6.
長喜と重三郎は並び立ち、十郎兵衛を見送った。
「お前ぇが、あねぇに熱い性分だとは、知らなかったぜ。まさか胸倉を掴まれる日が来るたぁなぁ」
闇に消える十郎兵衛の背中を眺めたまま、重三郎が低くぼやく。
「蔦重さん、すまねぇ。そねぇなつもりは、なかったんだが。カッとなって、つい手が出ちまった」
慌てて謝る長喜を、重三郎が鼻で笑った。
「冗談だよ。俺のほうこそ、すまねぇな。今までも、お前ぇにお喜乃を任せっきりだったってぇのに。これじゃぁ、投げ出すようなもんだ。十郎兵衛様に頼まれたのは、俺だってぇのにな。結局、何の力にも、なれちゃぁいねぇ。筋違いにも程があるがよ、お喜乃を頼むぜ」
重三郎の目が鈍く光った。
「耕書堂に置いてもらえたから、今のお喜乃があるんだぜ。一端の娘に育ったのも蔦重さんのお陰だ。本人も感謝しているだろうぜ。耕書堂を出ても、俺ぁ仕事を受けるし、何のかんのと世話になるだろうからよ。これからも宜しく頼みまさぁ」
からっと笑って、ぺこりと頭を下げる。
重三郎が、クックと笑った。
「お前ぇと共にいりゃぁ、案ずるまでもあるめぇなぁ。俺も、何かの形でお喜乃の力になりてぇと考えていんだ。いつでも相談に来な。ここは、お前ぇらの家郷みてぇなもんだからよ」
重三郎の優しい声が、胸に沁みる。
「まだ十郎兵衛様の返答待ちだが。やっぱり蔦重さんに背中を押してもらえると、心強ぇな。お喜乃にも早く、伝えてやらねぇとな」
重三郎が空を見上げながら顎を摩る。
「お喜乃なら、俺と一緒に漏聞いていたから、全部わかっているぜ。けどまぁ、お前ぇの口から話してやりな」
惚けた顔の重三郎を眺めて、長喜は吹き出した。
「お喜乃に何て不躾な振舞をさせていんだよ、蔦重さんよ。十郎兵衛様が知ったら、お叱りなさるぜ……。いや待て、ってこたぁ、俺の話も聞かれていんだよな」
顔の熱がどんどん上がっていく。
重三郎が、にたりと笑った。
「お前ぇが懸命に十郎兵衛様に頼み込んでいた時、お喜乃は泣いていたぜ。余程に嬉しかったんだなぁ。この先がどうなろうと、お喜乃はお前ぇに感謝しているだろうよ」
長喜は両手で顔を覆った。
「恥ずかしくって、お喜乃と顔を合わせられねぇ。何てぇ話をしてくれるんだよ、蔦重さんはよ。知らなけりゃぁ、しれっと話せたってぇのによ」
「胸倉を掴まれた仕返しだと思いな。何にせよ、俺もお喜乃も、お前ぇに感謝しているってぇ話だよ。額から血ぃを流してまで、気張ってくれたんだからな」
思わず、額を手で隠す。
長喜の仕草に、重三郎が笑った。揶揄いなど含まない、安堵の笑みだった。
長喜は、空を見上げた。真っ暗な夜空には、無数の星が輝いている。空の高い所に、小さな下弦の月が静かに照っていた。
(今日の一歩が、お喜乃にとっても俺にとっても、幸せな平凡に繋がってくれると、良いんだがなぁ)
冴えた夜空は輝いて、長喜の願いを明るく照らしてくれているようだった。




