入部届
「え? 入部届?」
「そう。入部届」
夏休みに突入前の昼休み。
俺は冷房の効いた職員室に、担任の白雪浩一から呼び出しを受けていた。
室内はとても涼しく快適だ。生徒たちが使う教室は二十八度の温度を守らなければならないのに、職員室の中はきんきんに冷えた風が頭上から流れている。
俺は、目の前の担任が、いったい何の話をしているのか分からなかった。なので、自分の椅子に腰掛けているその人に問う。
「入部届って、いったいどういう意味? 俺は一年の時から帰宅部だよ?」
「だから……君が学校をお休みする前にお話ししたでしょう? 校則が夏休み前に変わるので、全校生徒は何かしらの部活に入部しないといけなくなったって」
ああ、そんなことを言っていたな、と俺は薄っすらと残る記憶を辿る。帰る前のホームルームで、そんなことを言われたような……。
その時は、はいはい分かりましたと軽く思っていた。その時の俺の頭の中は、放課後に友人と行くファストフード店のことでいっぱいだった。だから、配られて手に取った入部届は——おそらくカバンの底で、しわしわになっているだろう。
先生、ごめん。
そう言おうとしたら、すっと真っ新な入部届が顔面に突き出された。
「今、ここで書いて下さい」
「え……いや、俺はまだ何の部活に入るかも決めていないし……」
決めていないし、正直に言うと面倒なので入りたくない。
俺の考えを読んだかのように、先生は表情ひとつ変えずに俺に言う。
「今日が締め切りなんです。君のことだから放課後になったら、すぐに逃げてしまうでしょう。それでは困ります。暁君は身体のこともありますので、運動部は難しいかもしれませんが、この学校にはそれ以外の部活もたくさんあります。さあ、好きな部活をひとつ選んで記入して下さい」
「……」
俺は、明るいキャラで通っている。
だけど、小さい頃から身体が弱い。
そのことがコンプレックスで、ちょっと見た目は派手。
学校指定のシャツは着崩しているし、スマートフォンには馬鹿みたいにカラフルなマスコットのストラップをじゃらじゃらぶら下げている。
髪は染めていないけど、色素が薄いから太陽や照明の下では茶色く見える。
……モテないけど、な。
ここが男子校ってことも原因のひとつだけど、単に女子との距離の取り方が分からない。
カラオケ合コンをしても、俺は盛り上げ役になって終わり。あーあ、年上の落ち着いた恋人が欲しい……。
そうしたら、本当の「俺」を見てくれると思うから。
「……先生、俺は芸術の才能は無いよ。だから美術部も音楽部も無理じゃない?」
「うーん……」
担任だから、先生も俺の芸術の成績は知っているわけで。
頭を抱えながら先生が口を開く。
「文芸部はどうです? 数ヶ月に一度、自作の小説や詩を冊子にして……」
「俺の国語系の成績、良いと思う?」
「……」
現代文も古典も苦手。
選択肢はどんどん狭くなっていく。
とうとう先生は「運動部のマネージャーなら……」なんて呟き出した。
そんな先生に、俺は「そうだ!」と手を叩いてみせる。
「先生は、何の部活の顧問なの?」
「え? 僕ですか?」
「そう」
「僕は、天体観測部です」
「天体、観測部?」
俺の頭に、プラネタリウムの風景が浮かぶ。
「良いじゃん! 俺、理科は好きだよ!」
「そう……ですか。でも……」
「星の観察するんでしょ? やだー、ロマンチック!」
「観察はしますけどね、暁君」
「決めた! ここにする!」
俺は先生のペン立てからボールペンを奪って、さらさらと入部届の空欄を埋めた。
何故か先生は焦っている。
「暁君、もっと慎重にして入部した方が……」
「早く決めて書けって言ったの先生じゃん! それに、知ってる先生が顧問だと気が楽だし!」
「そうかもしれませんが……」
「よし! 書けた!」
俺は書きたてほやほやの入部届を、先生に押し付けた。
「それじゃ、俺は購買に行ってくるんで!」
「暁君!」
「活動日になったらメッセージ送ってね!」
俺は先生の胸のポケットに入っていたスマートフォンを取り出して勝手に操作し、連絡先を交換した。そして、素早くそれを返して職員室を飛び出す。
途端にむわっとした夏の熱気に襲われたが、そんなことは気にしない。厄介ごとが解決した後というのは気分が最高に良い!
「焼きそばパン、残ってるかなー?」
軽い足取りで購買に向かっていると、ズボンのポケットが震えた。俺はスマートフォンを取り出して確認する。そこには先生からのメッセージが表示されていた。
「えっと……放課後、屋上に来て下さい、はいはい」
分かりました、と心の中で返事をして、俺は時間を確認する。昼休みはあと二十分で終わってしまう。
俺はお目当ての焼きそばパンを目指して、早足で目的地に向かった。
***
「夏也、遅かったじゃん」
「うん」
俺は、前の席に座っている野田に頷く。
「でも、ま、焼きそばパンは買えたしセーフ!」
「パンは?」
「歩きながら食べた」
「マジ、最近の若者って感じだな」
「馬鹿。同い年だっての」
焼きそばパンと一緒に買った、冷たいカフェオレのペットボトルを机に置いて、俺は二年二組の教室の自分の席に着いた。
もうすぐ予鈴が鳴るから、クラスメイトたちが、ぞろぞろと教室に戻って来る。室内の温度がぬるりと上がるのを感じた。
「ところで、姫ちゃんに何て呼び出されたん?」
姫ちゃん、とは先生——白雪先生の渾名。
白雪、という感じの響きは「白雪姫」を連想させる……先生は、「姫」って感じの見た目じゃないけど。身長はたぶん百八十センチくらいはあるモデル体型。細マッチョってやつだ。
そんな成人男性と白雪姫の共通点は、髪が黒いことだけだな。
先生のことを皆が「姫ちゃん」や「姫ちゃん先生」って呼んでも、本人が気にしていないのか、注意をしない。だから、いつの間にかこの呼び方が当たり前になっている。
「ああ、入部届を早く出せって。その場で書いて提出した」
「ひゅー、男前ー。で、何部にした?」
野田が、次の授業で使う教科書類を机に並べながら訊く。野田とは一年からの仲で、彼はちょっとチャラい感じのキャラ。けど、根はめっちゃ真面目で、中学校から続けているサッカーを今も頑張っている。
野田の背中に向かって、俺はどや顔で答えた。
「天体観測部」
「……は? 天体観測部?」
野田が勢い良く振り返って、信じられないといった表情で俺を見る。
「お前、天体観測部って……マジ?」
「え? マジだよ」
「……今からでも遅くないから、サッカーを一緒にやろうぜ? あ、お前は身体が弱いからあれだけど……マネージャーとか、そっち系のことなら……」
「無理無理! もう提出しちゃったもんねー。それにさ、顧問が姫ちゃんなんだよ。だから気が楽じゃん? 体調悪いとすぐに休ませてくれそうだし。姫ちゃん、この学校の中では比較的優しい先生だし?」
「そうかもだけど……お前、知らないの?」
「何を?」
キンコン、カンコン。
響き渡る予鈴の中、野田は声をひそめて俺に言った。
「あの部、部員ゼロで廃部寸前なんだぜ?」
「……え?」