三十四話 家庭教師二回目
翌二十四日の日曜日の朝になった。俺は家庭教師に使う本や試験問題とともに一週間分の着替えを詰め込んだ。
「今日は家庭教師をしに行くけど、明日から英語研究会の合宿に行くから、帰って来るのは土曜日になるわ」と両親に言う。
「あなたのことだから大丈夫と思うけど、いろいろ気をつけてね」と母に言われる。
「それより、武はいつ戻って来るのかしら?」
俺が田舎から戻って来るときには、武は週末頃に帰ると言っていた。昨日は帰って来なかったから、「今日明日じゃない?」と言った。
そのとき玄関戸が開いて元気のいい声が響いてきた。
「おはようございます。お姉様、いますか?」明日香の声だった。
「あらいらっしゃい、明日香ちゃん、マキちゃん」と俺は二人の訪問者を招き入れた。明日香と真紀子は二人とも風呂敷包みを持っていた。
「お邪魔します、お父様、お母様」と俺の両親にあいさつする明日香たち。
「いらっしゃい、お久しぶりね」と母が答えて、お茶を淹れに立った。父もモゴモゴとあいさつしていた。
「昨日戻って来たの?」
「ええ。お姉様が月曜日から合宿だって聞いていたから、今日中に会っておこうと思って」
「何か用なの?」
「お母様にまたスカートを縫うのを見てもらおうと思って」風呂敷包みの中はスカート用の布地だった。
「そう。早く来てくれて良かったわ。お昼過ぎから家庭教師に行く予定が入ったの」
「え?みっちゃんは今日から出かけるの?」と真紀子が聞き返す。
「そうなっちゃったの。でも、お母さんには頼んであげるわ」
お茶碗を運んできた母に、「二人がお母さんにまた家庭科の宿題を見てほしいって。お願いできる?」と頼んだ。
「去年は浴衣だったわね?今年は何かしら?」と母が聞いたので、明日香たちが説明している間におととし縫ったフレアスカートを押し入れから出してきた。
「私が縫ったのはこんなのよ」と三人に見せる。
しばらく縫い目などを見た後で、「これならできそう」と明日香が安心したように言った。安心できるような出来だったのか?
「それから昼食は持参してきたので、おじさん、おばさんも食べてください」と真紀子が言った。もうひとつの風呂敷包みにはお重が入っているらしい。
「朝、二人で作ったのよ。ふりかけをまぶしたおにぎりと買ってきた佃煮や塩ジャケだけどね」
「まあ、ありがとう、二人とも」
「娘が作ってくれたみたいで嬉しいな」と父が娘(俺)の前で言った。食事を作ってほしいのかな?
「ところで武を知らない?美知子の弟だけど」と母が二人に聞いた。
「武くんならもう二、三日向こうにいるみたい」と真紀子。
「照子ちゃんが離してくれないのよ」と言って笑う明日香。
「照子ちゃん?美知子が言っていた子?」と聞き返す母。
「そうよ。小学一、二年生くらいの女の子で、武が遊んであげたら懐かれちゃって」
「よっぽど好かれたのね」と感心する母。
明日香と真紀子はさっそく母に裁縫を習い始めた。俺は昼過ぎまですることがなかったので、教材の『The Little Mermaid』を開いて眺めていた。
和訳は一段落目しかできていない。複文を多用した文章で、英子さんは手こずるだろう。俺も、だけど。
「何を読んでいるの、お姉様?」と明日香が気づいて聞いてきた。
「明日の家庭教師で使う英語版の小説よ」そう言って明日香に本を渡した。
明日香は本をぱらぱらとめくってから、「これを読むの?すごいわね、その子」と感心したように言った。
「ううん、そうじゃなくて、その子は英語に苦手意識を持っているの。だから英文に慣れさせるために、その子が興味あるお話の英文を読んでもらおうと思っているのよ」
「・・・やっぱりお姉様に家庭教師をしてもらおうかしら?私ももっと英語の成績が良くなりそう」と明日香。
「そうね。大変そうだけど、その分身につきそう」と真紀子も言った。
「自分が好きな短いお話の、英語版の本を探してみたらいいわ。図書館にもあるかもね。その前に家庭科の宿題を進めなさいな」とだけ言っておく。
お昼になると明日香たちが持って来た弁当を広げてくれた。俺と両親にも分けてくれ、俺たちはお礼を言って二人に冷たい麦茶を出した。
昼食を食べ終わると、俺は「私はそろそろ行かなくちゃならないから、後はよろしくね」と母に頼んだ。
明日香と真紀子には、「一週間ほどで帰ってくるから、スカートのできばえを見せてね」と言い残した。
明日香たちに見送られて家を出る。最近は明日香も前ほどべたべたしなくなったな、真紀子がいるからかな?と考えながら駅に向かって歩いた。
短大に進学して明日香たちとは会う機会が減った。それで俺に対する気持ちが落ち着いたのかもしれない。
一緒に暮らしている祥子さんも落ち着いてきたが、これは逆に同居して、俺と始終接しているから、俺にそれほど魅力を感じなくなったのかもしれない。
あるいは、女子高を卒業してから俺自身に何らかの変化があったからだろうか?自覚はないが。
そんなことを考えながら電車に乗り、下宿に到着すると合宿用の荷物を置いて、家庭教師先に出向いた。二回目の訪問だから道に迷うことなく、すぐに眞鍋家の玄関にたどり着いた。
ドアホンを押してしばらく待っていると、英子さんがすぐにドアを開けてくれた。
「いらっしゃい、先生」
先生と呼ばれるとこそばゆく感じる。「これで先生なの?」と愛想を尽かされないよう頑張らなくては、と逆に気が引き締まる。
「こんにちは、英子さん。今日も頑張りましょうね」と言って家に上げてもらうと、顔を出してきた英子さんの母親に軽くあいさつして、さっそく英子さんの部屋に入った。
「あまり詰め込み過ぎることなく、英語に親しみを感じられるようになりましょう」
俺はそう言って、まず動詞の活用を書かせる模擬試験問題を出した。詰め込み教育をする気はないが、最低限の英単語の知識は必要だ。
俺は英子さんが試験問題を解いている間、英子さんの本棚を見た。
先日も気がついていたが、文庫本の『人魚の姫』がある。これから英文で読んでもらう予定だけど、この翻訳本があると、カンニングの誘惑を断ち切れないだろう。英子さんを信用しないわけじゃないけど、この文庫本をどこかに隠してもらわなければ。
そんなことを考えているうちに時間が来て、英子さんが試験の解答を提出してきた。その場ですぐに採点する。間違いがいくつかあるけど、解答の八割強が正解だった。
「間違った動詞だけ活用を確認し直して」と採点結果を英子さんに返す。
そのとき、英子さんの母親がお茶菓子を持って入って来た。
「先生、少し休憩なさりませんか?」
母親の言葉に顔を輝かせる英子さん。
「そうですね。そうさせていただきます」と俺も同意した。
英子さんが試験問題を机の横に片づけると、母親が空いたスペースに紅茶とビスケットを置いた。さっそく紅茶に砂糖を入れる英子さん。
「お母さん、ひとつお願いがあるのですが、よろしいですか?」と俺は母親に話しかけた。
「お願い?何かしら?」聞き返す母親。英子さんもスプーンで砂糖を混ぜる手を止めて俺の方を見た。
「英子さんの本棚にあるこの『人魚の姫』の文庫本をしばらく英子さんから隠しておいてほしいんです」
俺はそう言って鞄から英語で書かれた『The Little Mermaid』の本を出して見せた。
「英子さんに英語に慣れてもらうため、『人魚の姫』を英文で読んでもらおうと思いまして。翻訳本が置いてあると、そちらが気になるでしょうから」
「わかりましたわ」と言って本棚から文庫本を抜き取る母親。
「英語の勉強を真剣に考えてくださって嬉しいわ」
一方の英子さんはしまったという顔をしていた。
「先生がこの前そういうお話をしていたから、子ども向けの『にんぎょ姫』は読み返していたの。でも、和訳するんなら完訳版の文庫本の方を読んでおけば良かったわ!」
『The Little Mermaid』を嘆く英子さんに渡すと、ぱらぱらと中をめくってみて絶望的な顔になった。
「アルファベットばっかり!どこを開いても目がくらくらするわ!」
「それに慣れるための勉強よ。ゆっくり読んでもらうから、心配する必要はないわよ。その前にお茶をお飲みなさい」と俺は言った。
紅茶をすすり、ビスケットをバリバリと食べる英子さん。半分やけになっているようだ。
英子さんの母親はその様子を見て、「よろしくね、先生」と言い、文庫本を持って部屋を出て行った。
十五分くらいかけてお茶を飲んだ英子さん。「それでどこまでこの本を読むの?」
「まず、一段落目を声を出して読みましょう。わからない単語があったら読み終えた後で辞書で調べてね。訳す余裕があれば訳してもらうけど」
残り時間が少なくなってきたので、俺は英子さんに音読するよう促した。英子さんは仕方なく本を開くと、たどたどしく読み始めた。
「ファーアウトインザオセアン、ホエアザウオーターイズ・・・」
所々単語の発音がおかしいが、最初は指摘せず、段落の終わりまで読んでもらった。そして改めて一文ずつ読んでもらう。
「これ、ひとつの文がやたら長いんですけど・・・」と俺に困ったような顔を見せる英子さん。
「こういう複文の構造を把握できるようになれば、英文読解問題に強くなれるわよ」
「文の途中にセミコロンやコロンがあるけど、これは何ですか?」
「コロンやセミコロンはピリオドよりも弱い文の切れ目を示す記号よ。コンマとピリオドは日本語の読点と句点に該当するけど、コロンはその前の文を言い換えるようなときに使う区切り、セミコロンは前後の文を『そして』と繋げるような区切りね。訳す時はとりあえずセミコロンとコロンのところに斜線を引いて、無理に文章を繋げずに別々に順に訳してみるといいわ」
「英文に書かれている順番に訳していいってこと?」
「そう。日本語として多少不自然な表現になっても、とりあえず訳して意味を理解しようってことね。・・・もう一度最初から読んでみましょうか。最初の言葉の発音は『ファー・アウト・イン・ジ・オーシャン』よ」
「オーシャンね。オセアニアって言葉があるから間違えちゃった」
「語源は同じだけどね」
「それから母音で始まる単語の前のtheは、ザじゃなくてジと読むんだったわね。忘れていたわ」
俺の時代ではネイティブスピーカーでもザとジの区別がいい加減だという話を聞いたことがある。しかし受験英語ではきちんと区別しておかなくてはならない。
「ジについて質問があるんだけど」と英子さんが俺に言った。
「なあに?」
「『タイム』というアメリカの有名な雑誌があって、その年に最も影響を与えた人物の肖像を表紙に載せるんだけど、その人のことをパーソン・オブ・ザ・イヤーって呼ぶんだって聞いたことがあるわ。『パーソン・オブ・ジ・イヤー』じゃないの?」
俺の時代には『カー・オブ・ザ・イヤー』とか『クソゲー・オブ・ザ・イヤー』という言葉もあった。
「イヤーの『イ』は母音じゃなくて子音なの。はっきりした『イ』じゃなくて口の中でこもるような『ユィ』に近いのかな?・・・とにかく子音だから、その前につくtheはザと読むのよ」
「へー、そうなんだ。間違いじゃないのね」と感心する英子さん。
「さあ、もう一度読んでみましょう」
「はい。・・・ファー・アウト・イン・ジ・オーシャン、ホェア・ザ・ウォーター・イズ・アズ・ブルー・アズ・ザ・プリティスト・コーンフラワー・・・。この『ホェア』ってどこ?って意味じゃないわね?疑問文じゃないから」
「その『ホェア』は、前の言葉に続けて『その場所では』って意味の関係副詞よ」
「コーンフラワーって何?とうもろこしの花?」
「それは辞書で調べてごらんなさい・・・」
という感じで、最初の一文の最初の一部分を、「海のはるか遠く、そこでは水は最も可憐なヤグルマギクのように青く・・・」と、一時間かけて訳したのだった。
三十四話登場人物
藤野美知子(俺、お姉様、みっちゃん) 主人公。秋花女子短大英文学科一年生。
藤野 武 美知子の弟。市立中学二年生。
水上明日香 松葉女子高校二年生。美知子を慕う後輩。
内田真紀子(マキ) 松葉女子高校二年生。美知子を慕う後輩。
中田照子 小学校低学年の女の子。
黒田祥子 美知子の先輩。秋花女子大学二年生。
眞鍋英子 若草女子高校二年生。美知子の家庭教師先の教え子。
書誌情報
アンデルセン/人魚の姫 アンデルセン童話集Ⅰ(新潮文庫、1967年12月10日初版)
Hans Christian Andersen/The Little Mermaid (Host & Sons、1960年初版)
アンデルセン/にんぎょ姫 たのしい名作童話・50(ポプラ社、1957年10月初版)




