表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鎮魂の絵師   作者: 霞花怜(Ray)
第一章 獣の目をした娘

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/51

1.

 天明三年、卯月晦日(一七八三年六月一日)。

 満開の桜が空を覆い尽くした季節は、とうに過ぎた。散り損じた少しの花が、迫る仲夏の風に急かされ、枝から離れる。薄紅の花弁が一片(ひとひら)、はらりと舞い散った。

 空は夜を迎え入れようと、夕の茜を仕舞いこむ。

 灯のない薄暮。逢魔時は見えないはずの者たちの姿が、浮かび上がる刻だ。

 蔦屋重三郎が営む《耕書堂》の絵師・栄松斎(えいしょうさい)長喜(ちょうき)は、薄暗がりをゆっくりと歩いた。


「確か、この辺りじゃぁ、なかったかねぇ。探すとなると、見つからねぇもんだなぁ」


 きょろきょろと、辺りを見回す。長喜は柳の木を探していた。読売によると本所・置行堀辺りの柳の下に、妖怪が出るという。

 紙の束を懐に仕舞いこんだ長喜の胸は、ふっくりと膨らんでいる。

同じように、胸の奥で大きく膨らむ発奮を抱えて、暗がりの中に眼を凝らす。

 眼界の悪い道の先から、二人の男が大慌てで走ってきた。


「出た、出た! 柳の下の幽霊だ! 俺らは魚なんざ、釣ちゃぁいねぇのに」

「そいつぁ、置行堀の狸の悪戯じぁねぇか! ありゃぁ、別もんだ!」


 長喜は意気込んで、走り抜ける男二人を呼び止めた。


「兄さんら! その幽霊とやらは、子を抱いた女かね? 柳の下に立っていたかぃ?」


 一人の男が歩を緩め、長喜を振り返る。


「あぁ、そうだよ! 読売が書いていた通りだ! あんたも、この先に行くなら気を付けな!」


 それだけを言い残し、男らは薄暮の暗がりに消えて行った。

 長喜は顎を擦り、にやりとする。


「御忠告、どうも。俺ぁ、これから、その幽霊に会いに行くんだ。読売ってぇのも、嘘ばっかりじゃぁねぇらしい」


 男らの背中を見送って、長喜は早足で歩き出した。

 二人の男が走ってきた道を、真っ直ぐ進む。踊る胸に歩が速まる。気付けば走っていた。

 じわりじわりと、人でない者の気這いが流れてくる。眼前に、柳の木が浮かび上がった。

 薄暗がりの中で、白い柳が、ゆらりと揺れる。

 暗闇に浮かぶ柳の白が、やけに鮮明に映った。

 現と切り離された異世界の風の中に、ぼんやりと白い影が佇む光景を見付けた。

 慎重に、そっと、白い影に近づく。白い影は徐々に形を成して、女の姿になった。


(子は抱いちゃぁ、いねぇな。産女じゃぁ、ねぇようだ。やっぱり読売は、あてにならねぇなぁ)


 読売には、妖怪・産女が本所に出る、と面白尽に書かれてあった。

 それを知っていた男らは、幽霊を目前にして驚き、ろくに見もせず逃げ出したのだろう。

 長喜の目の前に立っているのは、妖怪ではない。


(何かしらの無念を抱いて死んだ、女の死霊だな)


 白い影から感じる気這いは、恨みでも妬みでもない。只々、悲しい気持ちが伝わってくる。

 女の死霊が、長喜をじっと見詰めた。開いた目から、すぅと一筋の涙が流れた。

 ぞくりと、背中に寒気が走った。恐ろしいだの、驚くだのという感情ではない。あまりの美しさに、つい見惚れた。

 真っ白い頬に透明な涙が一筋、流れる。細い目は長喜に向いているが、違う何かを映して見えた。


(なんてぇ綺麗な泣き顔だ……。生身の人間にゃぁ、この美しさは、見付けられねぇ)


 我に返った長喜は、懐に手を突っ込むと、紙を取り出した。腰の矢立を引き抜き、筆に墨を含ませる。


「そのまんま、大人に待っていなよ。今から俺が、器量良しを描き写してやるからな」


 辺りを見回すと、丁度良い大きさの石が目に付いた。石の上に、どっかりと腰を下ろす。早速、束になった紙に筆を滑らせた。

 泣く女を何度も凝視しては、描く。気に入らなければ破り捨て、また描く。

 四半刻ほど繰り返し、長喜はようやく筆を置いた。

 一つ息を吐き、自分の絵を眺める。死霊と見比べ、満足そうに頷いた。


「よっし、描き上がったぜ。そら、よっくと見ておくれな。これが、お前さんだ」


 長喜は女の死霊に向かい、自分が描いた絵を翳した。

 絵に見入った死霊が、ぽつりと零した。


『これが、私……。今の、私の、姿、なの……?』


 生気のない途切れ途切れの声に、長喜は頷く。


「そうさ、これが今のお前さんだ。だがよ、お前さんは俺の絵より、ずっと美人だぜ。生きていた頃もきっと、美人だったんだろうなぁ」


 しみじみと頷く長喜の手に、女の白い手が伸びた。小さく震える手に、絵を手渡す。

 じっくりと絵を見ていた女の目が、笑んで細まった。


『……こんなに……こんなに、綺麗に描いてくれて、ありがとう……』


 絵を胸に抱いた女が、嬉しさを噛みしめるように、目を瞑る。

 頬に、また一筋、涙が流れた。


「生きていた時に何があったかなんざ、聞かねぇが。こんな所にいるより、黄泉に逝くのがいいぜ。そっちのが、お前さんは、きっと幸せさね」


 女が、にっこりして頷く。白い体が、透け始めた。

 夜の闇に死霊の体が溶ける。最後に残った涙の雫が、抱いた絵に、ぽたりと落ちた。

 すっかり何もいなくなった場所に、長喜の絵が、はらりと落ちた。


「黄泉じゃぁ、幸せになりなぁよ。……達者でな」


 女の死霊を見送って、長喜が落ちた絵に手を伸ばす。

 暗がりから白い腕が、にょきりと伸びた。

 どきり、として手を引っ込める。

 見上げると、兄弟子の歌麿が、長喜の絵を手にして、じっと眺めていた。


「噂の産女の正体は、幽霊だったのかぃ。大層な美人だねぇ。あたしも、拝んでみたかったよ」


 歌麿の手の中で、幽霊の絵が白い灯火を纏う。人魂のように燃えて、ふわりと空を舞う。後を追うように、死霊の消えた先の闇に溶けた。


「まぁた、消えちまった。本に、勿体ないよ。どうにか残す法は、ないのかねぇ」


 人魂と化した絵を見送りながら、歌麿が残念そうに呟く。


「俺にも、よくわからねぇしなぁ。消えちまうもんは、どうしようもねぇよ」


 死霊が黄泉に旅立つと、長喜の描いた絵は消える。仔細は、わからない。


 長喜自身は、あまり気に留めていなかったが、歌麿はいつも同じように未練を残す。

 足下に散らばる描き損じの絵を、歌麿が拾い上げた。


「これが残るのが、救いかねぇ。一等、巧い絵が消えちまうのは、残念だけれどねぇ」


 眉を下げる歌麿を、長喜はじっとりと眺めた。


「それより、歌麿(あに)ぃ。何だって、こんな所にいるんだよ。兄ぃは、幽霊とか妖が不得手だろうが。てぇか、見えねぇくせに」


 歌麿が、狐目を細めて、にこりとした。


「見えないからこそ、だよ。たまたま、お前さんが走る姿を見付けたからねぇ。()けて来たのさ。面倒臭がりの長喜が走るなんざ、妖絡みに決まっている。必ず、絵を描くだろうからねぇ」


 同じ鳥山石燕門下でありながら、歌麿は生来の怖がりだ。幽霊や妖怪がいると風聞が立つ場所には、近付かない。

 しかし、絵が絡めば、話は別だ。長喜が描く幽霊の絵を見るために、呼んでもいないのに、やって来る。


(いつもの兄ぃだがなぁ……)


 困った気持ちで、ぽりぽりと頭を掻いた時。柳の揺れる向こうから、何かの気這いが流れてきた。

 先ほどの死霊とは、風の匂いが全く違う。背筋が寒くなるのを感じながら、長喜は後ろを振り返った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ