思い出してはいけないその感情
◇◇◇
意外に思われるかもしれないが、ボクには学生という身分がある。
友人が居なくとも人間関係を最低限にしようとも自由であるこの身分は、中々に便利だった。
授業には全て出席している、所謂真面目な学生だ。
“仕事”はその合間でも、こなせるのだ。
お昼に人気のないラウンジでコーヒーを飲むのが日課だった。
まさに知る人ぞ知る、というものでここに設営されているショップのコーヒーは値段の割には飛び抜けて美味しい。
しかも、ほとんど人が立ち寄らないので、私にとってはありがたい場所だった。
しかし、今日は少し様子が違った。
窓際に名前は知らないが、いつも授業で一緒になる女生徒が座っていた。
ロビーの掲示板にテラス席のペンキ塗りのお知らせが掲示されていた事をぼんやり思い出して、その影響か、と合点が行った。彼女も一人を好む性質なのだろうか。テラス席も基本的に穴場であったと思う。
そんなことを考えながらいつもの席に座り、メールの確認をする。
今のところ依頼はないようだった。
誰かに好奇心旺盛視線を投げられていることに気づいたのはその時だった。
誰かというのは適切ではない。目の前の女生徒だ。
目を合わせる。
……びくっと小動物のように体を震わせて、気まずそうに硬直してしまった。
ほんの少しの時間だったが、彼女にはとてつもなく長い時間だと感じさせてしまっているのではないだろうか。
気まずそうだったので、気にしていない意図を含んで口の端で微笑んで目を反らせた。
タイミングよく、と言うべきなのか依頼のメールが入った。
時間と場所と「標的」の画像が添えられている。
それを確認して、依頼を受けた旨を返信する。
彼女はどうしただろうか、と見遣ると俯いて何かを読んでいた。
どうやら予習をしているようだった。
とても真面目な性質らしい。私は邪魔をしないように気配を消して、ラウンジを後にした。
依頼は今日午後10時にK駅前を通る「標的」を、ということだった。
K駅は私の住んでいる町の隣に位置する。
駅としては8駅離れている。
授業を終え、軽く食事を摂ってから現場へ向かった。
ちょうどK駅には大きめの本屋があり、地元の本屋では見つからなかった本を探す場合に訪れている。
ネットでの購入が一番楽だというのは知っているが、そうすると際限なく購入してしまい、キリがつけられなくなるタイプであるし、なにより本屋を満たすあの独特な静けさが好きだった。
自分の持っていた痛みや、「標的」の苦悶の表情ほんのひと時、忘れることができる場所でもあった。
しかし、今回はそういうものを求めてではなく、“仕事”のために来たというのが、なんとなく嫌だった。
本屋の入っているビルの隣に長時間居座っても放っておいてくれる、学生にはありがたい喫茶店がある。
閉店は9時だったはずだ。
しばらくそこで時間を潰すことにした。
いつも本屋に訪れたらここでブレンドコーヒーを注文する。
薫りから深みのあるここのコーヒーは好きだった。
やがて閉店時間を迎え、マスターに声をかけられる。
ガラス越しに外を見ると、濃紺の空が町を被っていた。
マスターと少し話して、K駅へと向かった。
監視カメラを確認して、ビルの間へ身を隠し、じっとその「標的」が現れるのを待った。
10時ジャスト。
疲れた表情で「標的」は駅構内から出てきた。
一体、何故殺される理由があるのかがわからないほどの善良そうな市民に見える。
その疲れを感じるのも今日までのことだ。
ボクはいつものように、手首を深く傷つける。血が腕を赤く染めていく。そして、「痛い!」と強く思う。今回は、せめて安らかに逝けるように、とどこかで思ってしまったらしい。
いつもは全身に傷がつくため、悶えて死んでいくのだが、今回は胸のあたりをハッとした表情で押さえて、脂汗を垂らしながら膝をついた。
そして、そのまま……息絶えた。
腕を見るといつものように、血も傷もなくなっていた。
今回も成功だ。更に言えば、部位を絞って行うことができるのは収穫だった。
クライアントに成功した旨を送る。それから、ボクは倒れた「標的」に駆け寄り、「大丈夫ですか!?」なんて白々しいことをいいながら、冷静に脈をとり、亡くなっていることを確認して救急車を呼んだ。
せめて、と思ったのだ。
せめて、何なのだろう…と自嘲しながら救急車が来るのを待ち、隊員の人へ受け渡してからすぐにK駅の構内へと向かった。
罪悪感はすでに捨て去ったつもりだった。
しかし今回はどうしたことだろう。
自宅に戻ったのは十一時を回ったころだった。
今後、K駅に纏わる“仕事”は避けよう。
今日のことは、私自身の中では失敗だった。
罪悪感なんて抱いてしまったら、今度はどうなる?
いつも冷静に、だけれども無慈悲に命を奪ってきたというのに。
悶々としている内に、いつの間にか寝てしまっていたらしい。
久しく見ていなかった、だけれどももう少し若い頃には幾度となく見てきた夢だ。
否、夢ではない。昔あったことを繰り返し反芻させられているだけだ。
分析しているうちに、意識が覚醒した。
雀の鳴き声と朝の穏やかな明かりが五感を刺激する。
…ずっと意識があるので、覚醒というべきかはわからないのだが。
今日は午後からの授業しかないので、再び眠ることにした。
読んでくれてありがとうございました。
コーヒー大好きです。
しかし本は某密林で買い漁るか電子書籍派です。