瞬く間に虜にしていた。  


 坂本は、眩い映像の中の彼女と、目の前の冷たい土の上に横たわる無残な亡骸を交互に思い描き、激しい眩暈(めまい)に襲われた。

 

 ジェイ、ジラワットもまた、タイの有名資産家の息子でありながら、彼女を献身的に支える、理想的なパートナーとして知られていた。


 この完璧なまでの幸福が、なぜ一夜にして惨劇へと反転したのか……


 そんな、掴みどころのない、もやもやとした感覚が、坂本の心に圧し掛かっていた。


 そこへ、背後から緊張感のない声が掛かった。


「坂本さん、あんまり辛気臭い顔せんと、この辺で『おたべ』でもおたべやす、ってね!」

 

 大河原が、皮肉めいた笑みを浮かべて京都の名菓、生八ツ橋の小箱を差し出してきた。


 時計は午後三時を回っていた。


「大河原さん、冗談を言っている場合じゃありませんよ。現場に残されたスマートフォン、指輪……。無理心中で片付けるにはピースが合わない」


「坂本はん、あんまり、ややこしいこと言わんといて。本庁も府警も、もう『無理心中』でハンコ押す準備してはるんや。それにタイのえらいさんも来てはることやし、これ以上、ややこしい火種は困るんですわ。おたくら公安も、国際問題になるんは御免ですやろ?」


 大河原の言葉は、組織の論理という冷たい現実を突きつけるものだった。


 鑑識に回された証拠品が、組織の都合で都合よく「処理」されていく焦燥感が坂本を襲う。

   

 結局、現場検証でも明確な物証は得られぬまま、陽は傾き始めていた……。




3.薄氷のシナリオ


 夕陽がつるべ落としに沈み、古都の街並みが夜の相貌を見せ始める頃、芸能プロダクション社長・久保寺が京都府警本部へと現れた。 


 出張帰りだという久保寺は、上質なチャコールグレーのスーツを乱れもなく着こなし、完璧な紳士。


 坂本がお悔やみの言葉を丁寧に述べると、久保寺は応えた。


「いやあ、坂本警部さん。本当に悪夢ですよ。うちの稼ぎ頭があんなことになるなんて……」  


 久保寺の声は、滑らか過ぎて温かみがない。


 まるで舞台役者の台詞を聞いているようだと坂本は感じた。


「それと、事故死したジラワット氏についてですが、彼に暴力的な兆候があったという記録は、本国タイの調査でも一切ありません。彼はメイさんを深く愛していた。そんな彼が、なぜ、これほど無惨な凶行に及んだとお考えですか?」  


 坂本の問いかけに、久保寺は薄い唇を歪めた。


「坂本警部。あなたは『愛していたから殺さない』と仰りたいようですが、それはあまりにロマンチストな考えだ。……いいですか、愛が深いからこそ、その裏側には、底知れない邪悪な衝動が口を開けている。そうは考えられませんか?」  


 久保寺は背もたれに深く体を預け、怜悧(れいり)な瞳で坂本を射抜いた。


「メイは世界中の人間に愛されるために生きていた。だが、彼は彼女を自分一人の箱庭に閉じ込めておきたかった。その矛盾が限界に達した時、男が取る行動は二つに一つです。諦めて去るか、あるいは、自分の一部として永遠に葬るか。……彼、ジェイ君でしたか。彼にとって、あの崖からの転落は、誰にも邪魔されない二人だけの完全な結婚式だったのかもしれませんな」


「結婚式……ですか?」  


 坂本が口を挟む間もなく、久保寺の言葉は完成された物語を披露するように、一分の隙もなかった。


「実は、メイからは相談を受けていたんですよ。彼の束縛が少しずつ激しくなっている、と。外から見れば『裕福な資産家の息子』でも、その内面がどうであったかは本人にしか分からない。……坂本さん、人は誰しも、自分でも気づかないうちに心の闇に飲み込まれてしまうものなんですよ」


 相手を説得するプロの弁舌は、疑う余地を与えないほど論理的だ。


 坂本は「もっともらしい理屈」を聞かされながら、喉の奥に苦い砂を噛まされたような不快感を覚えていた。


 “この男が語っているのは真実なのか。それとも、あらかじめ用意された筋書きなのか”


 坂本がその真意を測りかねて向き直ると、久保寺はおもむろに腕時計に目をやった。


「おっと、少し話が長くなりましたな。実は昨日の午後は、別の仕事で大阪におりまして……」


「大、大阪に?」


「ええ。昨日の5時半ごろには、大阪駅前の量販店におりました。その後、大阪のクライアントとの会議で‥・。領収書も、防犯カメラの記録もありますが。もっと早く駆けつけてやりたかったんですが、あいにく交通規制に巻き込まれましてね……」


 自らアリバイを提示するその周到さが、坂本の胸に拭いきれない不信感を植え付けた。


 まるで、誰かに疑われることを最初から予期していたかのように―

 

 坂本は独り、府警の庁舎を出ると、夜の帳が降りた堀川通を南へ歩いた。


 街路を吹き抜ける北風は、嵯峨野の風よりもずっと冷たい。


 歩道を縁取る銀杏並木は、車の音と排気の匂いに晒され、それでもなお美しく黄金色を放っている。

 

 二人の死も、守られた幸せなどではなく、もっと欲望と利権に塗れたドロドロとした渦の中にあったのかもしれない。


 心中という結論を急ぐ警察組織。


 この(いびつ)なパズルを解き明かせる相手は、もはやこの国の警察組織の中にはいないのだろうか。

 

 坂本は、冷え切った身体を温めるように、ひっそりと佇む湯豆腐料理屋の暖簾をくぐった。


 運ばれてきた湯豆腐から立ち上る白い湯気が、冷たい頬をくすぐる。


 その熱気の中に、かつてバンコクでの合同捜査で背中を預け合った、あの相棒の面影を探した。


 “リサ……君なら、この不自然さをどう見る?”


 その時だった。店の玄関がガラガラと開いた。


「――サカモトさん! こんなところで、一人で何を難しそうな顔をしているんですか?」  


 振り返った視線の先に、鋭い眼差しといたずらっぽく微笑む女性が立っていた。


 タイ公安警察のリサ警部補。


 黒い革ジャンを羽織った彼女は、まるで南国の太陽のような輝きを放っていた。


「リサ!……なぜここに?」


「相棒が迷子になっていると聞いて、バンコクから飛んできたんですよ」


 彼女が笑うと、店内の澱んだ空気が一変した。  


 凍てつく古都の北風に代わり、彼女が運んできたタイの熱気が、坂本の冷え切った心を解かしていく。


「さて、どこから話しましょうか。日本警察がまだ知らない、ジェイの『本当の姿』について……」

 

(第三章へ続く)


第二章では、古都・京都の静謐な美しさと、その裏側に潜む冷徹な組織論理の対比を描きました。心中という「分かりやすい結論」で事態を収束させようとする警察上層部や、完璧なアリバイと弁舌で煙に巻く久保寺。坂本が孤独な捜査を強いられる中、彼を支えたのは刑事としての本能と、大河原という男の食えない計らいでした。ラストで登場したリサは、停滞した古都の空気を切り裂く南国の熱風そのものです。次章では、彼女がもたらす「ジェイの真実」が、久保寺の描いた薄氷のシナリオを激しく揺さぶることになります。ご期待ください!

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