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子犬座

「……はぁ」

 自宅のソファーで俺はだらりと力無く横たわる。

 ——俺ね、先生のことが好き。

 言ってしまった。とうとう告白を、してしまった……。

 ちゃんと言おうと決意した告白だったけど、一晩経った今になって、やっぱり言わなければ良かった……と小さく後悔している。

 俺の告白の後、先生は俺の代わりに、職員室に置きっぱなしになっていた荷物を取りに行ってくれた。さらには、校門まで送ってくれた。

「少し、時間を下さい」

 別れ際に、先生はそう言った。

 俺がそれが告白の返事だということに気が付いたのは、家に帰って自室のベッドに横たわった時だった。

 時間をくれというのは、どういう意味なのだろう。オーケーしてもらえる確率はあるのだろうか。それとも——。

「ちょっと、あんた邪魔」

 大学生の姉ちゃんが、ソファーの俺を押しのけて無理矢理座って来た。姉ちゃんもまた夏休み中で、今日はアルバイトが休みのため家に居る。俺は起き上がりながら、小さな声で怖い姉ちゃんに問いかける。

「姉ちゃん。告られた時に、時間頂戴って言ったことある?」

「……はぁ? 何よ急に。キモい」

「れ、恋愛相談です……」

「何、まさかあんた誰かに告ったの!?」

「ま、まぁ、そんなとこで……」

「へぇ……それで、考える時間が欲しいって言われたんだ?」

「そうです……」

 にやにやと笑いながら、姉ちゃんはグラスのオレンジジュースを一気に飲み干した。

「私なら、好みの奴じゃ無かったらお断りの返事の時に使う」

「お、おう……」

「だって、あなたは私のタイプじゃ無いので無理です、だなんて可哀想で言えないでしょう? 普通は」

「た、確かに」

「だから、時間を下さいってはぐらかすの。人間ってのは時間が経てば経つほど物事を忘れていく生き物だから、その告白自体も時の流れで自然消滅するってわけ」

「……」

「あんたも、フラれるんじゃない? どんな子か知らないけど」

 相手は担任で顧問の先生です。

 男です。

 そんなことは恥ずかしくて言えない。深く追求される前に、俺は黙ってその場から立ち去った。自室のベッドに仰向けに寝転び天井をぼんやりと眺める。

「……あの時の姫ちゃん、格好良かったな」

 自分のために声を荒げた先生のことを思い出すと、ぞくっと身体が熱くなった。

 会いたい、けれど、会いたくない。

 心は複雑だ。

 明日は天体観測部の活動日。いったいどんな顔をして先生に会えばいいのだろう。俺は手足をばたつかせて、やり場の無い感情を発散させた。

 そんな時、枕元のスマートフォンが震えた。メッセージアプリの受信音。きっと野田だろうと思い、俺はそれに手を伸ばして画面のロックを解いた。だが——。

「っ……! 姫ちゃん!」

 メッセージの相手は先生だった。画面には『明日は晴れますので部活動をやります。夕方にいつも通り来てください』と表示されている。告白のことについては、一切触れられていない文章に、俺はがっくしと肩を落とした。

「姫ちゃんも、告白のこと無かったことにしようとしているのかな……」

 ——時間を下さいってはぐらかすの。人間ってのは時間が経てば経つほど物事を忘れていく生き物だから、その告白自体も時の流れで自然消滅するってわけ。

 姉ちゃんの言葉が頭の中で響いて痛い。

 そろそろ終わりに向けてラストスパートをかけなければならない宿題をやる気になれなかった俺は、現実から逃げるように目を閉じて眠りの世界へと旅立った。


 ***


「失礼しまーす」

 翌日の夕方、俺はおそるおそる職員室の扉を開けて中に入った。また真木に罵倒されるかもしれないと思うと心が震えたけど、幸いなことに彼女の姿はそこには無かった。

「あ、暁君!」

 席から立ち上がって先生が微笑む。そんな彼に向かって、俺は軽く頭を下げた。

 先生は日誌とボールペン、それから何やら分厚い本を手に、入り口で立ったままの俺のもとに駆け寄り、外に出ようと促した。

「今日は早めに屋上に上がりましょう。見せたいものがあるんです」

「あ、うん……」

 先を歩く先生の背中を見つめながら、俺はこっそりと溜息を吐いた。今日も、告白のことについて何も言って来ない先生だ。

 もう、無かったことにされてしまったのだろうか、と考えると、俺の足取りは重くなる。

 今日は体調が悪いから休めば良かったな、と考えている間に、身体は屋上に到着してしまった。

「今日は、これを持って来たんです!」

 先生が俺に見せてきたのは、分厚い星の図鑑だった。以前、毎晩読んでいると言っていたやつだろうか、と思う。図鑑のところどころにはカラフルな付箋が貼られていて、そこから先生の勉強の軌跡を垣間見ることが出来た。

「今日は、夜空を見るだけではなくて星座のことについても語り合いましょう」

「語るって……」

「さあ、座って下さい」

 影になっているところを見つけて、俺たちはコンクリートの上に座った。先生は図鑑の付箋がついたページを広げる。そのページの見出しには「夏の星座」と書かれていた。

「夏の星座で好きなものはありますか?」

「え? うーんと……夏の大三角形くらいしか知らないよ」

「それは、これですね」

 先生は、ぱらぱらとページをめくり、お目当ての星を指差す。

「ベガとアルタイル、それとデネブですね」

「カタカナばっかりで覚えにくいや」

「では、琴座と鷲座、白鳥座と覚えればどうでしょう?」

「何か、鳥の確立多くない?」

 素直に感想を言う俺に、先生はくすくすと笑って言う。

「ちなみにベガは織姫、アルタイルは彦星なんですよ」

「え! そうなの!?」

「ええ、とても明るいからすぐに見つけられると書いてありますが、僕は視力が良く無いので難しいですね」

「え? 姫ちゃ……先生、視力悪いの?」

「ふふ。姫ちゃんって呼んでくれて良いんですよ」

 途中で言い直した俺に、先生はにっこりと微笑む。

「日常生活では困らない程度に悪いんです」

「眼鏡は?」

「パソコンを使う時にはつけますね。度の入った、ブルーライトをカットしてくれるやつを」

「普段は、コンタクトレンズにすれば良いのに」

「……怖いでしょう? 目の中に異物を入れるのは」

「異物って……」

 先生は図鑑をぱたんと閉じて、ぐっと背伸びをして背中の骨を鳴らした。

「専門外のことは難しいですね。僕もまだまだ勉強不足です。大学でいろいろな授業を選んでおくべきでした」

「大学って、ひとつの専門的な授業ばっかりを受けるところじゃないの?」

「違いますよ。ああ、でもそういう大学もあると思いますが……僕の通っていたところは、わりと自由に好きな授業を選んで取ることが出来ましたね」

「先生は、やっぱり文学ばっかりやってたの?」

「まぁ……日本文学、フランス文学、哲学の授業なんかも取りましたね。卒業論文は日本文学がテーマでしたが」

「へえ……ね、先生。俺もちゃんと大学行けるかな? 真木センセーは無理って言ってたけど……」

 俯く俺の肩を、先生は力強く握った。

「行けます! 行かせます! 我々教師陣が力になります!」

「う、うん……」

「具体的に行きたい大学はあるのですか? 暁君、いつも進路相談の時にまだ決めていないと言っていたので」

「……夏休み中にいろいろ考えたんだ。本当は、学期初めのテストが終わってから言おうと思ってたんだけど……俺、文学が学べるところに行きたい。文学部があるところ。そこでね、たくさん勉強したい」

「それは……素敵な目標ですね」

「まだ、どこに行くとか……行けるとかは分かんないけど、頑張るから。俺、めっちゃ頑張る。それでね、姫ちゃんとたくさん文学の話をしたいんだ……」

「暁君……」

 先生は目を細めて、まだ暗くない空をじっと眺めた。

「……冬なら小犬座が見られたのに、残念です」

「え? 小犬座?」

 いきなりまた星座の話を始めた先生に、俺は首を傾げる。

「冬の大三角形も聞いたことがあるでしょう?」

「ああ、うん」

「大犬座のシリウス、小犬座のプロキオン、オリオン座のペテルギウス。これらを結べば夜空に大きな三角形が出来ます。暁君……君は、星座で言えば小犬座ですね」

「は、はい? 小犬? 俺が?」

「ええ、暁君に似ています。嬉しいとすぐに尻尾を振るところや、悲しいとしゅんと耳を下げるところが。プロキオンは、小犬座のお腹の辺りの星で尻尾からは離れていますが」

 意味が分からない。

 そもそも、俺は——。

「俺は犬じゃねぇよっ!」

「ふふ。そうやって感情をすぐに出すところが可愛いんです」

「か、可愛いとか……」

「可愛いですよ。暁君は」

 そう言いながら、先生はズボンのポケットからふたつのストラップを取り出した。それは、水曜日に俺が言っていた、カプセルトイの『居眠りクマ』のストラップだった。色は黄色と青色。俺は目を見開く。

「そ、それ……!」

「探すのに苦労したんですよ? やっと高速を降りたところのショッピングモールで見つけました。赤色ばかり出てね……小さな子供たちと並んで回すのは少し恥ずかしかったです」

「あ……あの……」

「お揃いでつけましょう」

 はい、と黄色いストラップを手渡した先生に、俺は勢い良く抱きついた。

 嬉しくて嬉しくて仕方が無い。感情が溢れて、心臓が爆発しそうだった。

 俺は涙を堪えて、先生の胸に顔を埋めながら言う。

「俺、この前、告白したでしょ?」

「……はい」

「返事、聞かせてよ」

「暁君……」

「ちゃんと、聞きたい……嫌いでも好きでも良いから、お願い……教えて……」

 先生は俺の背中を撫でながら、柔らかい口調で言った。

「月を見た日のことを覚えていますか?」

「月?」

「二回目の活動日の時のことです。君は僕に言いました……月が綺麗だね、と」

「……」

「唐突にそんなことを君が言うから、僕はとても驚いたんですよ?」

「……意味、伝わってたの?」

「ええ、分かっていましたよ。これでも現代文を教えている身ですからね」

 先生は腕に力を込めて、ぎゅっと俺のことを抱きしめる。まるで夢を見ているかのような出来事に、俺は自分の頬をつねりたくなった。

「でも……きっと深い意味は無く紡がれた言葉なのだと自分に言い聞かせました。まさか、僕のような人間に生徒である君が好意を向けてくれるなんて、何かの間違いだと」

「……うん」

「けれども、君はちゃんと自分の言葉で、僕に告白をしてくれた。嬉しかったです。とても、とても……」

「ひ、姫ちゃんは、俺のことどう思ってるの……?」

「……この時間だけ、教師では無くただのひとりの男に戻っても良いですか?」

「う、うん……」

「私は、夏也君のことを愛おしく感じています」

「……っ!」

 初めて下の名前で呼ばれて、俺の顔はあっという間に真っ赤に染まる。

 ただでさえ抱きしめられていて心臓が爆発しそうなのに、さらに名前で呼ばれて俺の脳みそは沸騰してしまいそうだった。

「い、いつから……その、好きなの?」

「君が月が綺麗って言ったその時から、僕は夏也君を意識していましたよ。一緒にワークを進める時なんて、とても緊張していたんですからね」

「そんな素振り見せなかったくせに」

「ふふ。僕は君よりも大人ですから」

「……」

「……」

 黙って、じっと見つめ合う。

 ああ、この流れはキスだ! と、俺はくらくらする頭で思う。だが、先生はそっと腕の力を抜いて抱擁を解いた。

「あ? あれ?」

「どうしました?」

「き、キスしないの?」

「な……! しませんよ! 校内でそんなことは出来ません!」

 その言葉に、俺はくちびるを尖らせる。

「良いじゃん。誰も見てないよ」

「そういう問題ではありません」

「じゃあさ、学校の外なら良いの?」

「駄目です。そういったことは、卒業してからです!」

「そ、卒業!?」

 まだ一年以上あるじゃないか!

 俺は先生の腰に抱きついて上目遣いに彼を見つめる。

「一回だけ!」

「駄目です」

「勉強頑張るから!」

「いけません」

「けち!」

「あまり僕を困らせると『銀河の中で』のネタバレを言いますよ?」

「ああっ! それは駄目!」

 言い合って、くすくすと笑い合う。

 心がとても軽くてあたたかい。

 恋が叶うって、こんな気持ちなんだ、と俺はひとり納得する。

「そういえば姫ちゃん。何で俺が告った時に時間をくれだなんて言ったの?」

 そう訊ねる俺に、先生は照れ臭そうに頬を掻いた。

「返事をするなら、屋上が良いなって思ったんです。だから、廊下で返事はしたくなかった。それだけです」

「なーんだ! フラれるんじゃないかって心配して損したよ!」

「ふふ……さて、そろそろ部活を始めましょうか」

「うん! 今日も月の絵を描くよ」

「君はいつも月しか描きませんね」

「ふふん。俺が姫ちゃんに恋してるって、証!」

 今日も明日も、ずっと月が綺麗。

 この気持ちをいつまでも忘れないでいよう。

 俺はそう胸に誓った。


 ***


「ハンカチは持ちましたか?」

「持った」

「入学許可証は?」

「持った」

「何かあった時のための予備のお金は……」

「持ったから! 姫ちゃんは心配しすぎ!」

 真っ新のスーツでびしっときめている俺は、左手に提げた黒いカバンをぱしりと叩いた。

 今日は大学の入学式だ。

 あれから俺は努力を続け、無事に高校三年生の冬に希望していた大学に受かることが出来た。

 高校三年の時は担任が先生ではなくなり、俺はしばらく落ち込んでいたが、放課後に勉強を見てあげるという先生の言葉で元気を取り戻した。

 俺を罵倒した真木は、いつの間にか学校から姿を消していた。クビになったのか、自ら退職したのか、理由は分からない。きっと先生は知っているのだろうが、深く知りたくない俺は、そのことについて訊くのを止めた。

「ああ、今日が仕事でなければ入学式に参加するのに……!」

「駄目だよ。俺は野田と一緒に行くって約束あるし」

 野田も俺と同じ大学を受験し、無事に合格していた。学科は違うが、仲の良い友達が新生活でも傍に居てくれることは心強い。

 それに——。

「俺、先に帰れると思うから晩御飯作っておくね」

「ありがとうございます」

 俺と先生は、高校を卒業と同時に一緒に住み始めた。

 一年生のクラスを受け持つことになって忙しい日々を送っている先生のことを、春休みの中で、俺は出来る範囲で支えていた。家事はまだまだ初心者だが、いつか完璧にマスターしたいと思ってる。

「それじゃ、行ってきます」

「……気を付けて」

 俺たちはそっとくちびるを合わせた。

 卒業したのでキスは解禁されている。

 春休み中に何度もキスをしたけれども、俺はまだまだそれに慣れない。そんな俺のことを、先生はいつも愛おしそうに見つめている——。

「大学に着いたら連絡下さいね」

「はいはい!」

 互いにスマートフォンを見せ合う。

 そこには色違いの眠たそうなクマのストラップが、きらきらと朝日を浴びて揺れていた。


(了)

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