三十二話 初めての家庭教師
急な階段を上った二階には二部屋あって、一方が英子さんの部屋ということだった。
招き入れられたその部屋は四畳半ほどで、向かいの壁に通りに面した窓があり、白いレースのカーテンがかかっていた。玄関前で見上げた窓だろう。
その横に勉強机があり、椅子が二脚置いてあった。一脚は俺用に用意されたものだと思う。机の横には本棚があり、机の前の壁には写真やら刺繍やら、女の子らしいものがたくさん飾ってあった。
右手には押し入れがある。ベッドがないので、夜は押し入れから布団を出すのだろう。
英子さんは勉強机の椅子を引き出すと、俺に一脚を勧めた。一緒に椅子に腰かけると、俺は鞄の中から高校一年生用の模擬試験を取り出した。
「さっき通信簿を見せていただいたけど、実際にどの程度英語を理解しているのか知りたいから、この試験を受けてみてね」
「いきなり試験ですか?」と聞き返す英子さん。
「まあね。この問題を教科書や辞書を見ずに一時間で解いてくれる?早く書き終わったら、その時点でやめてもいいわよ」
「わかりました」英子さんは俺から試験問題を受け取ると、筆記用具を机の上に並べた。
「じゃあ、始めてね」
試験問題を読み始める英子さん。俺は見ているような見ていないような体を装って、ぼんやり眺めていた。
一問目は動詞の過去形と過去分詞を書かせる問題だ。drinkやeatなどの過去形と過去分詞が異なる不規則動詞を数問並べておいた。cutのような、原形と過去形と過去分詞がまったく同じ不規則動詞や、規則動詞も混ぜてある。
二問目と三問目は複文の英文和訳と和文英訳問題だ。高校一年生用としているが、実際は中学英語のレベルだ。
うんうんとうなりながら解いていく英子さん。そんなに難しい問題ではないはずだが、と思いながら何気なく机の横の本棚を眺めた。
何冊もの本や教科書が並べられているが、その中でもいわさきちひろの『にんぎょひめ』の絵本が目についた。その隣には児童書の『にんぎょ姫』と文庫本の『人魚の姫』が並べてあった。人魚姫の話が好きなのだろうか?
俺の時代だとディズニー映画の『リトル・マーメイド』の印象が強いが、人魚姫はアンデルセンの代表作のひとつで、昔から有名だった。確かコペンハーゲンに人魚姫の像があったな。もちろん俺は現地に行ったことはない。
「で、できました」と小一時間経った頃に英子さんが俺に言った。
「見せて」と言って英子さんから試験問題を受け取ると、すぐに採点を始めた。
動詞の活用は、drinkの過去形と過去分詞が逆になっていたり、setの過去形と過去分詞がsettedになっていたが、七割ほどは正解だった。全部できていて当たり前なんだけど。
複文の英文和訳は、途中で主語がおかしくなっていた。和文英訳は、複文にすべきところを二つの文に分けている。意味は通じなくもないけど、求めている答ではない。
「う〜ん、五十点ってところね」と俺が言うと、英子さんはがっくりとうなだれた。
「第一問の動詞の活用は覚えるしかないわね。間違ったところを五回書いてごらん?」と俺が言うと、英子さんは素直にノートに書き始めたが、
「drinkの過去形がdrankなのかdrunkなのか、いつも混乱するの」とつぶやいた。
「そこをいつも迷うのなら、イメージで覚えるしかないかもね」と言うと、英子さんは俺の方を見た。
「イメージで覚えるって?」
「例えば、飲酒して酔っぱらった状態を思い起こすの。まず、ドリンク!」俺はそう言ってお酒を飲む真似をした。
「で、酔っぱらって、ドリャ〜ンク!」上半身をふらふらさせる。
「そして酔いつぶれて、ドランク!」がくっとうなだれる真似をする。
俺の演技を見てキャハハと笑う英子さん。「先生、おもしろ〜い!」
「そ、そう?」受けたら受けたで恥ずかしい。「singやswimも同じように原形のiが過去形でa、過去分詞でuになるから、あわせて覚えておいた方がいいわ」
「歌に熱中してはめをはずしてダウン、泳ぎ過ぎて溺れてダウンと覚えておくわ」と英子さんが笑いながら言った。・・・こんな覚えさせ方でいいのかな?
「それからsetのような短母音で語尾にtかdが付く短い動詞は過去形と過去分詞が原形と同じことが多いからね。hit、put、cutなどがそうよ」
「readは短母音でないのに過去形と過去分詞が原形と同じですよね?」
「あれは過去形と過去分詞の綴りが同じでもレッドと読み替えているから、ちょっと違うのよ」その理由は知らない。
「せめてredと書けば読みの違いがわかるのに」と文句を言う英子さん。
「赤のレッドと区別付かなくなるからじゃない?」と言っておく。
続いて英語の複文は、鉛筆で主節と従属節の間に斜線を引いてから意味を考えるように教えた。
「複文が読めるようになれば、書くのも簡単よ」と言うが、英子さんが納得したかどうかはわからない。
「あ〜、疲れた」と英子さんが言ったので、少し休憩することにした。
「もうアルファベットを見たくない気分」
「でも、英語の学習は何度も繰り返すしかないのよ。習うより慣れろってね」
「なんで国によって言葉が違うのかしら?世界中で同じ言葉を使えばいいのに」
その意見には賛成する。どこかに同じ言葉を使っていた世界があったような気がするが、気のせいだろう。
「それはね、大昔の人々がバベルの塔という高い塔を作って神様の怒りを買ったためよ」と旧約聖書の話を語った。
「余計なことをしてくれたわね」と頬を膨らませる英子さん。
「でも、日本人も東京タワーを建てたけど、神様の罰は当たらないのかしら?」
「東京タワーは電波塔だからね。神様と対等になろうと思って建てたバベルの塔とは目的が違うから、神様も目くじらを立てなかったんじゃないかしら」
「先生もおもしろいことを言うわね」
「そ、そう?」
「短大っておもしろい?」
「おもしろいって、勉強するところだけどね。新しい友達ができるし、高校生よりも行動範囲が広がるから、それなりに楽しいわね」
「先生は彼氏がいるの?」と話が変な方向に流れて行った。
「い、いないわよ。・・・それより英子さんは人魚姫に興味があるの?」
俺の言葉に英子さんは本棚を横目で見た。
「興味があるってほどじゃないけど、王子様への恋が実らない、それでいて王子様に危害を加えることができない人魚姫には感動したわ。・・・それだけなの」と、興味がなさそうなふりをする英子さん。
「それなら今度、人魚姫のお話を英語で読んでみようか?」
「えっ!?」
「どうせなら少しでも興味がある英文を読んだ方がやる気が出るでしょ?さっきも言ったように習うより慣れろだし、童話だからあまり難しくないはずよ」
俺の言葉を聞いて英子さんはまじまじと俺の顔を見つめた。
「先生は前向きね」
「え?」
「とても積極的で、いろいろなやり方を考えてくださるってこと。・・・私の友だちにも家庭教師に教えてもらっている子がいるんだけど、教科書をだらだらと復習するだけだって言ってた」
「そうなの?・・・私は家庭教師をするのが初めてだから、普通のやり方がわからないけど、お金をもらうからにはできるだけのことはしようと思っているだけよ」
「ふうん」と英子さんが言ったときに部屋のドアがノックされた。
「はい」と英子さんが答えると、ドアが少し開いて母親が顔を出した。
「そろそろ時間だから、夕飯まで下で休憩しない?」
「やったー!」と喜ぶ英子さん。俺は軽く頭を下げた。
英子さんに連れられて階下に下りると、先ほどの応接間に入った。俺と英子さんが腰かけると、すぐに母親が冷たい麦茶を入れたガラスコップを出してくれた。
「お疲れさま」
「疲れた〜!」と、母親の言葉に対応して英子さんがほんとうに疲れたように言った。
「勉強してただけでしょ。何が疲れるのよ?」
「頭を使い過ぎて疲れたのよ。いきなり試験をするんだもの」これは嫌われたかな?と危惧する。
「たった二時間じゃないの。普段頭を使ってない証拠でしょ」と母親に言われていた。
「二時間だから何とか乗り切れたわ。この調子で毎週勉強すれば、英語の成績が良くなるのかなあ?」
週二時間では成績が良くなることまでは保証できない。そう思っていたら母親が、
「じゃあ、週二日、二時間ずつ来てもらおうかしら」と言ったので、
「当面は週一回にして〜!」と英子さんが言った。今後も俺の家庭教師を受入れてくれそうだ。
「しばらくは英語に慣れて苦手意識を克服してもらおうと思っているから、二時間だけ頑張ってね」と言った。
「ところで、来週の水曜日は短大の英語研究会の行事があるので、一週飛ばすか、日曜日にしていただけないでしょうか?」
「じゃあ、一週飛ばしで・・・」と英子さんが言いかけたら、
「あまり間を置かずに勉強してもらいわ。鉄は熱いうちに打てと言いますものね。・・・少し早いけど、二十四日の日曜日はいかが?」と母親に聞かれた。
四日後か。同窓会が土曜日だから俺的には問題ない。
「今日と同じ、午後三時開始でよろしいでしょうか?」と聞くと、母親はうなずいた。
「今は夏休みなので、午後三時開始でかまいませんが、九月になったら学校が始まりますから、午後七時頃からということにしましょうか?」と続けて聞いた。
お互い夕飯をすませてからという意味だ。今日はご馳走になるが、毎回夕飯を目当てにするわけにはいかない。
「それでよろしいですわ」とうなずく母親。そのときドアホンが鳴った。
「あら、お寿司が来たようね」と言って母親は玄関に向かった。
すぐにテーブルの上に寿司桶が置かれ、英子さんが小皿や箸を準備してくれた。にぎり寿司のマグロ、イカ、エビ、アナゴ、卵焼きなどが三貫ずつ、カッパ巻きとかんぴょう巻きが三個ずつ入っていた。
「お好きなだけどうぞ」と母親が言ってくれるが、三貫ずつだから一種類につき一貫しか食べられないだろう。
英子さんと母親が動かずに俺を見ているので、俺は取り箸で小皿にお寿司を一貫ずつ取っていった。俺が一通り取り終わると続いて母親が英子さんの分も取り分け始めた。
英子さんの父親は帰りが遅そうだから、夕飯は別に用意されるのだろう。それともどこかで飲んで帰るのかな?
それにしてもこの時代でにぎり寿司を食べる機会はそうそうない。この時代にはまだ回転寿司はない。持ち帰り寿司のチェーン店はもうあるのだろうか?少なくともうちでは利用したことがない。だからにぎり寿司は高級食品で、今までは、明日香の家でご馳走になったことがあるくらいだ。
「それではいただきます」と断って、醤油をつけて食べ始める。やっぱりおいしい。特に暑い夏には食べやすくていい。
「おいしいですね」と言いながら食べていたら、英子さんと母親がにこにこしながら俺を見ていた。
「ほんとうにおいしそうにお食べになるのね、藤野さんは」と母親に言われる。
「ほんとうにおいしいですから」
「そう言ってもらえるとごちそうする甲斐があるわ」と母親は満足そうに言った。
食事中に俺が生徒会長をしていた頃の話を聞かれた。どのようにして選ばれたのか、どんな仕事があったかを説明する。
「ひとりで仕事をするわけじゃなく、先生や生徒会のみんなに手伝ってもらったから、そんなに大変ではありませんでした。ただ、卒業式で読む答辞の原稿を書くのに苦労しました」
「卒業生の答辞か。みんなの前で読み上げるのね。私なら緊張して一言も話せそうにないわ」と英子さんが言った。
食事を終え、お礼を言って眞鍋家を出る。帰り際に「今日のお手当」と言って封筒を渡された。
「ありがとうございます」と言って封筒を受け取る。後で確認したら千円札が一枚入っていた。二時間の家庭教師だから時給五百円か。この時代ではかなり高い。大卒初任給が三万四千円くらいの時代だ。千円なら日給に近い。ちなみに下宿からの電車代は往復で六十円だ。・・・さすがに実家からの交通費は請求できない。
その日の夜は下宿に泊まり、翌朝、古書店街に寄ってから自宅に帰った。
古書店街では洋書の専門店に入り、『The Little Mermaid』という本を見つけたので買って帰った。百円だった。次回、日曜日の家庭教師までに読み込んでおこう。
三十二話登場人物
藤野美知子(俺) 主人公。秋花女子短大英文学科一年生。
眞鍋英子 若草女子高校二年生。美知子の家庭教師先の教え子。
書誌情報
アンデルセン/にんぎょひめ(いわさきちひろの絵本)(偕成社、1967年12月1日初版)
アンデルセン/にんぎょ姫 たのしい名作童話・50(ポプラ社、1957年10月初版)
アンデルセン/人魚の姫 アンデルセン童話集Ⅰ(新潮文庫、1967年12月10日初版)
Hans Christian Andersen/The Little Mermaid (Host & Sons、1960年初版)
映画情報
すずきまゆみ主演(声)/リトル・マーメイド(1991年7月21日日本公開)




