日常はゆるやかに①
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朝一番の講義が急遽、休講になったことを掲示板で知った私は、大学の事務所棟に設置されている待合所でやるせない気持ちで、ぼんやりと座っていた。
そうしていると、一週間ぶりにあの人が現れた。
風邪でも引いていたのだろうか。
少し窶れて見える。
それでも何故だろう。
眼光は鋭いように思う。
手続きを行う彼の後ろ姿をぼんやりと見つめる。
やがて、手続きを終え、彼が振り返ったところでまた目が合った。
またも先日と同じように固まってしまった。
これと言って悪いことをしていたわけではないが、怒られるのではないかとなぜか思ってしまうのだ。
今度は目を逸らさず、それどころかこちらに近づいて来た。
「おはよう」
一度も話したことはないので初めて彼の声を聞いた。
穏やかそうな、そんな心地の良い声だった。
「お、おはよう…ございます」
しどろもどろに返答しながら椅子のスペースを広げる。会釈して隣に彼が腰掛ける。
もう私の心臓は爆発寸前だ。
「君、ボクが取っている授業にいくつか出席していたよね?」
覚えていてくれたんだ!と有頂天になりかけた瞬間に心の中の冷静な自分が、止めに入る。
少し落ち着くことができた。
「私のこと、覚えていてくださったんですね?」
何故か敬語になってしまう。
人の顔を覚えるのは得意なんだそうだ。一瞬にして講義室の中に入るくらいの人口であれば把握するという、私からすると羨ましいものだった。
ちょっと自慢、なんて微笑むものだから私の心臓が飛び出しそうだった。
「え、っと…自己紹介がまだだったね。ボクは神原 亘。神の原っぱで、“わたる”は漢字の二で日を挟む」
君の番、と視線で促された気がした。
「柏木文月です。木に白と書くかしわに木、文月は旧暦7月の漢字そのままです」
自己紹介がなんとも説明的だが、初めて彼…神原くんの名前がわかって嬉しいばかりだ。
「もしよかったら、一週間分の講義のノートとか見せてくれると助かるんだ。もちろんタダでとは言わないから…」
なるほど、やはり真面目な人だ。
「それは、構わないんですけど…
体調?はもう回復したんですか?まだ顔色が悪いようです。まだ休んだほうが…」
不躾にも心配してしまった。
本当にいつも気にしているのがバレてしまう、ということは気にならなかった。
彼はびっくりして、私の顔をマジマジと見る。
綺麗な琥珀色の瞳だった。
緊張すると赤くなるのでやめてほしい。
「ごめん、あんまり人に心配されたことがないから…どんな反応したらいいのかわからなくて。でも大丈夫だよ。前より良いくらいなんだ」
心配されたことのない人生ってどんなだろう…
風邪で寝込んだ時や、転んでしまったとき、いつも両親は気が気でない様子で私を心配し、無事ということがわかると優しく撫でてくれた。
そのことについて、あんまり掘り下げてはいけないのだろう。
ましてや、初めて喋っているような関係性だ。
「えっと、今日の講義分のノートはあるんですけど、それ以外は明日持ってきますね。授業の日までに持って来て下されば助かります」
取っている講義の頭の中で数を数えたが、とんでもない数なので果たしてすべて持っていけるか不安になったが、頼られているということが何よりも嬉しく、頑張ろう!という気持ちになるのだった。
我ながら単純だ。
「ありがとう。でも重くないかな?ボクらの取ってる講義、結構あるもんね。
授業の日の朝にコピーを取らせてもらうようにするのであれば、負担にならないかな。
…それで、お礼はどうしたらいいかな?」
こてん、と右側に首を傾げる。
何だそのギャップは。
正直なところ話しかけて貰えて、頼ってくれただけでも私としてはご褒美なのだが、そういうわけにも行かないのだろう。
なんとも義理堅い人だ。
こんなお願いはいけないだろうか。でも言ってみて、駄目だったら変えればいい。そう駄目で元々だ。
「それじゃあ……」
案の定というか、やはりというか…
びっくりさせてしまったようだ。
ここからはしばらく日常です。
文月ちゃん大暴走。