九話 いつものアカペラ大会
「お父さんが来たわよ。そろそろどうぞ」と明日香たちの母親に声をかけられ、さっきの部屋に戻った。既に料理の準備も終わっていて、手伝わなかったことに罪悪感を覚えた。
「やあ、美知子さん。お久しぶり。いつも杏子がお世話になってるね。ありがとう」と明日香たちの父親にあいさつされた。
「お久しぶりです、おじさま。今日はお誘いいただきありがとうございます」
そして母親にも、「お料理のお手伝いをしなくて申し訳ありません」と謝っておいた。
「大丈夫よ、お手伝いさんもいるから。お客様はゆったりしていてちょうだい」
「はい。お言葉に甘えて、ありがとうございます」
「さあさあ座って。さっそく乾杯といこう」と父親が言って俺たちは席に着いた。
「しかし今日は一段とあでやかだな」と父親が満足げに見まわした。
俺と明日香と真紀子と杏子さんはきれいなドレスを着ているし、祥子さんも杜若の柄の、シックだが鮮やかな色彩の浴衣を着ている。・・・杜若ではなくあやめかな?違いがよくわからない。
明日香の両親と杏子さんと祥子さんはビールを、明日香と真紀子と俺はコーラを互いに注ぎ合った。今日は瓶から直接注いだから、アルコールは確実に入っていない。
「それじゃあ、美知子さんとの再会を祝って、乾杯!」と父親が言い、みんなで「乾杯!」と唱和した。
料理は定番のから揚げのほかに、小あじの南蛮漬け、酢だこ、冷やしトマトの薄切りとチーズを重ねたカプレーゼ風のサラダなど、夏向きの料理が並んでいた。
思い思いに小皿にとって味を確かめる。
「お酢を効かせた料理は夏向きでいいですね。今度下宿でも挑戦してみます」と俺は言った。
「いつもお料理を作ってもらって悪いわね」と改めて感謝する母親。
「美知子さんの料理はどれもおいしいし、和食、洋食、中華などバリエーションも豊富だからいつも食事が楽しみ」と杏子さんが言い、
「あなたも少しはお料理を習いなさい」と母親にたしなめられていた。
「家事には向き不向きがあって、料理が好きな人は掃除が苦手、掃除ができる人は料理が苦手って傾向があるらしいですよ」と言うと、杏子さんや祥子さんがうんうんとうなずいていた。
二人とも部屋をこぎれいにしてくれているが、料理をするのは面倒なようだ。
「主婦だとそういうわけにもいかないけどね」と明日香の母親が嘆いた。
「お姉様は何でもできるんじゃない?」と明日香が言ったが、
「私は食べることが好きなので、手間がかかる料理でも苦にはならないけど、掃除は普通で、裁縫は苦手よ」と言った。
ご両親にビールを注いだり、真紀子にコーラを注いでもらったりしながら料理を食べていると、まもなくお腹がいっぱいになってきた。
「そろそろ歌の時間としようか」と父親が言い、恒例のアカペラ大会が始まった。この時代には、家庭用の廉価なカラオケ機器はない。業務用の8トラック・カートリッジのカラオケ機器も、まだほとんど普及していない時代だった。
機械があっても、8トラのミュージックテープを揃えねばならず、新曲にすぐに対応できるものではない。俺の時代にあった通信カラオケシステムの何と画期的だったことか。
「誰から歌う?」と聞かれていつものように明日香がまず立ち上がった。
「それでは森山良子さんの『禁じられた恋』を歌います」と明日香。この歌は俺が女子高を卒業した後に発売された新曲だ。
いつものように美しい歌声を聴けてとても満足だ。
「とても上手だわ」と明日香を褒める。「松葉祭でもその歌声を聴かせてもらえるかしら?」
「まだ松葉祭の演目は決めてないの。でも、お姉様、絶対に観に来てね」と明日香が言った。
次に真紀子が『フランシーヌの場合』を歌った。こちらも新曲のようで、真紀子もいい声で歌ってくれた。
「マキちゃんも上手だわ。松葉祭がますます楽しみね」と言ったら、
「明日香とクラスが分かれたから、どんな演し物ができるか、とても不安なの。このドレスを来てステージに立つ度胸もないし」
「マキなら大丈夫よ」と明日香が言い、続けて「次はお姉様、お願い」と催促された。
俺は短大に入学してから新しい歌謡曲を聴く機会がほとんどなかった。下宿にテレビはなく、ラジオはあったが、滅多に聴かなかったからだ。
とはいえ、歌わされるだろうなと予想していたので、俺は青春ドラマの挿入歌を練習していた。曲目は『貴様と俺』で、「♪空に燃えてるでっかい太陽」で始まる男っぽい歌詞だ。
青春ドラマの曲といえば、千葉県知事の『さらば涙と言おう』、青い三角定規の『太陽がくれた季節』、中村雅俊の『ふれあい』などの方が有名だろうが、あいにくまだこの世に生み出されていない。
歌い終わると申し訳程度にぱちぱちと拍手をしてくれた。
「男らしい泥臭い歌詞だけど、若い娘さんが歌うと趣きがあっていいものだな」と明日香の父親が評してくれた。お世辞だろうけど。
「私は森進一の『港町ブルース』を歌います」と今度は杏子さんが立った。
この人の選曲も謎だけど、これも新曲のようだ。いつ覚えているのだろう?
「相変わらず杏子は渋いな」と父親。「今も落語の練習をしているのか?」
「最近は観に行くだけで、自分で落語をする練習はしていないの」と杏子さん。
「去年の大学祭は何をしたんですか?」去年は生徒会長をしていて忙しかったから、秋花女子大学の大学祭は観に行かなかったし、ろくに話も聞いていなかった。
「落語をする場所を確保できなかったから、路上で漫才をしたの」
「え?路上で?」
「路上と言っても大学の構内だけどね。・・・上谷部長と一緒にタンバリンを叩いて人集めをして、その場で漫才を披露したんだけど、あまり人は集まらなかった」
いい度胸をしている、と半ばあきれてしまった。今年の大学祭ではそんな真似はしないぞと心に誓う。
「今年の大学祭は、英研の屋台と英語劇を手伝ってもらうから路上漫才なんてできないわよ」と祥子さんが言ってくれた。
「その英語劇をする舞台に落研も便乗させてよ」と杏子さんが言った。英語劇はともかく、ステージで漫才なんかしたくない。
「そういう要望は部長に出して。私が決められることじゃないから」と祥子さんが杏子さんに言い返した。
「わかったわ。上谷部長と相談しておく」と杏子さん。ほんとうに交渉するつもりなのかな?
大学祭の話はそこで終わって、次は明日香と同じくらい歌がうまい祥子さんが歌う番だ。祥子さんの歌声は、特に高音の伸びが素晴らしい。
その歌声を生かしてか、祥子さんは『夜明けのスキャット』を歌った。とても美しい歌声だった。
「やっぱりさすがですね」と褒める。「でも、この歌を練習しているところなんか見たことなかったですけど、いつ練習していたんですか?」
「英研の部員と一緒に歌ってみたことがあっただけよ」
英研なのに日本語の歌謡曲を歌っているのか。相変わらずよくわからない部活だ。
最後は明日香の両親が『グッド・ナイト・ベイビー』をデュエットした。いつも仲が良くて何よりだ。
それにしても、「きっといつかは 君のパパも わかってくれる」という歌詞を聞くと、二人の馴れ初めを多少は知っている身としては複雑な気持ちになる(「五十年前のJKに転生?しちゃった・・・」五十九話、「アフターストリーズ」五十六話参照)。
歌い終わると「とても素敵でした」と言って盛大に拍手をした。
夜八時を過ぎたあたりでお開きになったので、「今日はほんとうにありがとうございました」と改めて両親にお礼を言った。
「楽しかったよ、美知子さん。また年末か新年に集まろう」と父親。
「それまで杏子のことをよろしくね」と母親にも頼まれた。
「はい。もちろんです。こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げる。今度は新曲を準備しておこう。
「お片づけをお手伝いします」と申し出たら、
「美知子さんは気になさらずに、祥子ちゃんとお帰りになって」と固辞された。
「杏子と明日香とマキちゃんに手伝わせますから」と言われて明日香が不満げな顔をした。俺は真紀子が実の娘と同じように扱われていることを嬉しく思った。
「それでは失礼します」と言って着替えをしに部屋を出ようとすると、
「みっちゃん、森田さんがまた会いたがっていたわよ」と真紀子が言った。
「そうねえ。・・・明日は予定があるし、来週の土曜日は古田さんと会う約束があるから、さ来週の土曜日くらいになるかしら?明日の朝電話してみる」と俺は言った。
「試験勉強は大丈夫?」
「多分大丈夫だと思うわ」と答える。大丈夫だろう、多分。
お別れのあいさつをして祥子さんと一緒に水上家を出る。明日香、真紀子、杏子さんが見送ってくれた。
そのままぶらぶら歩いて黒田家に向かう。このあたりは街灯がついているので、夜が更けてもあまり怖くなかった。
祥子さんはなぜか機嫌がよく(酔っぱらっていたせい?)、鼻歌を歌いながら歩いていた。
そんな俺の気持ちを悟ったのか、祥子さんが話しかけてきた。
「最近とても楽しいの」
「何かいいことがあったんですか?」
「それはもちろん、美知子さんが英研に入部してくれたから」
「それだけですか?」
「それに最近美知子さんが生き生きしてるじゃない?レポートか試験勉強のせいかわからないけど、私が好きな美知子さんが戻って来てくれた気がするのよ」
「そ、そうですか?」
俺がそう言うと、祥子さんが俺の手を握ってきた。「うちに寄ってよ。私の両親も美知子さんにお礼が言いたいって」
「は、はい・・・」祥子さんに手を握られているし、祥子さんの両親に同居させてもらっているマンション代を出してもらっているので、断ることはできなかった。
祥子さんの家に着き、玄関から中に入るとそのまま応接室に通された。久しぶりだがやっぱり立派な家だ。
ひとり取り残され、所在なげにソファーに座っていると、まもなく祥子さんが両親をつれて来た。
「こんばんは、お邪魔しています」とすぐに立ち上がってあいさつする。
「やあ、美知子さん、いつも祥子がお世話になってるね、ありがとう」と祥子さんの父親から感謝された。
「とんでもない。いつも勉強その他を教わっていて、こちらこそお世話になっています」と頭を下げた。
「立ち話もなんだから座って。飲み物とおつまみを用意しよう」
「いえ、家に帰らなくてはなりませんし」
「二時間くらい大丈夫でしょ?車で送るから」と母親にも言われる。
「自宅には私が電話しておくわ」と祥子さんも言って、すぐに帰ることはできなくなった。
「何を飲まれるの?ビール?ワイン?水割り?」と母親に聞かれ、断る前に、
「美知子さんは炭酸が好きみたいよ」と祥子さんが口をはさんで、目の前でコップにウィスキーが注がれ、炭酸水が混ぜられた。
「おつまみはこれでいいかしら?」と母親がかっぱえびせんを深皿に盛って出してきた。
断ることができないままハイボールを口にする。ウィスキーは薄めで、炭酸水のしゅわしゅわ感が口に心地良かった。
その後短大での様子をいろいろ聞かれ、適当に答えているうちに酔いが回ってきた。
祥子さんが「将来は同じところで秘書として働きたいわ」などと言っていた気がするが、その話が最後にどうなったのかは記憶にない。
十時過ぎに祥子さんの母親が運転する車で家まで送ってもらったようだ。俺の母に状況を説明してくれたので両親から怒られることはなかったが、
「外で夜遅くまで飲み歩いたりしないように」と釘を刺された。
その夜は風呂に入らずに武の隣で眠り込んでしまったようだ。そんなに酔っていなかったのか、翌朝はすっきりした気分で目覚めることができた。武からいびきがうるさかったと文句を言われたが、どうせ作り話だろう。
そして母の朝食作りを手伝い、家族四人で朝食を食べてから、すぐに下宿へ帰る準備を始めた。
九話登場人物
藤野美知子(俺、お姉様、みっちゃん) 主人公。秋花女子短大英文学科一年生。
水上明日香 松葉女子高校二年生。美知子を慕う後輩。
内田真紀子(マキ) 松葉女子高校二年生。美知子を慕う後輩。
水上杏子 同居人。秋花女子大学二年生。落研部員。明日香の姉。
黒田祥子 同居人。秋花女子大学二年生。英研部員。
上谷葉子 秋花女子大学の落研の部長。多分四年生。
藤野 武 美知子の弟。市立中学二年生。
レコード情報
森山良子/禁じられた恋(1969年3月25日発売)
新谷のり子/フランシーヌの場合(1969年6月15日発売)
布施明/貴様と俺(『青春とはなんだ』挿入歌、1965年10月10日発売)
森田健作/さらば涙と言おう(『おれは男だ!』主題歌、1971年3月25日発売)
青い三角定規/太陽がくれた季節(『飛び出せ!青春』主題歌、1972年2月25日発売)
中村雅俊/ふれあい(『われら青春!』挿入歌、1974年7月1日発売)
森進一/港町ブルース(1969年4月15日発売)
由紀さおり/夜明けのスキャット(1969年3月10日発売)
ザ・キング・トーンズ/グッド・ナイト・ベイビー(1968年5月1日発売)
TVドラマ情報
日本テレビ系列/青春とはなんだ(1965年10月24日〜1966年11月13日放映)
日本テレビ系列/おれは男だ!(1971年2月21日〜1972年2月13日放映)
日本テレビ系列/飛び出せ!青春(1972年2月20日〜1973年2月18日放映)
日本テレビ系列/われら青春!(1974年4月7日〜9月29日放映)