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桜とリンゴ

作者: 時輪めぐる

桜の向こうに朧月(おぼろづき)が透ける夜。

「リンゴ、リンゴ」

少年の声がする。


(リンゴ?)


満開の桜のトンネルを歩く時、心は浮き立ちながらも言い知れぬ不安に襲われる。

異次元に迷い込んだような不確かさ。

綺麗だけど怖い。近寄りたくないのに、寄らずにいられない。

今を盛りと熟れる花のなまめかしく甘美な(あや)しさに、どこか死の気配を感じ取る。

「リンゴ、リンゴ」

若い男の声になる。

「桜ですよ。似ているけど、リンゴじゃない」

リンコは、そう口にして、昔、逆のことを言われたのを思い出す。

「リンゴだよ。似ているけど、桜じゃない」

誰かが言った――そこで、目が覚めた。



ずっと長い間忘れていたけれど、あれは、M町の桜並木だった。

三月末の土曜の朝、少し遅めに目覚めたリンコは、カーテンの隙間から漏れる日差しに目を細める。

ここ数日、気温の高い晴天が続いていた。きっと今日あたり満開だろうな。

そう思ったら無性に、あの桜を見たくなった。その気持ちは一向に収まらず、むしろ、段々と強まり、跳び起きると出掛ける支度を始めた。

出不精のリンコには珍しいことだ。桜に呼ばれたのかもしれない。



両親が亡くなり、関東にいる伯父を頼って、中部地方のM町を離れた。十一年前のことだ。

M町に行って来ると言うと、伯母は、「大丈夫?」と心配そうに眉をひそめた。

「もう、十九歳だよ」

伯母が心配しているのは、年齢ではないのを知っている。リンコは、両親が亡くなる前後の記憶が所々抜け落ちていた。

「無理に思い出さなくてもいいのよ」

思い出したくないことってあるものね。

伯母は優しく言った。

伯父の家に引き取られてから、M町を思い出すことはなかった。

そうすることで、新しい環境の中、少しずつ日常を取り戻していったのだ。



新幹線に乗り、M町のあるH市に着いたのは昼過ぎで、路線バスに乗り換え小一時間。車窓を流れる町の風景に、懐かしい気持ちは戸惑いに変わった。わずかに記憶に残る店舗や建物は無くなり、見知らぬ道が続く。

元々、記憶が曖昧(あいまい)なのだから尚更(なおさら)だ。

あの桜並木は変わっていないだろうか。

急に不安になった。 


果たして、バスを降りたリンコは、その場に立ち尽くした。


(無い! 無い! 嘘でしょっ)


人々が陶然(とうぜん)と見上げ、開花に合わせた祭りが催された、あの見事な桜並木が丸ごと消えていた。

目の前には、見通しの良い広くなった道路と、整備された真新しい歩道。

(まぶ)しいくらい白いセンターラインが、あっけらかんと延びている。

膝から力が抜け、へたり込んでしまいそうになるのを辛うじてこらえた。見渡すと、沿道の家々の歩道側境界には、直径五十センチはある桜の切り株が、累々と残されていた。


(何てこと……!)


涙が出そうだ。

この並木道の桜は、それぞれ沿道の家々の敷地にありながら、両側から公道上に張り出し、春には桜のトンネルを、夏には緑のトンネルを提供していた。今思えば、沿道の人々の善意で成り立つ桜並木だった。

たしかに、元の道は、センターラインが引けぬほど狭く、近くの小学校の通学路として安全だとは言い難かったが。 


呆然としていると、前から来た小柄な中年女性に声を掛けられた。

「…リンコちゃん?」

どこか見覚えのある顔。

「えっと……」

小首を(かし)げる。

「鈴木です。ミホコの母です。人違いだったら、ごめんなさい」

ゆっくりと、古い記憶が浮上してくる。

幼稚園から小学二年まで仲良しだった、ミホコちゃん。

「あ、ああ、鈴木ミホコちゃん! はい、山田リンコです。ご無沙汰しております。ミホコちゃん、お元気ですか?」

「あー、やっぱり、そうだ!」

(とう)(ちょう)から突き抜けるような声を上げて、ミホコちゃんのお母さんは、相好(そうごう)を崩した。

元気だった? あらあら、綺麗になって。

いつ来たの? 何か用事があるの? 誰かと一緒? 辺りを見回す。

矢継ぎ早の質問は、リンコに問いをはさむ余地を与えない。昔から、おしゃべり好きなおばさんだった。

「ところで、桜並木は、どうして……?」

口が止まった(すき)を縫って訊ねると、ミホコちゃんのお母さんは顔を曇らせた。

「それがねぇ」

一年ほど前に、道路の拡張の話が市側からあってね、と続ける。

「どこの家も()めたのよ。『切りたくない。切らせない』と言う年寄りと、『管理が大変だから、この機会に切ろう』と言う息子世代。小学校の関係者からは、『通学路の安全確保を』と、頼まれるし」

それで、大議論の末、結局、桜の所有者の多数決で、切ることに決まったのだという。

「切らずに済む方法は、無かったのでしょうか」

少し恨みがましい口調になった。

「……私も、とても残念よ。うちの木を切った時は、家族を亡くした気がした。こうして、桜のない春が来ると、ポカーンってしちゃうの。ほら、『何とかを入れないコーヒーなんて』っていうCMあったでしょ? あんな感じ」

リンコはそのCMを知らないが、たぶん何かが決定的に足りない感じなのだろう。

「そうだ! 今夜、桜祭りがあるのよ。よかったら、見て行かない? 遅くなったら、うちに泊って行けばいいし」

桜を見に遠路はるばるやって来たのを、気の毒に思ってくれたのだろうか。

「桜祭りって、桜が無いのに、ですか?」

言いながら視線を巡らせると、道路に沿って、ピンクの雪洞(ぼんぼり)が飾られているのに気が付いた。

「おかしいよね、名前だけ残っているって。でも、桜祭りなのよ。ミホコもね、もうすぐ、家に戻るから。きっと喜ぶわ。ねっ、ねっ」


ミホコちゃんのお母さんに押し切られ、お宅にお邪魔することになった。

建て替えた家は、リンコの知っているミホコちゃん()ではなかったけれど、ちょっと年を取ったおじさんやお婆ちゃんは、昔のままの笑顔で迎えてくれた。お爺ちゃんは、亡くなられたそうだ。

自分の近況や、東京の大学に通っていることを話し、ミホコちゃんが、地元の私大に行っていると聞く内に、本人が帰宅した。

「リンコちゃん?」

ワァッと声を上げて、飛び付いて来る。

おばさんが事前に連絡を入れていたようだ。

茶髪と濃い目のアイメイクに、リンコは若干引いてしまう。

化粧品が強く香る。

リンコはといえば、あまり化粧が得意ではなく、好きでもなかったので、(いま)だ、眉の手入れとリップクリームというスッピン状態だった。



小学二年で引っ越してから、しばらく文通していたが、どちらからともなく途絶えていた。共通の話題がなく、書くことも無くなってしまったからだと思う。お互いに、それを()びると、二人の間にあった十一年の空白は、一瞬で埋まり、小学生に戻ったかのように、ため口で語り合った。中身は変わらないようだ。

リンコが忘れていた小学生の時の出来事や、両親が亡くなった時のこと。離れ離れになってからの、それぞれ生活のことや、当然のように異性のこと。

「リンコちゃんは、彼氏いる?」

「ううん。ミホコちゃんは?」

「えへへ、高校から付き合っている人がいるの。違う学部だけど、同じ大学に通ってる」

「えっ、そうなの!」

「リンコちゃんは、何で彼氏つくらないの?」

「うーん、今のところ、必要性を感じないからかな」

「昔から可愛いのに、もったいないぁ。『命短し、恋せよ、乙女』ってね。お婆ちゃんが、よく歌っている。すぐにおばさんになっちゃうよ」

「だよねぇ」

口ではそう言ったが、恋愛はリンコの中で遠い所にある。まずは、大学を卒業し、就職して自立することが当面の目標だからだ。

両親の死後、引き取ってくれた父方の伯父の家は子がなく、リンコを養女にして実の娘のように可愛がってくれた。が、よくしてもらえば、してもらうほど、世話になって申し訳ないと思う気持ちは大きくなった。

だから、早く経済的に自立し、恩返ししたいと、それだけを目標に生きて来たのだ。

それに、リンコには漠然(ばくぜん)と好きな人のイメージがあった。

そのイメージが、いつ生まれたのか、誰に由来しているのかは、自分でも分からないのだが、未だ、ぴったりの人に巡り会えなかった。

「今夜、お祭りに来るから、彼氏紹介するね」

「わぁ! 楽しみ」



夕暮れになると、家々の戸口の提灯(ちょうちん)や沿道の雪洞(ぼんぼり)に灯が入り、祭囃子(まつりばやし)と人のざわめきが大きくなった。桜の無い桜祭り。何だか間抜けだけれど、何やかんやにかこつけて、集まって楽しくやりましょうということらしい。

(すで)に、ミホコちゃんの家では、集まった親戚に、ご馳走や酒が振舞(ふるま)われて(にぎ)やかだ。

迎えに来た彼氏にも紹介された。いわゆるイケメンではないけど、ガタイの良い優しそうな人だった。何より、ミホコちゃんのことを大好きな気持ちが全身から発せられていた。幸せそうな二人に、ほっこりする。

三人で家を出たが、リンコは気を利かせて一人で回るからと申し出た。

「大丈夫?」

記憶に欠落があるのを知っているミホコちゃんは、心配そうに(たず)ねた。

「うん。日常生活には、特に問題ないから。それに、小学校の時の同級生に、ばったり会って、何か思い出すかもしれないしね。二人で楽しんで来て」

分かった。じゃあ、また後で、とミホコちゃんと彼氏は、ゆっくりと人込みに消えた。


リンコは、少し期待していた。あの子に会えるかもしれないと。

ミホコちゃんと話している内に、夢の中で「リンゴ、リンゴ」と呼んだ男の子のことを、思い出したのだ。

リンゴは、果物の林檎のことではなく、リンコのことだ。小学生の時、リンコをリンゴと呼ぶ男の子がいた。が、名前が出て来ない。日焼けした活発そうな顔は、目に浮かぶのだが。

昨夜、何故かミホコちゃんは、その子のことをサラッと流してしまったので、名前を()けなかった。



暖色の光に浮かぶ屋台。綿菓子やリンゴ飴。お好み焼きや焼きトウモロコシ。甘い香りと、香ばしい匂い。金魚すくいの人だかり。きらきら輝くアクセサリーに足を止める女の子。人のさざめきや、風船を膨らます音。十一年前と、お祭りは、さほど変わっていない。 

親子連れやカップル、友達同士のような集団。人々が夜店をひやかす流れから、リンコは少し離れて歩いた。

亡くなるまで、毎年、両親と一緒に桜祭りに来ていた。小学二年生の春休みも。誰か友だちと一緒だった気がする。 



 ――その夜の桜は、何故か気持ちをざわつかせた。夜空を背景に浮かぶ桜が怖ろしくて、繋いだ友だちの手を、ギュッと握りしめた。

「こわい」と言うと、父親は「大丈夫だよ」と笑い、母親は、気を()らすように「綿菓子、買おうか?」と身を(かが)めて、柔らかく(ささや)いた。

 現金なもので、友だちと桜色の綿菓子をちぎっては食べ、ちぎっては食べしている内に怖さは、どこかへ行ってしまった。怖い桜を、食べて、やっつけた気になったのかもしれない。

それから、半年ほどして、両親は、交通事故で亡くなった。あっけなかった。

夜桜が怖かったのは、不吉な未来を感じ取っていたからなのだろうか。



ふと立ち止まって夜空を仰ぐと、満開の桜の間から朧月(おぼろづき)が見えた。

まるで、昨夜見た夢のようだ。


(えっ、満開の桜!?)


見回すと、ぼってりと見事に咲いた夜桜のトンネルの下に、明るく夜店が連なり、人波が流れていた。

が、何かおかしい。


(そうだ。音がない)


ミュートされたように、祭囃子も人々のざわめきも聞こえなかった。


(耳が聞こえなくなったの?)


いや、それ以前に、切り倒されたはずの桜並木があるのは。

まだ夢の続きを見ているのだろうか。M町にやって来たというのは、夢の中の出来事なのだろうか。

戸惑(とまど)って立ちつくしていると、

「リンゴ、リンゴ」

背後から若い男の声がする。

振り向くと、彼が立っていた。あの頃の、幼さをどこかに残しながら。

成長した姿を見た事がないのに、リンコには、瞬時に分かった。


(なんだ。耳、聞こえるじゃない)


ホッとすると、忘れていた名前が、自然に口から出た。

「トオル、久し振り」


(そう、トオル!)


「思い出した? リンゴ、綺麗になったね」

目を細める。

ミホコちゃんが薄めにメイクしてくれたことに、心の中で感謝する。

「トオルこそ、イケメンになった」

小柄だったトオルは、背がグンと伸びていた。少し長めの前髪が額に振りかかる彼と、どこか他の場所ですれ違ったら、たぶん、誰か分からない。桜祭りで出会ったから分かったのだ。

「今日ね、急に桜が見たくなって来ちゃった。なのに桜が…」

と言いかけて、垂れ込める桜が目に入り、言葉を止める。

「えっと、それで、ミホコちゃんに会ったの。同じ大学の彼氏がいるんだって。お家も建て替えてね――」

リンコは、共通の話題を捜した。話していないと不安でしかたなかった。


トオルは、しばらく相槌(あいづち)を打っていたが、話が途切れると思い詰めたように口元を引き締めて言った。

「俺さ、ずっと、リンゴに謝りたかったんだ」

「ん?」

「俺の所為で、ご両親は亡くなった」

「何を言って……事故、だったのでしょ?」

「俺が飛び出さなければ、急ハンドルを切ることもなかったのに」

 急ハンドルを切った後、車は電柱に激突し、大破したのだという。

「……」

「あの後、お前は記憶を失くしちまっただろ? 事故のことも俺のことも、忘れちまっただろ? それほど、お前を傷付けたってことだろ?」

謝りたくても、謝れなかった。お前には、俺が誰だか分からないのだから。

最初は、わざとしているのだと思った。憎まれて、無視されているのかと思った。

でも、違うのだと先生に聞いて、俺は余計に悲しくなった。

トオルは、声を(しぼ)り出した。   

それから、顔を(ゆが)め、

「謝って済むことではないのは、分かっている。でも、やっぱり、謝らせてくれ。ごめんな。本当に、ごめんな。……ごめんな」

土下座して額を地面に擦り付けた。


トオルの言葉が何かをこじ開けた。


(やめて!やめて! あぁ)


不意に、幾つもの感情が記憶の底から這い上がる。それは目まぐるしく入れ乱れ、頭の芯が焼け切れそうだ。早打つ鼓動が体を震わせ、呼吸が肩を動かした。

リンコは胸を押さえ、見開いた目を固く閉じた。


思い出した。


(八歳だったあの日も自分はこうして)


しゃがみこんだリンコは、自分の中に沈んでいく。

過呼吸で手足が痺れ、朦朧(もうろう)とした意識の中、必死に呼吸を整えた。切れ切れの息の間から目を開けると、トオルは土下座のまま身を震わせていた。


(トオルに言わなきゃ、言ってあげなきゃ)


自分の中の逆巻く感情に翻弄(ほんろう)されつつも、やがて、リンコは大きく息を吐き出すとゆっくりと立ち上がった。


「もう、いいよ。トオル」

半ば自分に言い聞かせるようにリンコは言った。

両親の死を招いたのは、大好きな男の子だった。

その事実を八歳の自分は受け止められずに、忘れることを選んだのだ。

「済んだこと、だよ」

彼を憎み、罵倒(ばとう)しても、両親は戻らない。

十九歳のリンコは、そう思う。

顔を上げたトオルの頬は、泥と涙で汚れていた。

「あれは事故だった。だから、誰が悪いわけでもない。私が記憶を失くしたのは、貴方の所為じゃないの。自分を守りたかっただけ」

出来るだけ静かにそう言うと、手を添えてトオルを立たせた。

楽しかった思い出を、悲しみや憎しみに上書きされたくなかったのだと思う。

封じた箱は開かれた。


「気遣ってくれてありがとな。でも、許されるとは思わない」

トオルはシャツの袖で汚れた顔を拭い、まっすぐにリンコを見た。

「俺は、一生かけて(つぐな)いたいって考えていた。大人になったらお前を探し出して償いたいって考えていたんだ。幸せにしたいって。だけど」    

(うつむ)き、耐えるように顔を(ゆが)める。

リンコは次の言葉を待った。


静寂(せいじゃく)がややあって、顔を上げたトオルは何かにせかされるように、唐突(とうとつ)に言った。

「俺さ、リンゴのこと、小学生の頃から好きだった。引っ越してからも、ずっとさ」

だけどもう、手が届かないけどな。リンコを見つめる瞳は、悲し気に(うる)んでいる。

「どの面下げて言えるんだよって思うけど、どうしても伝えたかった」


(トオルは何故、こんなに切羽詰まった顔をしているのだろう)


「あの、私、彼氏いないし、連絡先交換しようか」

勇気を振り絞って言った。こんな言葉、十九歳の今日まで他の誰にも言ったことがない。

「いや……」

トオルは、寂しそうに首を振り、満天の桜を仰いだ。

「綺麗だなぁ。あの(よる)みたいだ。リンゴは、まだ桜が怖いの?」

「だ、大丈夫」

リンコの答えに、トオルは(かす)かに笑ったように見えた。

「あの夜、約束したんだよ。また一緒に、桜祭りに行こうって。その時は、リンゴが怖くないように、俺が守るって」

覚えてないか。呟くように続けると、短い溜息を一つ()き、一気に言い切った。

「そろそろ、行くわ。元気でな」

「トオル?」

顔が近付いて唇が頬に触れた。冷たい霧のような感触だった。

リンコは思わず頬に手を当てた。

「じゃあ…」と、後ろ手に片手を上げ、トオルの背中は、人込みに消えて行く。

「ちょ、ちょっと、待って」

後を追おうとすると、ゴォッと桜吹雪が舞い上がり、渦を巻いて視界を(さえぎ)った。

「トオル、トオルーッ!」

叫ぶのと同時に、ミュートが解除されたように、桜の無い桜祭りの喧騒(けんそう)が戻って来た。



「リンコちゃん?」

肩を叩かれた。ミホコちゃんだった。

隣に居る彼氏と一緒に心配そうに見ている。気が付けば、川の中洲のように、立ち尽くす自分を避けて人が流れていた。

「大丈夫?」

言葉がうまく出て来ない。頭が混乱している。


(トオルは、いったい?)


「あの……えっと、今ね、トオルに会ったの。小学校の時に一緒だった――」

「え……」

ミホコちゃんが、顔を引きつらせ言葉を失った。

口元に持って行った手が震えていた。

「どうかした?」

彼氏は、尋常でないミホコちゃんの様子に、肩を抱いて心配そうに顔を(のぞ)き込む。

「トオル君はね、今年の初めに、亡くなったよ」

「えっ」

「この先の大通りで」

バイクで大学に通っていたトオルは、自宅近くの交差点で、左折トラックに巻き込まれ亡くなったのだと、ミホコちゃんは言った。



市営墓地の広大な敷地は、芝生に(おお)われ、縦横(じゅうおう)に走る通路沿いには、白蓮(はくれん)と桜が咲き乱れていた。雲ひとつない青空の下、犬の散歩をする人や、ベンチで(くつろ)ぐ人の姿が見える。たくさんの命の眠る場所は、生者の(いこ)う公園にもなっている。


リンコは昨夜、ミホコちゃんの家に泊った。

こちらに泊まると伝えると、伯母は心配したが、過去と向き合う気持ちを理解してくれた。

その後、トオルの家に電話し、墓所を(たず)ねた。トオルの母親はリンコの突然の電話に驚きつつ、電話口で恐縮し詫びた。

誰も悪くないのに。あれは、不可抗力だったのだ。

 

整然と並ぶ見渡す限りの墓石の中、墓誌には真新しい文字が刻まれていた。

【長男 亨 令和×年 一月×日没 十九歳】


(本当に、()っちゃったんだ)


花を手向(たむ)け、墓石の前にしゃがみこむ。

『リンゴ、リンゴ』

自分を呼んだのは、トオルだ。

『これは、リンゴだよ。似ているけど、桜じゃない』と言ったのも。

全て思い出した。

この墓園の近くに、トオルの父親が経営するリンゴ園があり、一度だけ遊びに行ったことがあった。



 ――小学校の入学式で、山田(やまだ)倫子(りんこ)の次に、山元(やまもと)(とおる)の名が呼ばれた。教室で、隣同士の席になると、トオルは、開口一番

「リンゴって? おまえ、くだものとおなじなまえなの?」

驚いたように言った。

「ううん、リンゴじゃないよ、リンコだよ!」 

「そっか、うちリンゴつくってるからさ」

聞き違いを笑い合って、友達になった。

訂正したのに、その後もずっとリンコは、リンゴのままだった。

「リンゴ」、「トオル」と呼び合う仲良しで、同級生にからかわれても、全然、気にならなかった。一年生のクラスが、そのまま二年生に持ち上がると知って二人は喜んだ。

両親との最後の桜祭りに誘った友だちは、トオルだった。一緒に綿菓子を食べて怖い桜をやっつけたのだ。


五月になると、今度はトオルが、うちのリンゴ園に行こうと誘った。

彼の母親が車で送ってくれ、父親の経営する農園に着くと、リンゴの花盛りだった。

「わぁ、きれいだねぇ。さくらのはなみたい!」

歓声を上げるリンコに、トオルは言った。

「リンゴだよ。にているけど、さくらじゃない。だから、こわくないでしょ?」

「うん」

高さを低く抑えたリンゴの木の、満開の花の下で、トオルは、叫んだ。

「おれ、リンゴがだいすきだ!」

「わたしもだいすき!」

つられて叫んだ。

青空は、白い花柄模様だった。



その時は、分からなかったけれど、あれは、告白だったのかもしれない。

「私も大好き」

小学二年の時と同じ言葉を繰り返す。込められた意味は違っている。

封じることで守られ、心の底に隠された幼い初恋。自分もずっと好きだったのだろう。だから、この歳まで誰とも付き合わなかった。

もっと、早く思い出せていたら、トオルと連絡を取り合えていたかもしれない。今となっては、遅いけれど。


昨夜、ミホコちゃんの家で、寝物語に聞いた。

両親の葬儀が終わると、ほどなくリンコは引っ越したが、その後、トオルは心身のバランスを崩して、しばらく不登校になったのだと。八歳のトオルもまた苦しんだのだ。明るく活発だったトオルは、復学してからは、いつも図書館に居るような、物静かな少年になったそうだ。

その後、中学、高校と進み、父親の農園を継ぐべく、大学の農学部に入ったらしい。

ミホコちゃんは中学まで一緒だったけど、当時、トオルは「好きな人がいるから」と彼女を作らなかったと言った。


リンコも農学部に在籍している。

リンゴの研究をしたくて進んだのは、無意識の選択なのだろうか。

もしも、両親が亡くならなかっ()()、自分が引っ越さなけ()()、今頃、恋人同士になり、やがて結婚し、二人でリンゴ園をやっていたかもしれない。

いや、『たら、れば』は虚しいと首を振る。

桜祭りで再会できて嬉しかった。桜並木は無くなってしまったけれど、幻の夜桜が見事だった。トオルが呼んでくれたのだろう。


(ありがとう。側にいてくれたから、怖くなかったよ)


リンコは、冷たい墓石を抱き締め、嗚咽(おえつ)を漏らした。十一年分の涙が流れる。

引き取られてから、伯父や伯母は「泣いても良いのだ」と繰り返したが、涙は出て来なかった。気持ちを曖昧(あいまい)にしてやり過ごしたあの時、本当は泣きたかったのだと気付いた。

両親を亡くしたこと。そのことで、幼い恋が立ち行かなくなったこと。

そして、ずっと好きだった初恋の人を失ったこと。

思いっ切り、泣きたい――! 

うららかな春の日、暖かなそよ風が、濡れそぼった頬を撫でて行く。



「リンコちゃん」

半時ほどして墓苑の出口まで戻ると、ミホコちゃんと彼氏が立っていた。

「心配で、来ちゃった」

「待っていてくれたの?」

彼氏の車で駅まで送ってくれるという。

「思い出さない方が、良かった?」

車内で、泣き()らした目を見たミホコちゃんが訊ねた。

「ううん」

良いことも、悪いこともなかったことにはできないもの。リンコは、小さく(つぶや)いた。


駅に着き、お礼を言って別れる時、「新幹線で食べて」と、ミホコちゃんは、名物のお菓子をくれた。好物を覚えていてくれたらしい。

リンコが忘れていても、過去からずっと途切れることなく人生は続いている。

人の想いも。



新幹線の後方へ、ゆっくりと、次第に速度を上げて流れ去る故郷。

記憶を取り戻したリンコの時間が走り出す。

トオルを想って目を閉じた時、

「リンゴ!」

呼ばれた気がして、外を見た。

まだ咲くはずのない、満開の真っ白なリンゴの花が一瞬視界を掠めた気がした。





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