第1話『雷鳴と入れ替わり』
「こげん降るかよ…」
早乙女耕一は、泥まみれの田んぼに膝をついた。稲の苗が風にあおられて左右にしなっている。空は鉛のように重たく、黒雲が覆いかぶさる。カッパのつばから、雨がぼたぼたと落ちた。
「今年も、大変じゃのう…」
ふと顔を上げると、山の向こうに光が走った。雷鳴。次の瞬間、彼の目の前が白く弾けた。
同時刻、東京・永田町。
「だからね、農業なんてのはもう“成長産業”じゃないんだよ」
総理大臣・堂島貴雅は、イライラと会議室のテーブルを叩いた。農水省の若手官僚がたじろぐ。
「効率が悪い、利益が出ない、後継者がいない。三拍子揃ってんだよ。これに税金を投入する理由は?」
「で、ですが…国土保全や食料安全保障の観点からは…」
「机上の空論だ。もっとロジカルに話してくれ」
彼が口にした瞬間、ビルの外で稲光が走る。停電。会議室が暗闇に包まれた。
その瞬間、堂島の意識が遠のいた。
――――
翌朝、早乙女耕一は、白い天井の部屋で目を覚ました。
「……なんじゃ、ここ?」
見慣れないシーツ。柔らかすぎる枕。隣の壁には日本の地図と無数のバインダー。体を起こすと、ぬくぬくとしたガウンの胸元に刺繍が見える。
《内閣総理大臣》
「な、なんじゃこりゃあああああ!!??」
一方、田主丸町では、堂島貴雅が田んぼの真ん中で泥に顔を突っ込んで目覚めていた。
「……ここはどこだ?いや、なんだこの匂い…牛?肥料?……う、うぇえええ!!」
村の老人が通りかかり、苦笑する。
「なんばしよっとかね、耕一さん。田んぼで寝るっちゃないよ」
「……耕一?いや、私は堂島だ。総理大臣の……!」
「はいはい、田植えでストレスたまっとっちゃろ」
自分の姿を反射で見た堂島は、日焼けしたガサガサの手と、くたびれた作業着に絶句する。
「まさか……まさかだ……」
――――
「総理、朝の会見のご準備を……」
高級スーツを着せられた耕一は、何が何だかわからないまま、官邸の鏡の前に立っていた。目の前に映るのは、テレビでしか見たことのない「総理大臣」の顔。
「うそじゃろ……わしゃ、堂島になっとる……」
心臓がバクバクする中、記者会見場のドアが開かれた。
「総理、お言葉を」
耕一は、深呼吸してマイクに向かう。目の前にカメラ、フラッシュ、無数の記者たち。
「お、おう……あの、わしは……いや、わたくしは……」
一瞬、言葉が詰まる。だが、彼は田んぼで鍛えた覚悟を思い出す。
「皆さん。……わたしは、この国の“根っこ”を見直したいと思うちょります」
記者たちがざわめく。
「根っこ、とは……?」
「田んぼです。畑です。水の音と、土の匂いがするとこです」
記者の1人が失笑した。
「総理、突然どうされました?何かの比喩ですか?」
耕一は静かに言う。
「比喩じゃなか。……国を育てるっちゃ、稲を育てるんと似とるとよ」
その日、SNSでは《田舎っぽい総理》《急に米農家発言》《なぜか泣けた》などがトレンドに上がった。
――――
遠く離れた田主丸の空の下、入れ替わった堂島が、初めて鍬を手にした。
「まったく……これは夢か罰ゲームか…いや……まさか、神様の……?」
雨に濡れた田んぼの中で、空を見上げた彼の頬に、泥ではないひとしずくが落ちた。