ナミアゲハ
今週から久々のリモートワークで楽ができると思っていたら、リモートを続けている妻が三日目の昼前にキレた。
一緒に家にいると私だけ家事の負担が増えてストレスがたまり仕事にならない、午後は長い会議があるから同じ時間にリビングにいないでほしい、あなたは部屋に籠るなり外で仕事するなりしてよ、私の前に姿を見せないで、
妻の言い分もまったくわからないわけではないけれど。そこまで言わなくてもいいだろう、そう言い返したところで、二人で過ごす空間はさらに不快になって、めぐりめぐって修復のための時間と労力が無駄に増える。世の中には妻に暴力を振るう夫がいる。僕は妻に手をあげたことはないし、手をあげたいとも思わない。暴力で妻を服従させられると思っていないというのもあるけれど、結局は妻に対してそこまで期待をしていない。どうにかして自分の言う通りにしてほしいとう切実な思いはない。ただ二人の間には波風を立てるのが面倒なだけ。我慢して平静が保てるのなら、自分が折れればいい。
モヤモヤした気分を紛らわすために昼間から走ることに思いついた。フレックス勤務で中抜けは問題ないし、妻への文句を内に溜めこんだままでは仕事に集中できない。この気分では昼食に何を食べても味がしないが。走った後ならば、きっと何を食べても美味しく感じる。僕は真摯なランナーではないから仕事を第一に考えたけれど、都内から横浜までの30キロを喜んで帰宅ランをするようなフリークなら、リモートワークとなれば、仕事よりもランニングの時間を優先するだろう。このところ急に気温が上がり、サボる口実を探していたけれど、今日は空に厚い雲が覆かかり、最高気温が三十度に満たない。僕はTシャツと短パンに着替え、スマホをウェストポーチに入れて山下公園を目指して走り出した。
気持ちの良い風が、曇った日の不快な湿度を文字通り吹き飛ばしてくれる。走り出すまでは億劫でも、走り終えた後はいつも走ってよかったと感じる。妻のいる部屋に戻る頃には吹っ切れているだろう。もしかしたら、さっきははごめん、と謝れるかもしれない。
一周1300メートルの山下公園を周回してから、ローソンの脇の階段を上る。みなとみらいへ続く橋の上、右手に大さん橋を見ながらゆっくりとランニングを続ける。その大さん橋の正面で僕は足を止めた。キャップの下から覗くポニーテールの髪とサングラス、黒いのはその二か所だけ。それ以外はキャップから、マスクの代わりに顔を覆うネックゲイター、Tシャツ、アームカバー、ウェストポーチ、ランニングスカート、タイツ、シューズまで全身白装束のすらりとした女性が歩いている。美しいフォームで颯爽と走りそうなのに、両腕を90度に曲げて大股でウォーキングをしている。一度は消えてももう一度見ればよみがえる記憶、僕が見下ろしている彼女の姿はまさにそれだ。前にも一度見かけたことがある。その時はすぐ近くをすれ違った。背は妻より高く165くらい、年齢のレンジは下は25で上は広くとって40くらいまではありか…、70%の確率で僕より若くて30%より僕より上ということになる。海と空と大さん橋を眺めるふりをしながら、僕の視線はこちらに近づいてくる彼女を追っていた。彼女が僕のいる橋の下をくぐる。妻とひと悶着あったせいか、白装束が妙に気になる。僕は少しだけ時間を置いて橋の上で向きを変える。彼女はペースを崩すことなく開港広場の方へ進む。僕は階段を見つけて下に降りると、10メートルほどの距離を保ちながら彼女の後ろを歩き始めた。
開港広場を右に曲がり、彼女は海岸通りに入る。信号のある三叉路を渡らず今度は左に曲がり日本大通りに入る。本町通りは両方向ともバスの横を乗用車がビューと追い越していく。車が流れている。信号が車の流れを止めると、彼女は脇目も振らずにまっすぐに進んでいく。そのまま行けば横浜公園に入るが、直前の信号で彼女は左に折れた。最初にあらわれた信号の手前をまた左に曲がる。ここをまっすぐ行けば少し前に通った開港広場。また大さん橋に戻るつもりなのだろう、彼女の姿を視界の中心から外し、通りの両側を交互に眺めながら僕は彼女を追う。
突然彼女の足が止まる。僕も10メートル後ろで足を止めた。いままでに何度か前を取ったはずなのに、ここに高層マンションがあることに初めて気がついた。彼女の5メートルほど向こうに、白いTシャツのベージュのスーツの男が立っている。年齢は30くらいだろう。眼鏡をかけて、身長は彼女と同じくらいのぽっちゃりとした男が彼女を見ている。彼女は彼の五メートルほど手前で歩を止めた。彼の頬がピクピクと震えたように見えた。男は彼女にゆっくりと近づき、突然右手で彼女の頬を張った。パーンというビンタの音が僕の耳まで届く。後ろから見ていたら、彼女の体は衝撃を逃がすように少しだけ右側に揺れ、まるで形状が記憶されているようにすぐに元の場所に戻る。男は僕を睨みつけた。何かを言おうとして口が半開きになっている。距離は十分にある。後ろを向いて走り出せば追いつかれることはないだろう。でも、もう少しこの続きを見たい。
次の瞬間、男は地面に跪き、両手をつくと、嗚咽をあげて泣き出した。ふざけているのかと思ったが、そうじゃない。白装束の女はゆっくりとかがみ、地面に置いた男の右手に自分の左手を重ね、右手で男の頬を撫で始めた。女にビンタを食らわせた直後に泣く男と、その男に優しく接する女…、そういうことか、DV男と依存する女だ…。そう理解した途端に、僕は興味を失った。そんな女だなんて、がっかりだ。僕は彼女のあとを追って歩いたことを後悔し、来た道をそのまま走り出した。
「奈美…」ビンタをした女に自分の頬をなでられて、男は泣きながら声を絞り出した。「だから言ったんだ、一人で外に出るなって…、奈美が一人で外に出ると男がついてくる…」
「ごめんなさい、直人、本当にごめんなさい」奈美は泣いている直人に優しい言葉をかけた。
「心配なんだ、奈美に一人で外に出てほしくないんだ、奈美はわかってない、自分がどれだけ綺麗かわかってない」
「ありがとう、直人、だからこうして顔を隠しているじゃない、あなたが嫌がるから日焼けもしないように体中全部隠してる…」
「ありがとう、奈美、でもひとりはやめてほしい、ジムならマンションにあるじゃないか」
「ごめんね、なぜだかわからないけど外の空気を吸ってみたくなったの」
「もうしないって言ったのに」
「もうしないわ、だから家に戻りましょう」
松田奈美と淀川直人は相模原の高校の同級生だった。そうはいっても、奈美のことは全校生徒が知っていたけれど、直人の存在に気がついていたのは同じクラスの生徒だけ。学校に来てほぼ誰とも会話をせずに家に帰る。それが直人の日常だった。
二人が通った高校は陸上部が強く、女子駅伝チームにいたっては県大会を制して京都の全国大会に出場した。その時のエースが奈美だった。全国大会の成績は芳しくなかったものの、奈美の走りは実業団のスカウトの目に留まり、誘われるままにその道に進んだ。女子としては背が高く、スラーとした体形で美人の奈美は。制服姿でも人目をひいたが、ユニフォームで躍動する姿は輝いていた。直人は奈美に憧れていたたくさんの男子生徒の一人だった。言葉なんて交わしたこともない。いつも遠くから眺めるだけ。でも姿を眺めるだけで胸の奥が苦しくなる。奈美の姿を見たい一心で、友達なんて一人もいなくても学校に通うことができた。奈美が実業団に入ると知った時、成功しないでほしいと直人は願った。もし「美人過ぎるマラソン選手」として有名になってしまったら、奈美は永遠に手の届かない存在になってしまう。そんなことは絶対にダメだ。いつかは奈美を自分だけのものにしたい。その思いを胸に直人は受験を乗り切り都内の大学の経済学部に進学をした。
奈美のほかにもう一人。同じ高校の陸上部から同じ実業団に進んだのは女子がいた。そのもう一人は奈美のように美人ではなく、高校時代の記録も奈美に及ばなかったが、実業団に入ってから記録が爆発的に伸びた。初めてチャレンジしたマラソンでメダルを獲得し、オリンピック候補として世の中の注目を浴びた。
奈美は実業団に入ってすぐに、ここは自分がいてはいけない場所だ、と痛感した。周囲のレベルが高すぎて練習についていけない。それでも高校の同級生が必死に食らいつく姿を見て、彼女ができるなら自分だってと信じて歯を食いしばった。でも、一度彼女に抜かれると、もう二度と彼女を抜き返すことはできなかった。毎年入ってくる後輩にも次々と抜かれて、気がつけばかつての同級生が雲の上の存在になっていた。奈美は26歳で引退を決めた。なんの実績も残せなかった。クビになる前に辞めたことがせめてものプライドのつもりだったけれど、冷静さも客観性もない敗者のプライドはあまりにも小さすぎて自己満足にもつながらなかった。良い思い出が何一つない場所に一般社員として残る姿を想像することを拒否した奈美は、今後の身の振り方も決められず、ただその場から逃げだして、高卒の無職の女となった。人生初めての挫折は人生最後の挫折かもしれない、奈美は思った。もしかしたら自分の人生はこのまま終わる。奈美は慰みに楽しかったことを振り返ろうとした。高校時代の栄光はもはや悲しい記憶でしかない。やっとのことで絞り出せたのは高校の頃少しだけ周囲に隠れてつきあった藤沢明のことだった。彼は今何をしているのだろう。もう私のことなんて覚えていないかな。そう思うと悲しかった。こんな自分は死んだ方がいいと思いながら、悲しくて悲しくて泣くしかなかった。
大学の経済学部に進学した直人は高校時代に独学で身に着けたプログラミングのスキルでたちまち周囲から一目おかれた。誘われて起業のサークルに入ってから、世の中が楽しい場所であることを初めて知った。高校まで女子と言葉を交わしたことのない自分が、ここでは女子に囲まれて「すご~い」と歓声を浴びる。世界が180度変わった。それでも直人の頭の中には奈美しかいなかった。実業団のウェブサイトを毎日チェックしては奈美がそこにいることと、活躍していないことを確認した。
大学三年のときに友人と起業して直人は在学中に経営者となった。26歳でその会社を大手のIT企業に会社を売却し、億単位のお金を手にして会社を離れた。辞める必要はなかったけれど、頭の中には別の仕事のアイデアが溢れ、直人の人生に不安など入り込む余地はなかった。
ある日、実業団のウェブサイトを覗くと奈美の名前が消えていた。
かつての奈美がそうだったように、高校の同級生の間で淀川直人の名前を知らない人間は今はいない。高校時代の直人と言葉を交わした人間はレア中のレアで、「淀川君と高校時代に一度だけ話をしたことがある」と言うだけで自慢になった。直人が同級生のLINEグループに投稿すると、ものすごい数のリアクションがあった。直人は奈美が実家に戻っているとの情報を手に入れた。引きこもってはいないと聞いてやるべきことを決めた。
時間に余裕のあった直人は、相模原に向かい、奈美の実家が見える場所に立った。もし今日現れなければ明日も来るつもりで奈美を待っていた。奈美はその辺に買い物にでも行くような様子でフラっと一人で家から出てきた。直人は奈美の前に立つと、10年間ためていた思いをぶつけた。高校時代からずっと憧れていたこと、奈美に認められたい一心で起業して成功したこと、奈美の力になりたいこと、そして新しいチャレンジをするため奈美に側にいてほしいこと…。横浜で一緒に住んでほしいという突然の申し出に奈美は驚くほどあっさりと首を縦に振った。
直人は奈美の望むことならなんでもするつもりでいた、それだけのお金はすでにあるし、これからも稼ぎ続ける自信もある。でも、奈美と暮らすようになってから生まれたから初めての感情が湧いた。二人で外に出ると、常に他の男の視線を感じる。一緒にコーヒーを飲んで楽しく話をしていても、直人がトイレに立った隙に、他の男が奈美に話しかける。自分の外見を見て釣り合わないとでも思っているのかもしれない。そのたびに直人の感情が揺れた。愛は嫉妬や怒りや無力感や混ざり合うと、異常な独占欲へと変わる。
「奈美、一人で外に出ないで、欲しいものがあればいくらでもお金を使っていい、買い物は僕と一緒に行くか、ネットで注文するか、デパートの外商を家に呼べばいい、僕は奈美が外に出るのが心配なんだ」
「わかった」と答えた奈美は、それでも時々外に出た。マンションには居住者専用のジムがあるが、その空間に閉じ込められるのはストレスでしかない。体を動かすことが日常だった自分には外に出ないで過ごすことはできない。そのことも、それを言っても直人が納得しないことも、両方ともわかっていた。直人は終わりそうになった自分の人生に救いの手を差し伸べ、何不自由ない生活を与えてくれた。奈美は直人に感謝をしていたし、愛していた。
だから決めた。直人には優しい嘘をつこう。
奈美の体は活動を切望したが、脳は走ることを拒否した。
ランニングウェアを揃えて、着替えて外に出たものの、いざ走りだすと辛い記憶だけが甦る。今まで自分はずっと泣きたいほど辛い中を苦しんで走ってきたのに、次々と現れる市民ランナーたちはただ楽しそうに走っている、自分は人生のいちばん楽しい時間を無駄にしてしまった、奈美は後悔に苛まれて足が前に出なくなる。走るのをやめて、下を向いて歩いた。せめて顔くらいは上げないと、惨めな女が歩いていると思われる、奈美は立ち止まって無理に顔をあげた。横浜の街並みが目に入る。相模原と違って海があり、新しい建物と歴史的な建物が混在している。街並みを眺めて歩いたら楽しいかもしれない、奈美は思った。直人にバレた時に言い訳ができるように、帽子とサングラスとネックゲイターで顔を隠し、肌の露出も抑えて街歩きを始めた。そしてすぐに直人にバレた。横浜駅近くにオフィスを借りた直人は、突然なんの連絡もなく昼間に帰宅をした。たまたまその日に奈美は外に出ていた。
奈美は直人が自分の行動を監視したいのだろうと感じたが、それでも週に一度くらいは外に出ることをやめられなかった。何回か続けてバレずに出かけることができたが、再び直人がマンションの前で奈美の帰りを待っていた。今度は突然奈美に手をあげて、そして泣き崩れた。奈美は驚いた。でも直人のことが嫌だとは思わなかった。
奈美は直人の行動の観察を始めた。そして直人がいつ昼間に突然帰宅するかを、奈美は予想できるようになった。前日の朝から直人の態度がおかしい。明日時間を作るために今日中に仕事を片付けてしまおう、そんな気持ちが現れているかのように前日から明らかにソワソワしている。自分の予想の正しさを確かめるため、危険日を狙って外に出て戻ると、直人が奈美を待っていた。奈美を見つけた後の直人の行動は前回と一緒だ。ビンタをされることはわかっていたので、直人の手の動きに合わせて自分の体を横に振り衝撃を逃がした。最初に叩かれた時ほど痛くない。翌日も直人は昼間戻ってきた。二日続けて昼間に帰宅する可能性を奈美は学習した。何度か直人が帰宅する日を避けてウォーキングに出かけたのち、奈美はまたバレる日を狙ってウォーキングに出かけるようになった。とにかく三回に一度といった規則性とか、決まった曜日とか、日付とに偏らず、ランダムに思われるよう注意を払った。奈美が戻るとマンションの前で直人が仁王立ちをしている。奈美の顔を見ると直人が手をあげ、泣きだし、奈美が謝りながらやさしく慰める、この儀式を繰り返した。
「高校は僕にとって果てしなく暗い場所でした。奈美さんは僕の前に忽然と現れ、優雅に美しく舞うアゲハチョウのようでした」
いきなり目の間に現れた、高校の同級生だという顔も名前も記憶ない淀川直人からの愛の告白の中で、奈美の心をグサッとついたのはこの部分だった。
実業団に入って間もない頃、トラック練習のあとで、力尽きて地面に横たわる奈美の上を真っ青な空を背景に黄色のアゲハチョウがゆらゆらと舞っていた。
「綺麗」奈美は呟いた。もう疲れて身体は動かないのに。美しさを感じる力は残っている。
奈美はふと思った。クロアゲハのように、アゲハチョウにも種類があるはず、あの代表的な黄色のアゲハチョウは何という種類なのだろう?
検索すると簡単に答えが見つかった、
普通に存在する、並のアゲハだからナミアゲハ。
奈美は驚愕した、私のこと…、高校の中で私はアゲハチョウのように輝いていたのだろう、でもアゲハチョウが集まるこの場所では、私は並のアゲハチョウ、奈美だから並、そういうこと…。
淀川直人の言葉を聞いたとき、もうこれは運命だ、逆らえないのだ、と奈美は納得した。
人生に絶望しかけていた奈美は、直人の献身的な愛のおかげで生気を取り戻した。直人に愛されたことで、初めて人を愛する喜びを知った。直人には感謝してもしきれない。私も永遠にこの人を愛そう、奈美は誓った。
なにひとつ悩みもない日々を過ごしたのは、少なくしても成人してからは初めてだった。奈美の心に余裕が生まれた。余裕が生まれるとそれまで気が回らなかったことに気が回るようになる。奈美は何かに思いを巡らせた。ふと高校時代に好きだった藤沢明が頭をよぎった。彼は今どうしているのだろう? 奈美は何日か迷った末、平日の昼間電話をかけた。彼の番号は変わっていなかった。
「急にごめんなさい、少し声が聞きたかったの、都合のいい時間を教えてくれればもう一度かけなおすわ」
「この時間ならちょうどいいよ」
「ねえ、今どうしてるの?」
就活がうまくいかず、大学を卒業後ずっとアルバイトで生活をしている、明は言った。奈美は相槌だけは打ちながら質問をせずに明の長い話を聞いていた。奈美はどうしてるの、と聞かれて、私の話は今度ね、とはぐらかせ、次の電話の口実を作った。それからは、明が休みの平日の昼間、ふたりは電話で話すようになった。奈美は実業団を辞めたことは伝えたが、直人と暮らしていることは黙っていた。電話の二、三時間はいつもあっという間に過ぎる。明は奈美に「会うことはできない?」と訊いた。
「事情があって外に出るのが難しいの、でも昼間の短い時間なら会う機会を作ることはできると思う、前日にならないと調整できないけど、連絡したら横浜に来てくれる?」
「もちろん」
奈美は明のシフトのスケジュールを頭に入れ、明が休みの日の前日に直人が不穏な動きを見せないかを注意して観察した。まさか自分の方が不穏な動きになってないかを注意することも怠らなかった。大丈夫だと確信して「明日会いたい」と明に連絡を入れた。
奈美はみなとみらいのホテルのラウンジを指定し、真っ白なランニングウェアで家を出るとタクシーを捕まえ、宿泊客のような顔でホテルのドアを通った。明は奈美の格好を見て一瞬驚いた顔をしたがすぐに笑った。明の表情はあきらかにやつれていたけれど、笑顔を見た瞬間に奈美の心の中に高校時代が甦った。
「お腹空いてるでしょう? 好きなもの食べて、わざわざ私に合わせて出てきてくれたお礼だから」奈美はそう言うと「これ美味しいから頼んでいい?」と明に声をかけながら、いくつか料理を注文した。別れ際には交通費と言って五万円の入った封筒を渡した。せめて送りたいという明に、送らないでほしいと頼んで、奈美はみなとみらいからウォーキングで帰宅をした。
一人のマンションに戻ると、奈美のなかで思いがこみ上げた。人生を終わりにしなくてよかった。もう一度明に会えてよかった。明にずっと生きてほしい。そして突然気がついた。私はいま直人のおかげで生きていられるけれど、私を支えることは直人にとっても生きがいなのだ、そこまで私のことを愛しているから、暴力を振るったり泣いたりとあれほど、情緒不安定になるのだ。直人のあの行動は理屈ではない。そしていま奈美は、明を支えることが私の生きがいになる、と確信した。直人は私を愛している、だから私は直人を愛している、でも直人は私が彼を愛する前から、いや私が彼を知る前から私を愛していた、同じように明が私を愛してくれなくても私が明を愛することができる、これこそが直人が私に教えてくれた愛なのだ、私は直人と明の二人を同時に愛することができる…
昨日の朝、直人は不審な動きを見せた。明日は昼間帰ってくる、奈美は確信した。今日は明の休みの日だ。直人が家を出てからきっかり一時間おいて、奈美は電話を掛けた。
「実は、バイトをクビになった」明は言った。
「いつ?」
「一昨日もう来なくていいと言われた」
「どうして?」
「業績が悪いから人員整理が必要だって」
「次の仕事紹介してもらえるの?」
「まさか、自分で探さないと、でもすぐには見つかるかどうか…」
「酷いわ、…ねえ、少し時間もらえる? かけなおすわ」
奈美はみなとみらいのホテルに片っ端から電話をするつもりで、ネットを検索した。最初に電話をしたホテルで、いくつか種類のあるスイートと名の付く部屋に空きがあった。奈美は当日から二泊三日の予約をいれて、もう一度明に電話をかけた。
「今日から明後日まで横浜にいられるでしょう?」
「大丈夫だけど…」
「ホテル予約したから泊まってよ、お金のことは心配しないで贅沢してほしい、こんなときだから、私は明日の昼間会いに行くわ、たぶんに時間くらいしかいられないけど、待っていてくれる?」
「もちろん、…でもそんなことしていいの?」
「私は明に生きていてほしいの、苦しい時は私が助けるわ」
今日の朝、直人が出かけると奈美はシャワーを浴びた。ウォーキングの白装束に着替えて外に出ると、マンションの前でタクシーを拾い、「今向かっている」と明に連絡を入れた。みなとみらいでタクシーを降りると、ATMで現金を引き出した、ホテルに入ると部屋に直行し、言葉を交わす前に明を抱きしめキスをした。そのまま二人で肌を合わせて広いベッドの上で初めて愛し合った。
二時間後にセットしておいた奈美のスマホのアラームが鳴った。
「ごめんね、今日はもうこれ以上一緒にいられない」
奈美はシャワーも浴びずに、真っ白のランニングウェアで全身を隠した。慌てるようにホテルを出た。「大した贅沢はさせてあげられないけれど、このお金使っちゃって」そう言ってと渡した銀行の名前が印刷された封筒には厚みがあった。余韻に引き留められるのが怖くて、奈美は急いで部屋を出た。
そのまま大さん橋を目指した。大さん橋のくじらの背中の上り、赤レンガの向こうに先ほどまで二人で過ごしたホテルの部屋のあたりを見つめた。
開港広場の方へ歩いていると、橋の上で歩を止めて自分を凝視している男がいた。Tシャツに短パン、ランニングの途中のおそらく三十代の男。日本大通りを曲がるときに、奈美はちらりと横目で後ろを振り返った。橋の上にいた男がついてくる。直人もあの男が私の後をつけていることに気がつくだろう。かえって都合がいい。
マンションが見える場所に戻ると、直人が立っていた。奈美はこれから起こることを正確に予想し、心の中で呟いた。
嘘を本当らしく思わせるには、嘘の中に真実を混ぜればいい。
私はまた外に出られずにはいられなくなった。外に出たら私のあとをつけている男がいた。心配させてごめんなさい。大丈夫よ、私はあの男にはなんの関心のないのだから。