*閑話*『利用価値があれば』
「至急、追っている騎士に伝えよ。私が行くまで二人を死なせるな」
レンツェの姫が休むために屋内へ連れて行かれたのを見守って、皇帝陛下はそれまで穏やかだった表情を一変させた。
ぴりっ、と、周囲に緊張が走る。
先ほどの甘い、あまりにも甘い言葉を本気にした者はこの場には、レンツェの姫を除き誰もいない。
「陛下」
「ははっ、どうした息子よ。かような顔をして」
「……件の騎士は、レンツェの姫にとって恩人である、と」
「その方、本気で信じているのか?」
だとすれば、愚かだな、と皇帝は一瞥する。冷徹な青い瞳はヤシュバルが相手でなければ、視線だけで息の根を止めただろう冷たさがあった。
「……」
「その方も、そうは考えておらぬくせに、ほざくな」
ハッ、と短い笑いには敵意があった。それはレンツェへ向け続けた憎悪と同じ。
控えているイブラヒムは皇帝から発せられる威圧感に、ただ顔を伏せるしかできない。
(……あのレンツェの姫と出会われて、収まったと思ったのは、誤りだった)
レンツェを滅ぼす。悉く無価値として更地にして世に晒してやるとそう決めた皇帝陛下の意思は、今も欠片も変わっていないのだと、イブラヒムは痛感する。
楽しげにレンツェの姫の髪を編んでいた皇帝陛下のお顔は穏やかだった。先ほども、必死に懇願する姫を気遣う様子はまるで母親のように優しく慈悲あるものであったが、かような甘い者がアグドニグルの皇帝であろうはずがない。
(まぁ、私も……その騎士が、レンツェの姫にとって恩人だなどとは本気で思っていませんが)
あの幼い姫は本気で『優しくしてくれた』だなどと信じているのだろう。それはわかった。だが、客観的に『ンなわけないだろう』としか思えない。
イブラヒムが初めて見た時、あのレンツェの姫は奴隷よりも貧相な有様だった。貴族の所有する奴隷だって身ぎれいにされている。あれは奴隷というより、みすぼらしい乞食か浮浪者か何かだ。
誰からも顧みられなかったのは一目瞭然。
何か気紛れ、あるいは取るに足らないと、他人が何か「親切」と、当人にはそう取られるような振る舞いをされたとて、それは慈悲などではない。
あの騎士が本当に、レンツェの姫を王族として扱い、親切にしていたというのなら、あの姫の体があそこまで傷だらけで、痩せ細り、困窮していたわけがない。
姫がどう言おうと、その騎士とて、あの姫を見捨て周囲の悪意と無関心に関与していた愚物に他ならない。
ゆえに、皇帝陛下が『姫の恩人』などという理由で許す必要は一切ない。が、『優しくしてくれた』という姫の思い出を否定しなかった。
「レンツェの王族に、仕える王女に名誉の死をと、ははっ!かように考える忠義な騎士が……!レンツェにおるものか!王族に仕えるものか!あの愚物共に、他人から忠義を受けるだけの徳があろうはずもない!」
笑う皇帝は、ぎりっと唇を噛みしめた。強く噛み、血が口の端から流れる。すかさずにイブラヒムが差し出した布で口元を拭い、皇帝は長い髪をかき上げる。
「ゆえに、忠義ゆえの行動、などではなかろう。面白い。どんな面で、何をしようとしているか、ははっ、大方、復讐の類であろうが。見に行くとしよう」




