マジカル1:「ええっ? 私がヤヌーシュカ!?」
「1!2!3!4!プリ」
「死ぬッピ!!!!」
ドゴオとえげつない音をさせながら空を舞う中年女性、神那しおり。御年42。
彼女は華麗に顔面着陸を決めた後、何事もなかったかのように身を起こして座り込んだ。
「うっせー!これがトチ狂わずにいられっか!」
「現実逃避をするなッピ!」
続けざまに酒焼けした声で威勢良く泣き言を抜かす。
つい今しがた、宙に浮かぶピーピーやかましい謎の小動物から「ついに見つけたッピ!」と血走った眼で迫られて無理やり妙ちくりんなキラキラバトンを持たされたばかりだ。
妙ちくりんなキラキラバトンは彼女の手に渡った途端に虹色エフェクトを発動させ、彼女をフリル満載ピナフォアスタイルな魔女っ子コスチュームで包み……冒頭の錯乱へ至る。
これが幼気な少女であれば「ええ~っ!?」と慌てふためく姿も愛らしいのだろうが、やんぬるかな該当者は最近くびれの辺りから贅肉が取れなくなってきた中年女性。
どう見ても変質者である。半端な夜間帯で通行人がいない事だけが救いであった。
「プッリッティ!キュッ」
「死ねッピ!!!!」
再度空を舞う中年女性。そして、やはり無傷で立ち上がる。
美少女戦士的なパワーはちょっとやそっとじゃ怪我をさせてくれないのだ。
この強度と底なしの体力を常時使えればと心の底から願っても、変身時にしか通用しないという。しけてやがる。
「ピーだって、ピーだって伝説の魔女っ子ヤヌーシュカの継承者がこんなバーバヤーナだなんて信じたくないッピィィ!」
やさぐれ魔女っ子42歳にツッコミという建前のジャンピング足蹴攻撃を何回も繰り返していたマスコットが女性蔑視発言をかましながらヨヨと泣き崩れる。
彼は名をタルピーといい、ヴィーフホリという種族のモグラのようなカモノハシのような、それを極端に抽象化した不可思議生物であった。
ぬいぐるみの如き造型であるが、長年の放浪生活が祟ってか、本来ならフワフワであろう体毛は煤け草臥れて所々剥げている。
「秘められた才能を持つ女の子を程良き年頃で見つけるなんて無理ゲーだッピ!
そんな所業がホイホイできるならアニメは渋滞しすぎてフン詰まりになってるッピ!」
「あ、あれそういう事なんだ」
「コンスタントに年1で見つかってる今が異質ッピね…」
メタっぽい発言に付き合いながら、中年女性しおりはどっこらせとトートバッグを拾い、辺りに散らばった中身を集めていく。
完全に帰り支度である。
「待つッピィーッ! 他人事のよーに去ろうとするなッピィーッ!」
「変な見栄切ってんじゃないよやかましい!アタシにゃ明日も仕事が待ってるんだよ!」
必死の形相でしおりの大根足に縋りつく、ひどく汚れた焦げ茶色の毛をした、胴と尾合わせて40センチほどの小(?)動物。
しおりは存外小さくはないマスコットを半ば本気で振り落とそうとするも、尻尾から後ろ足の水掻きまで使ってぎっちりと絡みついているためこれがまた難しかった。
「離せってば!早く帰って飯食って寝させろ!夜更かしは翌日以降もしばらく響くんだから!」
「中年の哀愁なんて知らねえッピ!お前に使命を果たさせねえとピーはおうちに帰れないんだッピ!」
「江戸時代の仇討ち制度か!そんなもん、夏のアレみたいに既存の奴に任せりゃよかったじゃんか!」
「夏のアレはゆる判定で代替可能だった例ッピ!ピーのは対象が厳密な年1の方ッピィ!!」
「知らんわ!!!」
タルピーは右へ左へと勢いよく揺れながら、本当に知りたくもない内情(当人談)を語る。
「判定がエグすぎてお前を見つけ出すのに30年かかったッピ!
ネーミングから絶対白人だと思って無駄に世界中探し回ったッピ!」
月日の流れは非情だ。
本当なら12歳で変身アイテムを手に入れて、世界転覆をもくろむ闇の組織シャーデンフロイデを疾うに倒していたはずのしおりを少女からおばさんに変えてしまった。
最初はピーピーと愛らしく喋っていたタルピーの喉も甲高い裏声が長続きせず、今では完全に枯れている。そりゃもうカッスカスなドブ声である。
「仕方ねーんだッピ…心の癒しは常連で回ってる下品な居酒屋だったんッピよ…」
「完全に生きるのに疲れたオッサンじゃん…っていうか入れんのか動物」
「全員が酔っ払いだから人語を解する謎生物がツマミ注文してても問題ないッピ。地球来て10年くらいで学んだッピ」
「んな暇あるなら探せ探せ」
「やぁ~なこッピ!ピーは奴隷じゃねえッピ!!!」
実に簡単な様子で探せと、しおりは知らないから言えるのだ。世界中からたった1人の女の子を見つける意味を。途方も無い無駄骨を。
ノーヒントで地球に放り出され、雲を掴んだまま砂漠から1粒の砂金を見つけよくらいの無理難題に等しい課題に、胸に抱えた情熱がすっかり磨り減ってしまうほどの年月をかけてきたかを。
未成年女性は当時で約7億人くらいはいたし、世界規模で見れば今も増え続けているのだ。それに思い至れば、タルピーがいかな艱難辛苦に蹂躙されてきたか理解できようものなのに。
彼はロシアから東欧を回り、虱潰しに適齢期の少女を陰から観察し尽した。酷い焦燥感に苛まれながら北欧を制覇する頃には6年が過ぎ、南欧を当て所なく彷徨う頃には欧州にいない絶望を伴にしていた。
その辺りで使命感は見事に絶えた。後はほとんど惰性だった。
中東で現地の人々がきちがい水と呼ぶ飲料物をワルいアンちゃんに勧められ、自嘲ごと飲み干したタルピーの理性は崩れ始めた。
或いは、ドニエプルの川辺で似た形状のメスからゴミを見る目で蔑まれた時に喪っていたのかも知れない。
アフリカで流砂に呑まれかけ、ヌーの背中で雄叫びを上げ、沼地でカバに沈められ、ブブセラを嗜み、意外と気性の荒いペンギンに食われかけ、ラクダに唾を吐きかけられ、東南アジアでパクチーを貪り、毛皮目当ての密猟者に延々とつけ狙われ、ガンジス川で下痢が止まらなくなり、オーストラリアでコアラと死闘に明け暮れて、マウイと共にハカを舞い、カカポに純潔を奪われかけ、キーウイとクアッカワラビーの対立を煽り、パタゴニアで嵐に吹っ飛ばされ、氷河にむしゃぶりつき、リャマの尻毛を毟ろうとして返り討ちにあい、カルワニに追われ、雷に打たれ、中米なんてもう小麦色の肌を自信満々に晒すケツのプリっとしたナイスバデーな美女が主目的だった。
親切なバイカーに拾われて全くの善意から連れていかれた愛護センターで捨て犬や野良猫と親交を深めた北米の思い出もほろ苦い。
「ヴァア"ア"~ン!さっさとお前が見つかってりゃ、パーペキプリチープロポーションのピーは90年代のチミっ子をメロメロにして
先行者利益的な市場独占で左団扇のウッハウハ、今頃は悠々自適に余生を送ってたはずなのにィ~…!」
疲弊しきったタルピーの魂は、彼に語尾のピすら放棄させてしまった。
こうなるとフォルムがぬいぐるみなだけの完璧なオッサンである。
片足をぶらぶらさせていたしおりもさすがに気の毒になったのか、タルピーの首根っこを掴んで摘まみ上げる。
「まあ残念だったけどさ、過ぎた事だよ」
彼女もまた長年を経た疲れを吐き出すように、掴んだそれをポイっと捨てた。
そしておもむろにキラキラバトンを膝に押し付けるや、プラスチックっぽい棒の部分をへし折るべく両腕に力を込める。
「ピ"~~~~ッ!!!やめるッピ!!そんなの許されると思うッピか!!」
タルピーはしおりの暴挙を高周波の濁声で止めにかかる。
「妨害すんなエセ獣!アタシにはアタシの生活があるんだよ!こんな事で転落したかないんだ!」
90年代初頭まで小さな商社を経営していた神那家はバブル崩壊の煽りをモロに受けて、バブルの勢いに乗りに乗ってワッショイショイと築き上げた資産を一ヶ月くらいで全て無くすという錐揉みジェットコースターも真っ青な憂き目に遭っていた。
しおりの姉は嫁いで貧乏からギリギリ逃げ切ったが、13歳のしおりは逃げる先がなかった。
彼女は通っていたエスカレーター式の私立学校を中退して公立中学へ転入し、公立高校から奨学金でどうにか短大まで進んだが、そこから先も地獄だった。
就職氷河期によって大中小を問わず正社員など蜘蛛の糸ほど狭き門。通過できずに新卒カードを失った者のなんと多い事か。しおりもご多分に漏れず、履歴書の足しにもならないバイト生活。
メディアは非正規雇用者を選ばれし情強勝ち組のように持て囃したが、非正規雇用の緩和、そして期限が設けられ、正社員にしたくない企業は次々にベテランのクビを刎ねた。何とか事務職に齧り就いていたしおりも刎ねられて、今では食品工場のライン工。
両親は最近死んだばかりで、辛うじて手元に残せていた築四十余年の一軒家は遺産放棄を済ませてつい先月更地になった。
神那しおり、42歳独身。若い頃から何かとマウントを取ってきた姉とは既に没交渉であり、ほとんど天涯孤独。
現在は子持ちのおばちゃん達が織りなす荒波に揉まれながらパートで生計を立てている。突発的な休暇はおばちゃんの評価にマイナスだ。仕事が非常にやり辛くなる。
「大体なんだよ! こういう不思議な商品はちょっぴり大人のお姉さんにするんだろーが!
闇雲に年齢を上げるんじゃねーよ! これアタシおばあちゃんじゃねーか!」
マジカルなパワーによるメイクアップは使用者の外見に1.5掛けの加齢作用を施した。12歳は18歳に。42歳は63歳である。
缶チューハイとお惣菜が主成分なしおりをいくら理想的な老化させたところで美魔女にはならなかった。
純白のニーハイソックスにワインレッドのメリージェーンパンプスを合わせた女児向けファンタジックなピュアピュアコスチュームはもはや視界の暴力。せめてロリータ成分を極限まで減らして慎ましやかな感じに収めておけば古き良き時代のメイドさんになれたであろうに。
「頼むよ~お願いだよヤーナおばあちゃ~ん。
あんたが闇の組織シャーデンフロイデの野望を阻止してくんねーと俺の世界は滅亡すんだよ~。
故郷に初恋の幼馴染がいるんだよ~」
口調もキャラ付けもかなぐり捨てて懇願を発すグデャグデャマスコット。
「んなもん、とっくに他の奴と繁殖してるに決まってんだろ!」
「ギォ~~~~~ッ!!!
…ヴェッホ、ゴホッォオ、ゴア"ア"ッ」
正当な指摘(という建前の、異世界で暮らす知的生命体に対する著しい侮辱)を突き付けるしおり。
タルピーは地元のミューズかつ意中の相手ピッピリーナちゃんが乱暴狼藉なガキ大将にしどけなく抱かれる様を妄想してしまい、断末魔のような叫び声を上げた。
かと思えば次の瞬間には背中をビクつかせて咳き込み始める。
「痰絡んでんじゃないよ。大丈夫かい」
「はあ…はあ…頼む、俺の脇の下にある亜空間ポケッツから気付薬を…」
「卦ッ体な場所にあるなあ!! ってこれ酒じゃねーか!!!」
「ワンカップピー関…」
「一人称だか語尾だかを自主規制音として使うな!」
鈴虫の虚しく鳴きやる公園で、ボケとツッコミが激しく交差する。
方やフリフリエプロンスカートおばあちゃん、方や世俗の汚れがタールのように染み付いたマスコット。控えめに言っても惨憺たる有り様である。
ババアとジジイが加齢臭混じりの汗水を垂らして意地と生活と宿命をかけた命がけの攻防を繰り広げているなんて、ご近所さんに知れたら…アタイ明日からおんも出られなくなっちゃうッ!
――クワヮァとアルミの蓋を開ける音が夜の静寂に響き渡った。
荒い息を抑えたタルピーが地面に両足を放り、短い両手でガラス製のカップを抱え、そのままグイっと呷る。
「ッカー! 沁みるゥー!」
「飲むなよ動物!」
「…ピーだってやってらんねーッピ。
生きてりゃ疲れるし腹も減るのに命令後即座に無一文でポ~イとかありえねえッピ」
「いやそりゃ、いや…マジ? ええ…? アンタも悲惨だね」
器用に鼻先をカップの縁にかけて酒を飲み切った酔っ払いは律儀にゴミ箱へと向かう。
戻ってきた時には新たなワンカップを手にしていた。
ベンチに移動したしおりの隣へと飛び乗り、自然な動作で蓋を開ける。今度はちびりちびり、少しずつ口に含んで。
「ひのきのぼうと50Gくれる王様が羨ましくなるレベルだッピ」
「うわぁ…」
「俺に娯楽を楽しむ権利はねーですかァアン?!」
ヨダレと酒を撒き散らせ、まるで瞬間湯沸かし器かと錯覚したくなる速度で激昂するタルピー。へべれけの八つ当たり本当に面倒くさい。あとすごい酒くさい。
これには生き甲斐が帰宅後の晩酌なババアも思わずベンチの端まで横ずさって両耳を塞いだ。
「あーあーうるさい。…あ、そういえば。それどうした? 盗んだ?」
「失礼ッピ! ちゃんと買ったッピ!」
「はぁ~? アンタがどう金銭を得られるって?」
しおりの疑問は当然だろう。
世界滅亡を防ぐべく我が身一つでやってきたタルピーは裸一貫無一文の無宿者、しかも人語を解する謎生物…というより動くぬいぐるみ。
いくら宙に浮かべるとはいえ、バイタリティだけで世界中を駆け巡って居酒屋に癒やしを求めるのは無理がある。
「それはツケで…ゥ~…ウェップ」
「ツゥケェ!? 返すアテでもあんのか?!」
「あっちょっと大声やめて吐きそう。げふっ、あの…あれッピよ、伝説の魔女っ子ヤヌーシュカ名義で」
「ウワーーー!!!!! っざっけんな!!! 魔女っ子ってアタシじゃねーか!!!」
なんと、この四畳一間に煎餅布団が似合いそうなド萎れ小動物はしおり名義で勝手に借金をしていたというのだ。
全部まとめて一千万はギリない程度という謎のフォローがなされたが、名義貸しと借金は死んでもするなという親の――主にバブルで不動産が吹っ飛んだ父親の――切なる言いつけを守ってきた42歳独身女性にとってそれはあんまりにもあんまりな衝撃の事実だった。
キラキラバトンの摩訶不思議現象で中年からおばあちゃんに進化した、魔女っ子スキップ☆バーバヤーナが柔らか素材のラッパ袖を振り乱して抗議する。
「解け! この変身を解け! アタシはヤヌーシュカになんてならねーからな! 借金なんて知らねーから!!!」
「いやでも世界中でイケたから…そういうノリかと…オェエエ」
「ギャー!! 吐くな!!! それ飲め!! 飲み込め!!!」
「ボボロボロロロ…ッ…ォッ!」
願いも悲しくタルピーは吐いた。アルコール混じりの胃液を吐いた。吐瀉物が古びて明滅する電灯の光を受けてキラキラと乱反射した。
同時にしおりの目からも涙が零れた。熱い水分が涙腺から滔々と溢れ出た。
この場に通行人でも現れれば、なんかこう、うまい具合に収拾がつくのに、いっそ滑稽なくらい気配がない。
「だ、大丈夫だ…。不可視の結界がピー達のプライバシーを保護してくれている。
ついでに、当面の間はシャーデンフロイデの幹部が召喚した怪物を倒せば変身は解ける」
タルピーは嗚咽混じりながらプロらしく説明をする。そんな頻繁に語尾のピーを忘れないでほしいと切に願う。
何一つ根本的な解決になっていない長丁場に、しびれを切らし、妖精?の身勝手な行動でババアにされたしおりは還暦のおっぱいをダルダルさせながら小刻みに地団駄を踏んだ。
「ヤ~ダぁ~よォ~~~~。社会生活妨害されて、身に覚えのない借金まで課せられて、
そんなの倒したってアタシにメリットひとつもないよォ~~~~。わぁあ~~~~ん」
おばあちゃんガチ泣きである。情緒不安定ではなかろうか?
否、こんな嫌がらせに等しい不運の押し売りをされては老人とてその多くが泣き、喚き、当たり散らすに相違ない。
駄々を捏ねるしおりの手に握られたステッキの、先端に付いている幾重にも重なった大小の星飾りがタルピーをボッコボッコと縦横無尽にしばいていく。
「オゴォ! や、やめッブェ! バ"ーバ"ァア"ッ?! ぁガッ! 分かった! 分かったからドゥブ!?」
中におっさん入ってそうな小さき獣は即座に満身創痍である。
子供のハートを鷲掴みなファンタスティックモジュールは頑丈で凹凸が多く、降りかかるダメージがやたらと重い。
とりあえずステッキの作用によって外見に1.5掛けの加齢と、身体能力に15掛けのパワーを授けられたしおりが体力の限界を迎えるまで存分にぶん殴られておけばいいと思う。
数分後、肩で息をする汗まみれのしおりの目の前にはボロ雑巾のようになったタルピーが地に臥していた。
「お"おん…お"お"お"ん…♡」
ヒグッヒググッと痙攣しながら気色の悪い呻き声を上げるタルピー。
どうやら決して開いてはいけない沼色の新たな扉が開きかけているらしい。
「もうやだ。…かえる」
しおりはぐすんぐすんと鼻水をすすり、エプロンドレス姿のまま重い足取りを公園の出入り口に向ける。
その愛らしいパンプスのかかとに、タルピーの爪が引っ掛けられた。
「お前が、やってくれなきゃ、ピーの、世界が」
「知らない。勝手にしてよ」
「…だよなあ」
タルピーはトートバッグの底部を掴み、よっこらせっと立ち上がる。
本音をぶっちゃけると彼だって勘弁してくれと放り投げたいくらいだ。彼女は二度目の成人式を終えた年齢であって、お子様ではない。世界を救うなんて崇高な使命感だけで動かない。損得抜きにはできないのだ。
けれど、アニメの元となった現実の少女達だって、敵を倒してやったねと喜んでいられたのは最初だけだ。対価がなければやがて疲弊してしまう。それこそ大人と同じに。
「まあ、なあ。年1のアレだって、東〇アニメのフィルターで隠れてるだけで報酬はあるんだよ」
「…それで?」
「幸福とか、幸運とか、未来の成功が約束されるとか、そんな感じだな」
「アタシ、未来ってないし」
しおりは口の端を歪めて笑う。それは精一杯の強がりにも似た、悲観的な発言。タルピーは何も返せなかった。
彼女が人生に諦観を抱いているのは事実だ。外的要因によって失敗を積み重ねてきた事実に対して如何な慰めを爪弾こうと、言葉のなんと軽薄な事か。
だってタルピーこそ同調し得る。無知な幼少期ならともかく、世界を救うためにノーヒントで少女を見つけに異世界へ行けなんて今現在命じられてもノーサンキューだ。断る選択肢が与えられなかった主命で人生、ならぬピー生を30年も無駄にしたのだから。
故に彼は同情心の赴くまま、うんうんと頭を抱えて悩む。どちらにしてもヤヌーシュカにシャーデンフロイデを倒してもらう構図が必要だ。だったら、倒す事による報酬があればいい。
その報酬を、どうすれば与えられるか。
「…あ、あー! えーと、300円ある?」
「え?」
長い尻尾を神経質そうに振って、不可思議生物は少女趣味全開なババアをぐりんっと睨み上げる。
「小銭! 300円!」
「なに? やだよ! 直接アタシから借金まですんの?!」
「うるせー! いーからさっさとよこすッピ!」
何かを思いついたらしいタルピーは唐突に、そして容赦なくしおりを足蹴にして財布を奪う。一体どこの金色夜叉か。
彼は表面の掠れた二つ折り財布から小さな手でひのふのみと硬貨を丁寧に数えて取り出すと、後はフリフリのスカートに向けて造作なく返した。
「うん、これでいいッピ」
「なにがだよ! ああ~…酒代が~…」
満足げに頷くタルピー。割と本気で嘆くしおり。
タルピーは脇の下にある亜空間ポケッツに入手した300円を突っ込むと、クルクルっとポージングを取って叫ぶ。
「ぃよぉおっしゃあ! 来た来た来たッ! ピィーッ!!」
ポンッ。
場違いな快さを覚える音と共に現れたのは一枚の長細い紙。貧者の税金。要するに宝くじであった。
「ほら見るッピ! これがお前のメリットだッピ!」
「んんんええ? なにそれ追いつけないんだけど」
「当たりクジッピ!」
「え?」
きょとんと表情を無くす相手に、昔は愛くるしかったマスコットはヤレヤレとジェスチャーをして得意満面に繰り返す。
「当たりクジッピ!!」
「……はあああああ!!?!?!?!??」
まさに降って湧いた儲け話。奇妙奇天烈摩訶不思議。奇想天外なホンワカパッパ。
しおりは詐欺師に騙された驚愕いっぱい、喉よ裂けよとばかりに咆哮した。
「なに言っちゃってんだバカ! バーカ! いい加減にしろよこの嘘つき!」
「嘘じゃね…痛て痛ッてえーッ! お前のほーこそいい加減にするッピ!
ピーをそのふざけた変身兼攻撃アイテムで殴るんじゃねーッピ! うおお!!?」
「はあっ、はあっ、…あー疲れた。…えーと、ところで。なに? 嘘じゃないって?」
数分後、肩で息をする汗まみれのしおりの目の前にはボロ雑巾のようになったタルピーが地に臥していた。
天丼はいいものである。
「んぉ"お"…っ♡ …………はっ、そうッピ。
系統違うアニメあるッピ? えーと、あれだ、家計簿と睨めっこしたり赤字に悩んでる描写があるのに
違う場面では明らかに贅沢な家具や小道具が登場しちゃってるよ的な、経済状況がブレッブレなやつ」
「ああ、うん。あるねぇ」
フィクションの世界では稀によくある描写だ。
しおりはふんわり袖で額を流れる玉の汗を拭いながら首肯した。
「ああいうやつで謎のマスコットが登場してたら、まず間違いなく“こういう事”だッピ」
「…ええ?……ええー? マジなの? いやいや、どう考えても嘘じゃん」
きな臭い裏事情(タルピー談)を明かされてドン引きするしおり。猜疑心に満ちる瞳へしかし、胡散臭い小動物は畳みかける。
「じゃあ、お前、高額当選者見た事あるッピか? ねーっピろ?
血縁関係も怪しいくらい遠い親戚でもジャンボ当てたって奴いねーッピろーが?」
「う、う、い、言われてみれば確かに」
「当たりクジは最初ッから決まってるッピ! 一般庶民の手に渡る訳ャアねーんだッピ!!」
「ん、んなバカな…!」
迫るタルピーは口八丁手八丁だ。はっきり述べるが騙されかけているぞしおり。
そんな訳ないだろう。筆者毎年毎年今年こそ億万長者だって信じながら連番10枚買ってるのに。
「だが安心するといい。“これ”が当たりだ」
「“これ”が…ホントに…?」
前足でひらりと揺れる1枚の紙切れが、公園に設置された防犯灯に照らされて淡く輝く。
“それ”を眼で追いながら、しおりはごくりと固唾を呑んだ。信じたい気持ちの反面、どこかで冷静な自分がとんだ大法螺だと警鐘を鳴らしている。
だって、両親は失った財産の十分の一も取り戻せなくて、雀の涙みたいな年金もらって老後は修繕も儘ならないボロ屋で暮らしてた。アタシも姉も帰省なんて、何年もしてなくて、定年過ぎてからずっと長患いだった事も知らなかった。近所の人に救急車呼ばれて、それすら知らされなくて、会わない内に死んじゃった。
足の力が萎える。彼女は力なくへたり込む。頭の中を占めるのは、後悔よりも、もっと醜い思考。
惨めだって感じた。怖いって思った。あんな風に終わるのは嫌だって。でも、今の生活を続けていたら、両親なんかより遥かに貧乏で、悍ましい孤独死が着実に訪れる。なのに、自分がやった事といえば、目を瞑り耳を塞ぎ続けてきただけ。愚かな行為だと自覚してる。けれど、打開できなかった。仕方が分からなかった。
だけど、そう。“あれ”が本物なら――もう、滲むような老後の不安に苦悶しなくて済むんじゃないか。
天使のような悪魔の誘惑に誘われて、脳裏を過ったら最後、甘い考えは止まらなかった。
そろ、そろ、と、戸惑いながら、シワシワの腕が“当たりクジ”に伸びる。
非捕食者をモデルとした無表情に近いはずのマスコットはニタニタと哂いながら、揺れる指先から僅か距離を置いて紙の端を差し出した。
「――あ、ッ!」
しおりが我に返った時、既に“それ”は手の内にあった。彼女の両の手は紙切れをまるで慈しみでもするかのようにして握り締めている。
「ピホ…! ピホホ…! ピ~ッホッホッホ!! ついに、ついに契約は成った!!」
異常な様相にぎくりと強張る彼女へ、タルピーは肩を震わせて呵々大笑した。
白色灯にぶつかりながら舞う蛾の影が彼の周りで狂ったように踊る。その姿は正に邪鬼。
「さあ、しおりィ!」
「な、なに?」
宝くじを掴んだまま怯えるババア。小動物は爪を器用に折り、彼女にびしりと指を突き出す。
「ルサンチマン伯爵率いる世界転覆をもくろむ闇の組織シャーデンフロイデを倒すッピィイ!」
……と、禍々しく決めたまでは良かったが。
「ぅううう、クッソー! チクショー! やればいいんでしょやれば! ……ん?」
往生際を悟ったしおりは、ふと手の平にあるクジを見下して重大な事に気づく。
「あ"ーッ!! これ“ミニ”の方じゃんか!!!」
そう。高額当選確定クジはジャンボミニであった。
盛大なブチ切れは明々白々、フライング甚だしくも威風堂々と故郷に凱旋する偉大なる己を思い描き忍び笑いが止まらない気色悪さマックスなマスコットに向かう。
「てんめええこんのクソ動物がああ! 借金チャラでお終いじゃねーかあああ!!!!」
「ピホ…ホ!? ギュエッ!」
憤懣遣る方無き大根足が、15掛けのおばあちゃんパゥワーでタルピーの胴体を踏んだ。そりゃもう踏んだ。踏み抜かんばかりにズドングリリイッと踏みにじった。
彼女は弾力のある踏み応えに鳥肌が立つのも厭わずに踏んだ。
勿論それは可哀想でもなんでもなく、至極当然の帰結であった。嗤うタルピーは人を祟る小鬼の化身、クソ迷惑な廃棄物。つまり邪鬼そのものといえようが――邪鬼とはつまり、踏まれるものである。
「オ"ゴェ! まっで出ちゃうモツ出ちゃゥオ"ォアア"! ぢょッ、タンマ"!
話を"聞い"でェ…んアッ! 痛い痛い痛いィアアそこらめもっとォオ"オ"オ"♡」
工場団地の近辺とはいえ、彼らが騒ぎを起こしている公園は湿気た住宅街の中にある。
なのに周辺の道路に至るまで不自然なくらい人通りが絶えていた。
しおりはそれにいつ気付くだろうか。気付かないだろうなあ。
斯くして邪魔も通報も入らずに、汚ったねえ狂乱の夜は更けゆくのだった。