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『京都嵯峨野・ダイヤの殺意』タイ・トラベル・ミステリー・シリーズ  作者: 十夢矢夢君ーとむやむくんー


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第一章 断絶のダウンヒル

1.断絶のダウンヒル


 嵐山の秋は、静寂に沈み込むように更けていく。


 燃えるような紅葉が薄闇に溶け、保津川のせせらぎが夕闇の冷気を運んでくる。


 かつて貴族が舟遊びに興じたこの地は、夕暮れと共に、時の止まったような深い安らぎに包まれるはずだった。


 月明かりにほんのりと照らされた保津峡の闇を切り裂いたのは、断末魔のようなドリフト音だった。


 京都、嵯峨野。


観光客が引き揚げ、静寂が戻りつつあった府道五十号線で、その「断絶」は唐突に訪れた。


 闇に沈む紅葉の隙間を、水色の光が矢のように貫いていく。

 

 ガードレールを突き破り、宙を舞ったポルシェは、重力を失った機体のように漆黒の谷底へ吸い込まれていった。


 数秒の沈黙。


直後、岩肌に激突する凄まじい金属音が山々に反響し、眠りにつき始めた森を震わせる。


 重なり合う木々の合間から、突如として赤い火柱が噴き上がった。

 

 冷たい谷風に乗って、焦げたゴムとガソリンの臭いが静寂を塗り潰していく。


「おい! 大丈夫か! 応答しろ!」


 黒の覆面パトカーのドアを蹴破るようにして外へ出た坂本警部は、ひしゃげたガードレールの縁に駆け寄った。


 タイヤの焦げる白煙が視界を遮り、激しい動悸が胸を打つ。

 

 視界の下方、逆さまになったポルシェのリアエンジンから、不気味な黒い煙が噴き出している。


 京都市内の高級外車を扱うレンタカー会社のその車体は、今や見る影もない鉄の塊へと成り果てていた。


 ――遡ること、一時間前。


 本来、警視庁公安外事一課の坂本にとって、この任務は退屈な“プロトコール(外交儀礼)”の延長に過ぎなかった。


 日タイ首脳会談を明日に控えた厳戒態勢下、来日したタイの国民的人気インフルエンサー、メイの警護を担当することになったのだ。


 来賓のタイ人観光大臣が、京都観光局の局長との会談にメイを同席させ、日本国内へ向けた観光アピールに一役買わせようという目論見だ。

 

 坂本はその初顔合わせの場所となる嵐山・嵯峨野の老舗料理茶屋を下見するため、夕暮れの道を走っていたのだ。


その途上で、あの水色のポルシェと遭遇した。


 すれ違いざま、猛烈な勢いでセンターラインを大きくはみ出し山を下りて来たポルシェは、坂本のセダンをかすめるようにして暴走する。


 運転席越しに焼き付いたのは、血の気が引き、ひきつった表情を浮かべた若い男の顔だった。

 

 坂本は即座に車を反転させ、サイレンを鳴らした。


この厳戒態勢下、不審な暴走車両を見過ごすわけにはいかない。


 執拗な追跡カーチェイスが始まった。


 ポルシェはヘアピンカーブをノーブレーキに近い速度で突っ込み、対向車を右に左にかわしていく。


 坂本はアクセルを全開にしてポルシェのリアに食らいついた。


 異変が起きたのは、保津峡へと続く直線の入り口だった。


 逃走を続けていたポルシェが、タイヤから白煙を上げるほどの急ブレーキをかけ、唐突に停車したのだ。


 坂本もまた、アスファルトを削るような音を立ててその背後に車を停める。

 

 何をする気だ――坂本が警戒してドアに手をかけたその時、ポルシェの運転席の窓が開いた。


 運転席から身を乗り出すようにした若い男が、坂本に向かって何かを激しく絶叫した。


 その形相は怒りよりも、深い絶望と混乱に支配されていた。


 男は激しい勢いでまくしたてている。

 

 坂本はデジャブのような奇妙な感覚に包まれた。


 そのひきつった表情から溢れ出した言葉は、かつて何度も足を運び、現地での任務をこなしてきた坂本にとって、聞き慣れているはずの“タイ語”だった。


 だが、あまりのパニックのせいか、男が叫んでいる言葉の意味が理解できない。


 ただ、その叫びの最後の一言だけが、弾丸のように耳に残った。


「ไม่ใช่ผม!(マイチャイ、ポム!) 」――俺じゃない!


 悲鳴にも似たその一言を残し、男は再びアクセルを踏み込んだ。


 ポルシェは猛然と加速し、視界から消えていく。


 坂本が我に返って追跡を再開した直後、あの運命のカーブが訪れたのだ。


「……まさか?」


 坂本は炎上する谷底を凝視した。


 ―あの時、窓を開けて何かを訴えようとした男。


 その運転手が、まさかタイ人の青年だとは思いもしなかった。


 坂本は無線機を掴んだ。


「こちら嵯峨野第一。保津峡五十号線、追跡対象が崖から転落。至急、救急車とレスキューを」


 声が微かに震えていた。


 自分の追跡が、一人の若者を死に追いやったしまった。


 そして、あの時彼が叫んだ言葉が、冷たい汗となって背中を伝う。


 坂本は無線機を置くと、すぐさまアクセルを踏み込んだ。


 ポルシェが飛び出してきた方向、つまり「亀山地区」の展望台へ向かう山道だ。


 こんな時間に、タイ人の青年が高級スポーツカーで暴走していたこと自体が異常だ。


 刑事の直感が、坂本の背中を冷たく押し流していた。


 数分後、視界が開けた展望台の駐車場には、一台の車もなかった。


 坂本は車を止め、静まり返った広場へと足を踏み入れた。


 夕闇に沈む嵯峨野の空気はひんやりと冷たく、先ほどまでのカーチェイスの熱気が嘘のようだ。


「……?」


 誰もいない。

 

 坂本が踵を返そうとした瞬間、視界の端に何かが映った。


 展望台の縁、古びたベンチの横に、横たわる影がある。


 近づくにつれ、それが人の形をしていることがわかり、坂本の心臓が跳ねた。

 

 そこに倒れていたのは、鮮やかなタイ・シルクをあしらった衣装を纏う女性だった。


ーメイだ。


 彼女の胸元には、紅葉の色よりもどす黒い赤が広がっていた。


 触れるまでもなく、彼女がすでに息絶えていることは明らかだった。


 坂本は膝をつき、周囲を見渡した ― 人影はない。


 ただ、彼女の傍らに、一台の血の付いたスマートフォンが転がっていた。


「こちら嵯峨野第一……。展望台にて、警護対象のメイ氏と思われる遺体を発見。直ちに現場保存と検視官を要請する。繰り返す……」


 坂本は警視庁本部と京都府警に緊急連絡を入れ、応援を求めた。


 谷底で命を落としたタイ人の男と、ここで冷たくなっているメイ。

 

 坂本は直感的に二人の死が、この嵐山の闇の中で繋がっているのではないかという、漠然とした予感に翻弄されていた。



2.疑惑の遺留品


 保津峡の谷底では、レスキュー隊による困難な引き揚げ作業が続いていた。


 坂本は京都府警の捜査員と共に、岩場に横たえられた青年の遺体と対面した。


 車両は激しく炎上したが、放り出されたのか、あるいは直撃を免れたのか、奇跡的に彼の身体は火に包まれることなく、無傷に近い状態で回収されていた。


 周囲が完全に闇に包まれる中、鑑識班が持ち込んだ強力なLED照明が、青白い光で現場を切り取っていた。


 その鋭い光が、岩場に横たわる遺体を冷たく浮かび上がらせる。


「外傷は転落時の打撃によるものだけです。刺し傷や争った跡はない。……坂本さん、この男と展望台で死んでいた女性、何か関係があるのですか?」

 

 検視官の問いに、坂本は答えられなかった。


 ただ、鑑識官が遺体の傍らに散らばる遺留品を一つずつ回収していく中、坂本の目は男の右手に釘付けになった。


 死後硬直が始まりつつある指先が、何かを強く握りしめている。


 それは、小さな淡い青緑色の箱だった。


「あの、すみません。ご遺体の手の中のその箱……ひょっとして宝石箱か何かでしょうか?」

 

 坂本の問いかけに、鑑識官が手袋を嵌め直して慎重に指を解き、箱を取り出した。


 照明の光に照らされながら、ゆっくりと蓋が開けられる。

 

 刹那、闇の中で一条の輝きが弾けた。


 中に入っていたのは、大粒のダイヤモンドを冠した指輪だった。


 京都の冷たい夜気を受け、無数のプリズムを放つその輝きは、あまりに純粋で、この惨劇の現場には不釣り合いなほど美しかった。


「婚約指輪……でしょうか。傷一つついていません」


 鑑識官の声が、夜の静寂に沈む。


 坂本は言いようのない戦慄を覚えた。


 仮定だとしても、メイを殺して逃走したとされる男が、その手に「未来への誓い」を握りしめていた。


これが、愛する者を手にかけた直後の男の姿だというのか。


 坂本は重い足取りで車に戻り、京都府警本部へと向かった。


 車内の無線が慌ただしく音を立てる。


『こちら本部。保津峡の転落車両から発見されたパスポートにより、死亡した男性の身元が判明。氏名はジラワット・ラタナチャイ、二十五歳。タイ国籍。ニックネームで「ジェイ」と呼ばれていたようです。……また、展望台の遺体についても、所持品および身体的特徴から、警護対象のタイ人女性、メイ・チャンシリ、二三歳、芸名のメイ氏本人であると断定されました』


 無機質な通信の声が、最悪の結末を確定させる。


 坂本の脳裏に、あの「マイチャイ、ポム!」という絶叫が蘇った。


 もし彼が犯人でないのなら、彼は一体「何」から逃げようとし、誰が彼らの未来を打ち砕いたのか。


 一夜明け、嵯峨野の朝は、昨夜の惨劇を覆い隠すような冷たい霧に包まれていた。


 坂本は、本来ならば公式日程の初日となるはずだった料理茶屋へと向かった。


 昨夜、遺体発見直後に電話を入れた際、マネジャーの森下は「店で待っている」と答えたが、現場の混乱で坂本は向かうことができなかった。


 改めて、正式に事情を聴取する必要がある。 


 会場となる予定だった老舗の料理茶屋に到着すると、軒先には一人の男が所在なげに立っていた。


 ネイビーのスーツを着こなし、神経質そうに何度も腕時計を確認している。

 

「坂本さん……ですよね? 警視庁の…」


 男は「森下」と名乗った。


 メイが契約している日本の芸能プロダクションのマネジャーで、日本滞在中に行う、フォロワー向けのイベントについて打ち合わせる予定だったと言った。


 本来なら社長の久保寺も同席するはずだったが、急な出張で不在だという。


「昨日の打ち合わせにも現れなかったし、昨夜からメイと何度連絡を取ろうとしてもつながらなくて困っていたんです。SNSの更新も止まったままですし……。坂本さん、電話で仰っていたことは本当なんですか? メイさんが、まさか、本当に殺されたのでしょうか?」


 森下は神妙な、どこか怯えるような表情でそう言った。


 坂本は森下の顔をじっと見つめた。

 

 言葉の端々に違和感がある。


 昨夜の電話で、坂本は「展望台で女性の遺体を発見した。メイ氏である可能性が高い」と伝えていた。


 しかし、森下は今、あたかも「連絡が取れないから心配だ」という日常的な不安と、「本当に死んだのか」という衝撃的な事実の間を、不自然に行き来しているように見える。


「……昨夜、お伝えした通りです。遺体はメイさん本人と断定されました」

 

 坂本が静かに告げると、森下は「ああ……」と力なく声を漏らし、その場に崩れ落ちそうになった。


 そのあまりにも教科書通りの反応を、坂本のプロとしての視線は冷ややかに観察していた。


 背後の厨房からは、事情を知らない従業員たちが、打ち水や準備に勤しむ音が聞こえてくる。

 

 坂本は、死んだジェイが握りしめていたあのダイヤモンドの輝きを思い出した。


 メイを殺して逃げた男が、なぜあんなものを握っていたのか。


 そして、目の前でうなだれるこのマネジャーは、さらに重要な秘密を知っているのか。


「森下さん、中でお話を伺いましょう。メイさんの昨日の足取りなどお聞かせいただけますか?」


 坂本はあえて感情を押し殺し、座敷で彼の対面に腰を下ろした。


「森下さん、メイさんとの最後の連絡は、いつ、どのような形でしたか?」


 森下は震える指でスマートフォンを取り出した。


「昨日の午後六時ごろです。『展望台で少し動画を撮ってから向かうから』とメッセージが来ました。私は先にここへ来て、打ち合わせの準備をしていたのですが、一向に現れなくて……」


 森下の説明は理路整然としていた。


 だが、坂本は見逃さなかった。


 彼が語る間、その視線が一度も坂本の目と合わず、窓の外の庭園へと泳いでいたことを。


 この男は、何かが起きることを「知っていた」のではないか。


 坂本の脳裏に、現場に転がっていたメイの血の付いたスマートフォンが浮かぶ。


 そこには、彼女の最期の瞬間を捉えた「何か」が記録されているはずだ。


「森下さん、ジェイさんをご存知ですね?」


 坂本が問いかけると、森下は一瞬、呼吸を止めた。


「ええ、メイさんの恋人だと聞いています。タイ人の。ジェイ君が、何か?」


 坂本のペンを持つ手が一瞬止まった瞬間、森下は小さく舌打ちをした。


 坂本は気にしない振りをして淡々と続けた。


「その彼、本名のジラワットさんも昨日、保津峡の谷底で事故死しました」


 森下の顔から、急速に血の気が引いていく。


 それは恋人の死を悲しむ表情ではなく、予定外の事態に直面した者の困惑に見えた。


 料亭の廊下を歩く仲居の足音が、遠くで規則正しく響いている。

 

 坂本は静かに立ち上がり、森下に告げた。


「これから京都府警本部へ同行願います。メイさんのご遺体も確認していただきます」


 その瞬間、森下の口から漏れたのは悲鳴ではなく、深く、重い吐息だった。


 嵐山の冷涼な空気が、坂本の喉を冷たく突き刺す。


 京都府警では、既にこの惨劇を「異国で起きた愛執の果ての無理心中」という、分かりやすい悲劇の型に嵌め込もうとしていた。


 しかし、坂本の胸に消えずにある、ざらついた感触がそれを拒んでいた。


 保津峡の谷底に消えた、あのタイの青年、ジェイの叫び。


 血に染まりながら置かれたメイのスマートフォンと、死の間際まで男の手の中にあったダイヤモンド。


 「マイチャイ・ポム!(俺じゃない!)」


 男が必死に否定した事実に、「誰か」が確かに関わっている。


 坂本はふと、かつてタイでの合同任務を共にしたリサ警部補のことを思い出した。


 直感的で鋭い彼女なら、この現場の(いびつ)さをどう指摘するだろうか。


 彼女の冷徹なまでの観察力が、今の自分には必要だという予感があった。


 坂本の戦いは、この冷たい朝の霧の中から、静かに、しかし着実に動き始めていた。 


(第二章へ続く)

第一章、お読み頂き誠にありがとうございます。

お疲れ様でした。静寂の嵐山を舞台に、ポルシェの轟音とダイヤモンドの輝きが交錯する、非常に映画的で緊迫感のある幕開けとなりました。特にポルシェを運転する、タイ人の若い男が死の間際に残した「マイチャイ、ポム!(俺じゃない!)」という叫びが、この先の物語全体を牽引する謎として、読者の心に深く突き刺さる構成になっています。坂本が感じたマネジャー・森下への違和感と、現場に残されたスマートフォンが、この後の章でどのように繋がっていくのか。公安警察官としての坂本の執念が試される展開を、引き続き一緒に描いていきましょう。何故、坂本のペンが止まったか…お判りでしょうか?

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