四十五話 徳方大学幼児教育研究部へ
九月も中旬にさしかかり、短大がまだ夏休みの俺はずっと家でのんびり過ごしていた。
「短大はまだ休みかよ!?」と、二学期になって中学校に通っている武に妬まれたが、そういうカリキュラムなのだからしょうがない。
ただし水曜日の夜になると英子さんの家に家庭教師に行き、その夜は下宿に泊まり、翌朝簡単に掃除をして家に帰った。
英子さんも英語の長文読解に慣れてきたようで、訳させている『The Little Mermaid』もかなり進んだ。最初に訳させた日には一段落も訳せなかったのに、今では短い段落なら二つ三つは余裕だった。
「だいぶ英語に慣れてきたわね。もう苦手科目でなくなったんじゃない?」
「未だにアルファベットの塊を見るとめまいがしそうになるわ」と英子さん。
「そこで、早めに訳し終わろうと思って、本文の最後までざっと眺めて、わからない英単語があると先に意味を辞書で調べるようにしてみたの。でも、英単語って複数の意味を持っていることが多いじゃない?だから、いざ英文を訳そうとしたときに、英単語の意味が文意と合わなくて、もう一度辞書を調べなきゃならなくて、二度手間になることがよくあるわ」
「そうね。何度も辞書を調べ直さないといけないことがよくあるけど、そういう無駄に思える作業を繰り返すうちに和訳が上手になっていくわよ」と俺は英子さんに言った。
「よく知っていると思っている英単語でも、訳そうとすると意味がわからないこともあるわ。例えばここ・・・」と英子さんが『The Little Mermaid』の一節を指さした。
「ザ・プリンス・セッド・シー・シュッド・リメイン・ウイズ・ヒム・オールウェイズって書いてあって、王子様が人魚姫にいつもそばにいるよう言ったってとこはいいのよ」
「人魚姫が王子様に気に入られたってことね」
「でも、その続きのシー・レシーブド・パーミッション・トゥー・スリープ・アット・ヒズ・ドアー・オンナ・ヴェルヴェット・クッションってとこが訳せるけど意味がよくわからないのよ。直訳すると王子様の部屋のドアのところに置いてあるヴェルヴェットのクッションで寝るのを許されたってことでしょ?ペットの犬か猫みたいな扱いをされたってことかしら?」
「ま、まあ、気に入られたって言っても、王子様の恋人でも家族でもない階段に倒れていた浮浪児っぽい女の子よ。ペット並みだったとしても、破格の扱いじゃないの?」
「まあ、そこはいいわ。よく意味がわからなかったのがその次の文章なの」と言って英子さんが英文を読み上げた。
「ヒー・ハッド・ア・ページズ・ドレス・メード・フォー・ハー。・・・ページ(page)って本やノートのページのことよね?だからページズ・ドレス(page's dress)って、紙でできた服のことかしら?」
「ページを辞書で調べてみた?」
「・・・調べたけど」と言って英子さんは薄い英和辞典を取り出した。
「それって中学生向けの簡易辞書じゃない?もっと厚い辞書で調べてごらんなさい」と俺は言って、持参していた厚めの辞書を差し出した。
「ページ、ページっと」と俺の辞書で調べる英子さん。
「あ、あった。・・・えっと、ページって小姓のこと?」と英子さん。
「小姓って武将なんかに仕える少年従者のことよね?有名なのは織田信長の小姓の森蘭丸で・・・」そう言って英子さんはなぜか頬を染めた。
「信長とエッチな関係でもあったって言われているけど・・・」
英子さんもBLに興味があるのかな?喜子さんみたいに。
「そこまで想像しなくてもいいのよ。つまり人魚姫に『ページズ・ドレス』を着せたってことは、男の子の服を着せたってことなのよ」
「人魚姫は男装していたの?なぜ?・・・はっ、まさか王子様は信長みたいに」
「そういう想像はいいから!」
「じゃあ、なぜ人魚姫は男の格好をしていたの?」
「その後に書いてあるでしょ?王子様は人魚姫と一緒に馬に乗ったり、登山をしたりしているのよ。スカートじゃ邪魔になるから、ズボンをはかせたってだけのことよ」
「・・・」
「それに王子様なら、よその国の王女様との政略結婚も考えておかなければならないでしょう?そんな王子様が女の子を連れ回していたら、変な噂が立って結婚できなくなるわよ」
「変な噂が立ってほかの女と結婚できなくなれば、人魚姫と結ばれるのに。・・・はっ、もしかして!」と英子さんが突然叫んだ。
「今度は何を思いついたの?」
「これは昔の話だから、当時は女性には自由がなかったんでしょ!?王子様に恋いこがれて家出したほどの人魚姫だもの、男の服を着るってことは女性であることから生じるいろいろなしがらみから逃れて、自由に自立するって意味が込められているじゃないかしら?(註一)アンデルセンは人魚姫の物語を書きながら、女性解放、つまりウーマン・リブを訴えていたのよ!」
ウーマン・リブとは、確かフェミニズム運動の昔の呼び名だったな。
「でも、アンデルセンは十九世紀の人でしょ?そこまで先進的な考えを持っていたのかしら?」と俺は疑ったが、英子さんは自分の発見に酔いしれていた。
とは言ったものの、英文科だったらそういう内容の小論文を書けるかもしれない。そんな機会があれば英子さんのアイデアを借りようかな?・・・いやいや、それはだめだろう。俺は頭を振ってその考えを払いのけた。
その日の和訳が終わると、俺は英子さんに中間試験の予定を聞いた。試験が近づいたら、試験対策を教える必要があるからだ。
おおよその日程を確認し、一学期の試験問題を見せてもらう。教科書に載っている英文や英単語の訳が主で、それらに関連した和文英訳問題もあったので、対策は立てやすいだろう。
いつものように英単語の模擬試験をしてもらっている間に教科書の試験範囲を読み、メモを取っておいた。これで出そうな問題を作れるだろう。
家庭教師が終わると下宿に戻り、翌日のお昼前に家に帰った。昼食を食べてまったりと過ごしていると、坂田さんがやって来た。
「こんにちは。藤野さん、いますか?」と玄関から声をかける坂田さん。
「あら、いらっしゃい。英研の合宿以来ね」と俺は坂田さんを家に招き入れた。
「聞いたわよ、市松人形が見つかった話」と俺の部屋に入るや否や話し出す坂田さん。
「柴崎さんに聞いたの?」
「ええ。昨日、徳方大学の幼児教育研究部の集まりがあって、参加させてもらったの。そこで柴崎さんに一部始終を聞いたのよ」
「そうなの?それでわざわざうちに来たの?」
「それだけじゃないのよ。その話をほかの部員も聞きたがってね、いきさつを柴崎さんが説明したの。ついでに合宿での幽霊電車の話もしたわけなの。そしたらある人が妖怪ハンターである藤野さんに相談したいと言ってきて・・・」
「私、相談依頼を募っているわけじゃないんだけど・・・」
「私も藤野さんに迷惑をかけるって言ったんだけど」・・・ほんとかな?
「相談内容が例によって妖怪じみた話だから、幼児教育研究部の部員全体で藤野さんに話を聞いてもらおうって盛り上がっちゃってね、私と柴崎さんに頼むよう言われちゃったの。・・・柴崎さんは今日用事があるということで、私だけ来たんだけど」頭をかいて微笑む坂田さん。あまり申し訳なさそうな顔には見えなかった。
「しょうがないわね。とりあえず話を聞くだけよ。解決できる保証はないから」と俺が言うと、坂田さんが手を合わせて感謝した。
「坂田さんが話してくれるの?それともどこかで誰かに会うの?」
「私が話すと不正確に伝わるかもしれないから、明日にでも徳方大学の幼児教育研究部の部室まで来てほしいの」
徳方大学か。秋花女子短大前の駅から電車に乗って行けば、そんなに遠くなかったな。
「明日なら特に予定はないけど」と俺が言うと、
「ありがとう、藤野さん。電車賃は幼研、つまり幼児教育研究部から出してくれるらしいから。・・・明日はとりあえず立て替えといてね」
「わかった。じゃあ明日ね」
話が終わると坂田さんは柴崎さんに報告するために帰って行った。
翌朝、最寄りの駅前に行くと、坂田さんと柴崎さんが既に待っていた。一緒に切符を買い、都会方面行の電車に乗る。
電車の中では市松人形が見つかるきっかけとなった強盗事件の話を、改めて俺が坂田さんに説明した。
「いずれ犯人も捕まりそうね。事件がだいたい解決して良かったわ」と感想を述べる坂田さん。
そして今度は俺が二人から幼児教育研究部についていろいろ教えてもらった。
「英研の合宿が終わってから幼研の活動に参加したの。幼稚園を訪問して、演し物を見せたり、一緒にお遊戯をしたりしたの。その反省会をおととい開いたときに今度の相談事が話題に上ったのよ」
「藤野さんの都合を聞く前に決めて悪かったけど、今日臨時の会合を開くってことになったの。話題を振った身として、藤野さんが来てくれて本当に助かったわ」と柴崎さんも言った。
「家庭教師がある日以外は基本暇だからいいけどね」
電車がターミナル駅に着くと、そこで別の電車に乗り換える。秋花女子短大前を通る路線だが、反対方向の電車に乗り、まもなく徳方大学前の駅に着いた。
ここに来るのは三回目だ。一回目は柴崎さんの受験の下見に、二回目は柴崎さんの合格発表を見に来た。そろそろ夏休みも終わるので、大学前の通りには既に大勢の学生がたむろしていた。
柴崎さんにつれられて大学内に入り、サークル棟らしい建物の玄関をくぐる。廊下にはいくつも部屋が並んでおり、ドアにはそれぞれのサークル名が書かれた紙が貼ってある。
柴崎さんは迷うことなく「幼児教育研究部」のドアを開け、声をかけずに中に入って行った。俺たちも後に続く。
中はけっこう広めの部屋で、中央にテーブルと椅子、窓際の流しの横に電気コンロとやかんがあり、冷蔵庫もあった。部屋の片隅には、幼稚園訪問時に幼児に披露するための、紙に描いた絵などが置かれていた。劇の背景や衣装に使うのだろう。
室内には既に十人余りの女子学生がいて、一斉に俺たちの方を向いた。
「いらっしゃい、柴崎さんに坂田さん。そしてその方が例の藤野さんね?」とひとりの女子学生が聞いた。
「そうです、部長。この人こそ人の願いを叶え、未来を予言するとともに、妖怪ハンターとしてこの世に巣食う妖怪の正体を白日の下にさらけ出す降魔の神の巫女、藤野美知子さんです」と、柴崎さんが女子高にいた頃のように大げさに俺を紹介した。
どよめきながら俺の周りに集まる部員たち。
「ようこそ、藤野さん。徳方大学幼児教育研究部はあなたを歓迎するわ。私は部長の金田よ。よろしくね」と最初に声をかけてきた女子学生があいさつした。
「秋花女子短大一年の藤野美知子です。よろしくお願いします」
「部員たちの自己紹介はおいおいするとして、とりあえず歓迎会よ。飲み物とおつまみを並べましょう。・・・藤野さんはここに座ってらして」
俺を無理矢理テーブルに着かせると、幼児教育研究部の部員たちはてきぱきと準備を始めた。すぐにテーブルの上に瓶ビールや瓶ジュースとコップが並び、部員たちが持ち寄って来たスナック菓子やおにぎりが皿の上に盛られた。
ビールの栓を抜くシュポシュポっという音が室内に響き、俺の前に置かれたコップにもビールがなみなみと注がれた。遠慮する隙がなかった。
準備が終わると部員たちも椅子に座り、「それでは臨時の部会を開きま〜す。乾杯!」と金田部長が言って全員がコップを傾けた。
「あの、昼間から宴会ですか?」とあわてて聞く。
「まだ夏休みだから特別よ」と金田部長。
お酒で口が緩んできたのか、部員たちが次々と質問を浴びせてきた。
「藤野さんは今までほかにどんな妖怪事件を解決してきたの?」「似顔絵占いができるってほんと?私も占ってほしい」
「柴崎さんたちに聞いて」「今日はスケッチブックを持って来ていないので・・・」とかわすのが大変だった。
「幼児教育には興味ありますか?」と男性の声が聞こえて驚いた。
よく見ると、女子学生ばかりの部員の中に一人だけ男性がいて、俺に声をかけてきたのだった。
「幼児教育というのはよくわかりませんが、友だちに幼い妹がいて、よく一緒に遊んだので、小さい子の相手をするのは好きですよ。・・・あなたもここの部員ですか」
「これは失礼。僕は晨立大学に通っている田川と言います」と自己紹介する田川さん。
「坂田さんと同じく学外の部員よ」と金田部長。
「田川君の実家は幼稚園を経営されているの」
「そして今回、藤野さんに相談があるのが田川さんなのよ」と柴崎さんが横から口を出した。
「そうなんですか?・・・相談内容というのはその幼稚園に関わることですか?それとも個人的なお悩みですか?
「彼の幼稚園に来る保護者のことなのよ」と別の女子学生が口を出した。
「彼女は山元さん。徳方大学の学生で、田川君の幼馴染なんだって。田川君はその伝手で幼研に参加してくれたのよ」と柴崎さんが囁いて教えてくれた。
女子の中にたったひとりの男子か。緊張しないのかな?実家が幼稚園なら、幼稚園の先生が女性にばかりだから、慣れているのかな?と思いを巡らせた。
四十五話登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科一年生。
藤野 武 美知子の弟。市立中学二年生。
眞鍋英子 若草女子高校二年生。美知子の家庭教師先の教え子。
山際喜子 明応大学教育学部一年生。美知子の元クラスメイト。
坂田美奈子 秋花女子短大家政学科一年生。徳方大学幼児教育研究部学外部員。美知子の元クラスメイト。
柴崎由美 徳方大学一年生。幼児教育研究部部員。美知子の元クラスメイト。
金田憲子 徳方大学三年生。幼児教育研究部部長。
田川隆之 晨立大学二年生。幼児教育研究部学外部員。
山元佳子 徳方大学一年生。幼児教育研究部部員。
書誌情報
Hans Christian Andersen/The Little Mermaid(Host & Sons、1960年初版)
註一 脇明子/少女たちの19世紀 人魚姫からアリスまで(岩波書店、2013年12月19日初版)参照。




