五十二話 青鬼と河童の正体
※閲覧注意。死体の説明が含まれています。
「手塚治虫が盛り返すって?どういうことだい?」と俺の発言に食いつく五十嵐さん。
「て、手塚治虫は確か医師免許を持っていましたよね?」
「そうだよ。大阪大学医学部の出身だ」
「その知識を生かして医者が主人公の漫画を描けば、きっとヒットしますよ」と俺は予言めいたことを言ってしまった。もちろん『ブラックジャック』を念頭に入れての発言だったが、連載が始まるのはまだ数年後だ。
「医者の漫画か。・・・ヒットするかな?」と半信半疑の五十嵐さん。
「そ、それでは私たちはこれで」と会釈をしてこの場を離れようとする。
「僕たちは一樹兄さんのところへ行ってくるからね」と兵頭さんも言って、仲野さんと五十嵐さんから離れて行った。
二人で医学部棟に移動し、法医学研究室と書かれた部屋のドアをノックすると、中から「どうぞ」と声がした。ドアを開ける兵頭さん。
「やあ、崇」と若い男性の声が聞こえた。俺がドアの中をのぞき込むと、以前に会ったことがある立花先生と一色が椅子に座って向かい合っていた。
「ミチ!?」同時に一色が俺に気づいて声を上げた。「どうしたの?」
「失礼します」と言って俺は兵頭さんと一緒に入室した。すぐに木の丸椅子を出して勧めてくれる立花先生。
「お忙しいところ失礼します。立花先生に一色さん、お久しぶりです。秋花女子短大一年生の藤野美知子です。今、お邪魔ではありませんか?」
「大丈夫だよ。ちょうど大きな連続事件を解決する目処が立ったところなんだ」と一色が俺に言った。
「実は、おそらく法医学に関係することだと思うんですけど、お二人に相談が・・・」と俺は言って、芽以さんから聞いた青鬼と河童の話をした。
「私はこれらの妖怪は腐った人の死体を見間違えたと思うんですが?」
「その通りだと思うよ。あなたはどうしてそう思ったんだい?」と聞き返す立花先生。
「水死体のことを俗に土左衛門と呼びますが、それは腐ってガスが溜まった水死体が、江戸時代の相撲取りの土左衛門に似ていることが由来だと本で読んだことがあります。話に聞いた青鬼の体が大きかったのは、同じ現象だと思ったからです」
「その通り」と立花先生。「死体の腐敗について説明するけど、大丈夫かな?」
「はい。お願いします」と俺は答えた。
「死後二日以上経つと死体に顕著な腐敗現象が起こる。まず、体内に腐敗ガスが発生して、体が膨れ上がる。これを巨人様化と呼ぶんだけど、生前は普通の体格の人が、相撲取りや巨人のように見えるんだ。土左衛門がまさにこれだね」
「はい」
「平行して血管から血液が滲み出し、全身の皮膚を徐々に赤く染めていく。ただ、体を構成する蛋白質が腐敗すると硫化水素ガスが発生するんだが、これが血液中のヘモグロビンと結合すると青緑色の硫化ヘモグロビンに変わるんだ。硫化ヘモグロビンが多くなると今度は全身が緑色に変色していく。巨人様化して、全身が赤く染まった死体が赤鬼、緑色に染まった死体が青鬼とみなされたんじゃないかという説があるんだ」
「なるほど。・・・つまり友人のおばあさんが見た青鬼は、腐敗した人の死体だった可能性が高いというわけですね?」と俺は説明してくれた立花先生に言った。
「そう。日本では昔から緑色のことを青と言っていたから、青鬼の皮膚の色が緑色でも矛盾はないよ」
「ただ、そのおばあさんは、青鬼の目が動いて自分を見たと言っていたそうですが・・・?」
「眼球が納まっている眼窩にも腐敗ガスが溜まってくる。そうなると眼球が押し出され、自然に瞼が開くんだ。その目が動くことはないんだけど、飛び出した目を見ているうちに自分を見られたと勘違いしたんじゃないかなあ?」と立花先生が自信なさげに言った。
「不気味な死体を見ていたんだから、そのおばあさんが錯覚しても不思議はないと思うよ」と一色も言った。
「わかりました。ありがとうございました」とお礼を言った。
「では、もうひとつの河童の目撃談はどう解釈すればいいのでしょうか?」
「そのおばあさんは河童の死体は見なかったんだね?」
「はい。村の人たちの話を聞いただけのようです」
「となると、青鬼を河童と見間違えた可能性が考えられる。体の色が同じ緑色だったらしいからね」と立花先生。
「でも、村の人の話では、頭のてっぺんに皿があって、口には嘴があり、手の指には水かきがあり、背中には甲羅のようなものが見えたそうです。水死体の見た目とは違いませんか?」
「話では両脇が裂けていたようだから、動物に食べられた痕跡があるね。お腹に穴が開けば溜まっていた腐敗ガスが抜けるし、その頃には腐敗した組織が液状化して流れ出していた可能性がある。そうなると体は萎んでくるんじゃないかな」と立花先生。
「それに頭毛は腐った頭皮から抜けやすくなるから、たまたま頭頂部の頭毛が抜けて河童の皿に見えたのかも。また、口の両端を動物に喰われれば上顎の皮膚が逆三角形に残って、嘴のように見えることもあるかもしれない」
「水かきと甲羅は?」
「以前一色さんには説明したけど、水中に死体が長時間沈んでいると手のひらの皮膚の表層の表皮が水を吸って膨らんでくるんだ。この現象を漂母皮化と言う。漂母とは洗濯女のことで、生きている人間でも手を長く水やお湯につけていると皮膚がぶよぶよしてくるだろう?そこから付けられた名称さ」(「五十年前のJK」アフターストーリーズ七十話参照)
「漂母皮化・・・ですか?」
「漂母皮化がさらに進行すると皮膚の深層の真皮から表皮が剥がれてくる。まるで手袋を脱ぐように、手のひらから指先までの表皮が手からすっぽりと抜けるんだ。この現象を蝉脱と呼んでいる。蝉脱とはセミの幼虫の抜け殻のことさ。夏になると木の表面にセミの幼虫の抜け殻をよく見るだろう?幼虫の姿とそっくり同じ形の抜け殻を。それになぞらえた命名だろうね」
「はあ・・・」それが水かきや甲羅とどう関係があるんだろう?
「蝉脱しかけた手の皮膚が指の間に引っかかっていたら、水かきのように見えるかもしれないね」
「なるほど・・・」
「また、お腹の両脇を動物にかじられた時、腐った皮膚が剥がれて地面に落ちたら、背中にある甲羅の端っこのように見えるかもしれないね。さすがにこれは想像だけど」
「つまり、青鬼は腐った人の死体、そしてさらに腐って動物にかじられていたのが河童に見えたということですか?」
「そうだね。実際に死体を調べることができたなら、もっと確実なことを言えるけど、今となっては無理な話だね」
一色は立花先生が説明している間、無表情で聞いていた。いや、想像したくなくて真剣に聞いていなかっただけかもしれない。
「これで友だちに説明できます。今日はありがとうございました」と俺はお礼を言った。
「いえ、どういたしまして」
「一樹兄さん、河童は溺れた人の尻子玉を抜くという言い伝えがあるけど、尻子玉って何なんだい?」と兵頭さんが質問した。
「尻子玉は人間の肛門の中にある臓器と考えられていたものかな?もちろんそんな臓器は存在しないけどね」
「昔の人が適当に考えたのかな?」
「いや、水死体が腐ってくるとお腹に腐敗ガスが溜まって膨れ、そのため肛門が飛び出してくるんだ。それを見た昔の人が尻子玉というものだと考えたのかもしれないね」
「それも死体が腐敗して起こったことと考えられるんですね?」と俺も言った。
「そう。しかし藤野さんはこういう話を聞いても動揺しないんだね?一色さんでもまだ少しは気味悪がるのに」
「実際の情景を想像しないようにしているだけです」と俺は答えた。
「ところで、これを妖怪と言っていいのかわからないけど、一樹兄さんはゾンビって知ってるかい?」
「ゾンビ?何だい、それは?」一色の方を見る立花先生。しかし一色も首を横に振った。
ゾンビは俺の時代では映画やテレビドラマで有名な動く死体だ。しかしこの時代ではまだ知名度は高くないらしい。
「前に神田君に借りた本で知ったんだ。ハイチにはブードゥー教という宗教があって、その司祭が土葬された死体をゾンビとして蘇えらせて、奴隷のように働かせるんだってさ。その本の著者は実際にゾンビを見たって書いてるんだ」
「神田君も相変わらず変な本を読んでるね」と一色が感想を述べ、俺も同意してうなずいた。
「ゾンビがもし存在したら、どんな感じかな?」
「仮死状態の人ならともかく、土葬した死体が生き返ることなんてないけどね」と立花先生が言った。
「もし存在するなら、・・・死んでまもない死体なら生きていた時とあまり変わらない姿だろうけど、土の中にしばらく埋められていたら、腐敗液や腐敗ガスが土に吸収され、朽ちて白骨化しかけた死体か、屍蠟化した死体になるだろうね」
「屍蠟化って何ですか?」と俺は聞いた。
「死体の中の脂肪が屍蠟という成分に変化することだよ。皮膚や筋肉が石膏のような物質に置き換わるんだ」
「赤鬼や青鬼とは違って、皮膚が茶色っぽかったり白っぽかったりして、一部剥がれ落ちかけたような死体でしょうか?」
「そうだろうね」と立花先生。それだと映画やテレビドラマで見るゾンビに近い感じだな。
俺は改めて立花先生にお礼を言い、一色に別れを告げて、兵頭さんと一緒に医学部棟を出た。
「今日はわざわざ案内していただきありがとうございました」と兵頭さんにもお礼を言う。
「お役に立てたなら光栄だよ。・・・ところで秋花女子短大だったね?大学祭はあるのかい?」
「はい。私は英研に所属していて、英語劇の準備を手伝っています」
「それはおもしろそうだね。ほかの大学の学生も観に行っていいのかな?」
「おそらく大丈夫だと思います。女子大だから、近隣の大学の男子学生もたくさん来るでしょうね。私は今年初めてだから、どんな様子かまだわかりませんが」
「できれば行ってみるよ」
「お待ちしています」と俺は営業スマイルを浮かべた。「一色さんも誘ってください」
「ああ、わかった」
「明応大学の大学祭も近々開催されるんですよね?」
「うん。ミステリ研は機関誌と串団子を売る予定だけど、機関誌には一色さんが解決した事件の記事を掲載する予定だから、買いに来てくれると嬉しいね」
「わかりました」
その時俺は、今日は英研の部室に寄らなければならないことを思い出した。短大を早めに出たが、立花先生に話を聞いていてけっこう時間が経っていた。
「それではこれで失礼します」と兵頭さんに会釈をして別れ、駅に向かう。
秋花女子短大に帰ると、俺は急いで英研の部室に向かった。
部室内に入るとほぼ全員の部員が揃っていて、俺は頭を下げながら目立たないように後の方に行った。
「美知子さん」突然祥子さんが俺の名を呼んで、俺は飛び上がった。
「遅かったわね」
「すみません。ちょっと用事があったもので」
「それはいいけど、英語劇のあなたの役が決まったわよ」
「ええっ!?」と俺は驚いて聞き返した。「役って何ですか?」
「あなたはシャルル七世の愛妾の役に決まったの」
「愛妾?」
英語劇『オルレアンの少女』のあらすじは次の通りだ。
イギリスとフランスとの百年戦争の時代、農夫の娘ジャンヌは神の啓示を受ける。戦争に疲れて愛妾と戯れているフランス国王シャルル七世に大主教から救世主と紹介されたジャンヌは出陣を命じられる。連戦連勝のジャンヌだったが、戦場で出会ったイギリスの騎士リオネルと恋に落ちる。リオネルはジャンヌと共にイギリス軍と戦うが戦死し、ジャンヌはイギリス軍に捕らえられ、悪魔と契約した異端者として十字架に架けられる。無実なら純潔であると宣言しろと詰め寄られるが、リオネルを愛したジャンヌは宣言できない。そのため火刑に処せられ、天使の声に包まれながらジャンヌは命を落とす。
この英語劇では上級生から主要な役に就く。そこに異論はない。ちなみに祥子さんはイギリスの騎士リオネルに抜擢されている。ジャンヌが一目惚れするほどの美男子という設定なので、英研一の美人と言える祥子さんなら適役だろう。
国王の愛妾という役には特にセリフはないが、祥子さんの一言で俺は凍りついた。
「あのドレスを着て舞台に出てね」
あのドレスとは、今は洋装店に勤めている幼馴染の恵子が去年作ってくれたものだ。女子高の文化祭で着て注目を集めた。あの恥ずかしい体験をまた繰り返さなくてはならないのか・・・。
五十二話登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科一年生。
五十嵐宏樹 令成大学文学部三年生。仲野蝶子の幼馴染。
兵頭 崇 明応大学経済学部三年生、ミステリ研部長。
立花一樹 明応大学医学部法医学教室の助手。一色千代子の彼氏。
仲野蝶子 明応大学文学部一年生、ミステリ研部員。
一色千代子 美知子の女子高時代の同級生。明応大学文学部一年生。ミステリ研部員。
神田一郎 明応大学商学部一年生。ミステリ研部員。
黒田祥子 美知子の同居人。秋花女子大学二年生。
小柴恵子 美知子の幼馴染。洋装店に勤務。
漫画情報
手塚治虫/ブラック・ジャック(週刊少年チャンピオン、1973年11月19日号〜1978年9月18日号連載、1979年1月15日号〜1983年10月14日号不定期連載)
書誌情報
W.B.シーブルック/魔法の島ハイチ(大陸書房、1969年1月1日初版)




