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告白

「姫ちゃん、ここ分かんない」

「これは、傍線部Aの直前の会話から答えを拾うんです。良いですか……」

 八月半ばの職員室で、俺たちは現代文のワークを広げていた。今日は水曜日で天体観測部の活動日では無い。ただ、勉強をするために——白雪に会うために俺は学校を訪れていた。

 約束通り、先生は時間が合えば俺に丁寧に勉強を教えてくれる。

 普段から勉強熱心では無い俺が自ら職員室に足を運ぶ姿に、初めは他の教師たちは大変驚いていた。だが、今では俺はすっかり職員室に溶け込み、二年生担当の教師たちに「うちの教科も質問しにおいでよ」と言われるまでになった。

「暁! これを進呈しよう」

「あ、田原センセー」

 田原は俺と先生に、ひとつずつ小さな飴の袋を手渡した。

「その飴は高いんだぞう」

「え? いくら?」

「一万円なり」

「え、ええっ!?」

「ははっ。パチンコの景品だ」

 けらけらと笑う田原に、先生は眉をひそめながら注意する。

「田原先生。生徒の前でそういった話は……」

「おっと、つい口が滑ってしまって! 暁、この飴の話は内密にな!」

「口止め料を要求する!」

「ちゃっかりした奴め」

 田原は派手な赤いティーシャツのポケットからもう一袋飴を取り出して俺に渡し、自分の席に戻っていった。貰った飴の袋を破いて、中に入っているピンク色の飴玉を口に入れながら、俺はパイプ椅子の背もたれに体重を預けた。

「んー! 甘い! けど、ちょっと溶けてる。姫ちゃんも食べたら?」

「いえ、今はお仕事中ですので。帰りの車の中でいただきましょう」

「姫ちゃんは真面目だなぁ。ね、姫ちゃんも休日はパチンコに行くの?」

「行きません」

「じゃあさ、ゲーセンは? 姫ちゃんは器用そうだから、クレーンゲームとか得意そうだよね」

「そう見えますか?」

「うん。今度、一緒に行こうよ。それで新しいストラップ取って!」

「難しそうですね。お金がたくさんかかりそうです。カプセルトイにしておきましょう。あれはお金を入れたら必ず何かが出てきますから」

「あ、良いね! 今ね、姉ちゃんが『居眠りクマ』ってキャラクターにハマってるんだけど、あれけっこう可愛いんだ。七色あってさ……姫ちゃん、お揃いで持とうよ! 俺は黄色いのが良いな。姫ちゃんは青系ね!」

「ふふ……パーソナルカラーというやつですね」

「パーソナル、何?」

「いえ、何でも。しかし、七色もあるのに、狙った色が出るまで回すんですか?」

「回すよ! 高速で回す!」

「暁君は面白いですね。きっと目を輝かせて、夢中で回すのでしょうね」

「姫ちゃんだって、文学のことに夢中になると目が輝くじゃん。お互い様だよ」

 他愛の無い会話を続けていた俺たちの前に、真木がそろりと現れた。手には授業で使うのであろう教科書、それから赤いサインペン。「あ、センセー」と声を出そうとした俺だが、その言葉は真木の低く大きな声で遮られた。

「あなた! さっきから姫ちゃんだなんて失礼よ!」

 しん……と職員室が静まり返る。その場に居た誰もが、俺と先生、それから真木を一斉に振り返って見た。

 真木は怒りを前面に出した表情で俺を指差す。

「白雪先生は迷惑しているわ! あなたは白雪先生に甘えすぎ!」

「え……?」

「真木先生、僕がそう呼んでくれと頼んだんですよ」

 だから怒る必要は無い、と穏やかに説明する先生に向き直り、真木はヒステリックに声を荒げた。

「白雪先生! この子に時間を取られていつも残業しているじゃないですか! もう九月からの準備をしなければならないのに、こんな子のために時間を割くなんてどうかしています!」

 ——え? 先生、忙しいの?

 先生が残業しているのだなんて知らなかった。

 俺は、素直に申し訳なく思う。なので、椅子から立ち上がって先生に謝罪した。

「ごめんなさい。俺、自分のことばかり考えていて……」

「何を謝っているんですか。暁君はただ勉強を訊きに来ていただけでしょう?」

「そうだけど……」

 俺の言葉に、真木はふんと鼻を鳴らす。

「勉強、勉強って言うけどね、あなた成績そんなに良くないじゃない!」

「……っ」

「データを調べたけれど、全教科平均スレスレ。何の心変わりか知らないけれど、今更どうこうなるレベルじゃないわ!」

「……俺は」

 先生と過ごす中で、俺には小さな目標が出来た。

 それは、大学の文学部に入ること。

 好きな作家はまだ『銀河の中で』の作者しか居ないけれど、三年生に上がるまでには、もっと好きな作家を増やしたい。そう思っていた。

 そして、大学でその作家について詳しく研究するんだ——誰にも言っていないけど、俺はそう心に決めていた。

 次の夏休み明けの試験で、現代文の成績を上げてから先生に伝えよう。そう計画していた。だから、今、目の前の怒りに狂う教師にこのことを説明するのは気が引けた。だから、俺は何も言わずに黙って俯く。

 それを「負けを認めた」と認識したのかな。真木は、勝ち誇ったような表情で俺に告げる。

「君の成績じゃ、今から頑張ったって大した大学には行けないわ!」

「……」

「身体も頭も弱いなんて可哀想ね! きっとこれからも、皆に迷惑をかけて生きていくんでしょうね!」

 ガタン、と先生の机が揺れた。

 先生が、勢い良く立ち上がったからだ。先生は無表情で真木を見る。そして、俺が今まで聞いたことも無いような、低く迫力のある声で真木に言った。

「暁君に、謝罪して下さい」

「……え? どうしてですか?」

「あなたは教師として、いえ、人として許されない発言をしました。謝罪して下さい」

 まさかそんなことを言われるなんて想像もしていなかったのだろう。真木は持っていた教科書とペンを床に落として動揺を見せた。

「白雪先生、私は、先生のことを思って言っただけで……」

「あなたは教師として、いえ、人間として間違った思考をお持ちのようですね」

 先生はぎろりと真木を睨みつけた。

「暁君に謝罪して下さい」

「い、嫌です! 私は何も間違ったことは言っていないわ!」

「黙れ!」

 先生が目を見開く。

「謝れ! 私の大切な暁君を侮辱するな!」

 ——っ!

 先生の怒鳴り声が職員室に響き渡る。その場に居た誰もが、動けないでいた。そんな悪い空気に耐え切れなくなって、俺は職員室を飛び出した。

「暁君!」

 俺は走った。

 どこに隠れようか、とぐるぐると脳をフル回転させて思いついたのは、いつも部活で使っている屋上だった。そこに向かって、ただ、走る。少しでもスピードを緩めると、両目から涙が零れてしまいそうだった。

「暁君! 待って!」

 ちらりと後ろを振り返ると、先生が追いかけて来ていた。嫌だ、来ないで。そう言いたいが、肺の中の空気はもう限界だ。ひいひいと口で呼吸をしながら、俺は屋上に続く階段に向かった。

 その時。

 べちん! という大きな音が背後で聞こえた。俺はそちらを見る。そこには、先生がうつ伏せになって廊下の真ん中で倒れていた。俺は慌てて先生に駆け寄る。

「だ、大丈夫!?」

「はぁ……はぁ……普段、運動をしていないもので……ちょっと、待って……息を整えますから……」

「待つから! ゆっくり息を繰り返したら楽になるよ! たぶん!」

 先生は仰向けになって必死に酸素を取り入れている様子だ。そんな苦しそうな先生の手を握りながら、俺は「死なないで……」と言葉をこぼす。それを聞いた先生は、へにゃりと笑った。

「死にはしませんよ……明日、筋肉痛に襲われると思いますが」

「ごめん……俺が急に逃げたから……」

「誰だってあんな事態になったら、その場から立ち去りたくなります」

「……ごめん。ごめんなさい……」

 先生の頬に、俺の涙がぽたりと落ちた。先生は手を伸ばして、俺の目元を親指で拭う。

 しばらくしてから、先生は起き上がってその場に正座をした。

「暁君、君は何も悪く無いんです。真木先生の言葉はすべて無視して下さい。あんなことを言う権利は、あの人には無い」

「……」

「きっと今頃、他の先生たちが動いてくれています。暁君、僕はあの人が心からの謝罪をするまで許しません。暁君も許さなくて良い。だから……」

「……俺、謝罪とかいらない。それに……俺も悪いから」

 俺もその場に正座をして、俯きながら先生に言った。

「酷いこといっぱい言われたけど、その通りかもって思った」

「暁君?」

「俺、調子に乗って姫ちゃんに……先生に甘えてた。本当は宿題は自分の力でやらなきゃいけないのに、全部、頼ってた」

「頼って下さい! 生徒が教師に頼るのは当然のことです!」

「……生徒」

 ——俺は、生徒じゃ満足できない。俺がなりたいのは……。

 俺は、顔を上げてぎゅっと拳を握った。ちゃんと、言おう。そう決意して、まっすぐに先生の目を見る。

「俺ね、先生に勉強見てもらえて嬉しかった。先生の説明分かりやすいし、文学の話も面白いし」

「それは、ありがとうございます」

「でもね……俺、勉強を教えてもらいたいって思いだけじゃなくって……ただ単に先生に会いたいって思いもあって学校に来てた」

「……暁君」

「俺ね、先生のことが好き——」

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