桜
死のうと、思っていた。
このまま生きていても、仕方がない気がしていた。
これからどれほどの時間を過ごしたところで、一体何が得られるというのだろうか。おだやかな朝の陽ざしの中で、僕は考えを重ねていた。純白の、すっきりとした美しい世界が目の前にあった。太陽の優しげな光に照らされて道端で歩くちっぽけな僕に、風が憐みの微笑を送る。僕の横を大勢の人たちが過ぎ去っていく。騒がしく流動し、生きているその一瞬に一生懸命に捧げている人間たちが、狭い道を窮屈に波立っていた。
その波の一員である僕も、いままさに学校へと向かっているところであった。しかしそれはただ表面だけのことで、形だけのお遊びにすぎない。だから本当のことは知らない。人生なんていうものがあるのかさえよくわからない。それは言ってみれば、テレビやゲーム、アニメと同じ感覚だ。現実という質感が僕には決定的に欠けていた。起きているすべての物事は、目の網膜に映し出され脳で情報の集合体として認識される。しかし裏を返せば、その妄言はやはり妄言でしかない。妄言を妄言としてではなく、真に現実味のある何かとして認められるようなことは、今までになかったはずだ。実際、何の違いも読み取ることはできなかった。僕の目というモニターが色彩を映し出したものが現実であり、ゲームでありアニメであるとしか思えない。
すべてを他人事のように見つめる、第三者の目。
僕はそれを持つ代わりに、僕自身を空っぽへと仕立て上げたのだろうか。内部で起こるありとあらゆる情念は確かに自分を形成してはいるのだが、しかしそれさえもただの現象としてしか解釈できない。透明な膜に覆われて無感情に、無関心に人の波でいつまでも揺れている。心もとない不安定。
ここに、いるのか。
存在を表面だけは取り繕っても、やはり記号に成り下がるばかりだ。名前がなければ、分けることができないほど貧弱な人間の性を露呈している。もともと柱によりかかるしか能がない人が、きちんと立って歩くことなどできはしない。だからやはり、僕の中には誰もいない。区別することで見つけた形は、区別しなければ見えないほど弱弱しく光を放っている醜い本質なのだ。
それでは生きていても死んでいても、大して変りはしないのだ。
僕は人間の生きる尊厳について考えを巡らせた。そして必死になって、生きていた方がよいのだと思える根拠を見出そうとしていた。しかしそんなことは叶うはずがないではないか。現に僕は死んでしまって、抜け殻となった後の屍体がふらふらと蠢いているだけなのだから。もう肉体に何の未練もない。
死ぬのが怖いというのも、僕には辺鄙な妄想のそれだと思わざるを得ない。その怖さは、死後の世界がどうなるのかという不安によると言う者があるが、そんなことは迷信に違いない。死ぬ前のこの世界だって、未来がどうなるのか誰もわかりはしないのに、皆は平然と毎日を生きているではないか。だからむしろ、死の恐怖は自己の消滅による不安からきているのだとは思うが、しかしその苦悩から僕は解放されていた。体はもう僕の精神を手放していたのだ。今更肉体がなくなっても別にどうということもない。
真に成熟した魂は、どんな条件下にいようともどんな環境にいようとも、その本質を見失いはしない。だから形だけの自己の規定なんて無意味に思えるくらい、僕はもう熟しているのだ。この世界が僕自身だ。いたるところの大いなる意思として、僕はいる。僕が僕以外の何物でもないと証明できるものはない。今までだってそうだったし、これからもそうであるはずだ。ありとあらゆる生命体が僕自身を形作っていたし、僕自身はありとあらゆる生命体の中にある。分けるなんて言語道断だ。一つなのだ、つながっているのだ、何もかもが。
そうして絶え間のないこの生の苦しみから僕は解放されようとしていた。学校の宿題や部活のレギュラー決めや受験や日本の経済や世界の貧困事情、軋轢、争い、妬み、すべての無意味なそれらを破壊しめちゃくちゃにするために僕は死を選ぼうとしていた。なぜ悲しみを持たなければならない?なぜ争わなければならない?なんという愚かなエゴイズムだ。そしてそのどうしようもないエゴイズムに陶酔してただ自分だけがもっとも優越でもっとも高等な存在だと思い込んでいるのだ。ただそれだけのために、なぜ人が血を流さなければならない?なぜ人を殺さなければならない?誰もわかろうとはしない。キリスト教徒は、イスラム教徒でありユダヤ教徒であり仏教徒であったはずだ。資本主義は社会主義だったはずだ。君は僕だったはずなのに。どうしてこんな惨劇を人は繰り返さなければならないのか?
しかし野獣としての僕を、僕は意識しなければならない。ここで僕はその過激な自身の破壊的思想、ファシズムにも近い暴走したあふれだすこの情念を確かに持っていたということを告白しなければならないだろう。世界が僕だとするならば、スターリンやヒトラーやフランコは僕の中に確かに根付いているのだ。僕は彼らを止めることができないし、ただ彼らが少しずつ自らの役割を果たすのをひしひしと感じながらそれを指をくわえてみているだけだ。しかし彼らが眠りから覚めるその前に、いまここで自分の首を絞めることはできる。それだけが唯一の救い。自死によって、この破壊的思想を自らの破滅に向かわせなければならない。痛みなら、自分のそれだけで十分だ。
死に対する途方もない憧れ。死ねばすべてが消失してしまうのではないかという希望。何者かへと収束してしまう前に、僕は自分自身を断ち切ることによって名実ともにすべてのものになろうとしていた。なんにでもなくなるということは、なんにでもなれるということだ。僕の確信は揺るがない。無限の選択肢をもつ未来を無限の選択肢をもったままにとどめておくことで、僕は全知全能の神になれる。存在は自らを抹殺することでどこまでも燦然と羽ばたいていくのだ。あるとき僕は政治家で、あるときは教師で、あるときはパイロットで、あるときは科学者になる。とにかくこのどうしようもない位置づけ、僕が日本に住んでいるしがない中学生であるというこのつまらない社会的呪縛から解放されたかった。
それなのになぜ、僕は死ぬことができない?なぜまだこうして肉体に安住することをよしとしているのか?死の恐怖はむしろ希望なのに。人間の思考と精神だけがあればそれで十分なのに、どうしてこうも割り切ることができない?
目の前に学校が見えてきた。校門をくぐる。校内には、学校の玄関と向かい合うようにして満開の桜が自らの生を少しでもこの世界に残しておこうとして、花びらを一心に放っていた。僕はぼんやりと、本能のままに生きる哀れな桜の愚行を観察していた。なあ、桜よ。教えてくれないか。どうしてそこまでお前は、自分の仕事に精一杯尽くそうとしているのか。どうせ俺と同じで、お前もいなくなってしまうのだろう。自分ではいられなくなってしまうのだろう。それなのにどうして、お前は自分である証をこの世に刻み付けようと躍起になっているのだ?死んでしまえば、すべてが終わりじゃないのか。その終わりこそが本当の始まりではあるがそれはしかし、自己を脱することを起点とする。自分が自分であるこの現在だけでも、外界への影響によって逆に自分自身を確認しようとするお前の思考そのものが、ただの自己満足であることを知らないのか。どうせ破滅する世界に何を施そうと、全く意味はないじゃないか。死んだ後の自分のいない世界など、心底どうでもいい。
僕はため息をついた。もう何もかもを破滅へと向かわせたかった。圧倒的な死の前に僕は首を垂れていた。しかしそれでも疑問が残っていた。なぜ、桜は生きる?他人は生きる?吸い込まれるようにして、いつしか桜の木肌に触れていた。直に桜の体温を感じて、桜のはてしなく続く脈打つ鼓動を確かにはっきりと僕は読み取ったのだ。それは大いなるダイナミズムだったのか。生きることは激しさであるという桜の意思だったのか。ああ、生きることは尊いことなのだね。しかしそれをどうして僕らは失う?なぜ死がなければならない?疑問が疑問をよび、だからこの世はよくわからない。僕は桜の木に手で触れながら、もう片方の手を額に当てた。また逆戻りだ。生と死の対決。一体どちらがありうることか。この目まぐるしく存続する苦悩はなんのためにあるのか?またわけがわからなくなる。
「大丈夫?」
見ると同い年くらいの少女が下から僕の顔をのぞきこんでいた。じっと見つめるその子の瞳に、顔面蒼白の自分の姿が心もとなく映り込んでいた。
「どこか悪いの?」
なおも聞き込む彼女にようやく僕はあっと驚いて後ろにたじろいだ。するとすかさず彼女は飛び上がるようにして僕の肩を乱暴につかむ。痛い。
「ね、ね、体調悪いなら保健室まで送ってあげるよ。」
僕の顔面に唾を飛ばしながら彼女は叫んだ。どうしてここまで僕に構うのか不思議に思いながら、僕は彼女の髪についている花びらが激しい運動に合わせて落ちていくのを凝視していた。
「だ、大丈夫、大丈夫。全然気にしなくていいよ。」
僕は慌てて彼女にこう答えた。それでも心配そうに首をかしげながら彼女は僕の肩を先よりも強くつかんでいる。肩から首にかけて鋭い痛みが走った。
「あ、あの、全然大丈夫だから肩から手を離してもらってもいい?」
さすがに耐えられなくなって僕は半ば叫ぶようにして彼女にそういった。彼女は了解したらしくやっと手を離してくれたが、それでも僕に大声でまくしたてる。
「本当に大丈夫なの?頭が痛いの?それともおなか?」
「大丈夫、大丈夫だから。ちょっと考え事してただけだから。」
彼女があまりにもしつこかったので僕は少し面倒になりながらそう返答した。なんなのだろう、この子は。人間はこんなに初対面の人に馴れ馴れしくなれるのだろうか。それとも彼女は他人に気をかける極度のお人よしということなのだろうか。
「えー、ほんとにー?」
彼女はなんだかいたずらっぽい目で挑発的にこちらを見ていた。どうやら本気で心配しているわけではなく、ただ人を茶化して遊んでいるだけのようだ。ちょっと変わった子だな、あまり関わりたくはないタイプだ。僕はこれ以上彼女と接触していても面倒だと思い、朝の学活も始まることだしこの場から離れようと思った。
「えと、そしたら僕はこれで。」
あまり上手くない愛想笑いをして立ち去ろうとする僕を不満そうに口をとがらせて彼女が見つめている。そのとき僕は感じたことのない感覚で胸がいっぱいになっている自分を感じた。今まで気が付かなかったが彼女と少し距離を隔てることで、僕は彼女の全体像をようやく垣間見ることができた。正直に言おう、とびきりの美少女だ。
優しげな曲線を描く目の輪郭に沿ってきれいで長い眉毛が上を覆っている。肩まで届く長い黒髪が風でひらひらと流れていた。大きな二つの黒い瞳の間をすらりと突っ切る鼻は口の手前でかわいい広がりを見せていた。とがらせた唇のぷにぷにした柔らかさを見ているだけで確かめることができた。なだらかな肩の下にはまだ膨らみかけの胸、腰の悩ましげなくびれ、ひらひらと舞うスカート、下に行くほど細く艶やかにきらめくふともも、ふくらはぎ。
しかしそのことよりもいっそう僕を驚かせたのは、彼女のだらしない制服の着こなしだった。上のYシャツのボタンは半分ほど開けっ放しになっていて白い肩がほとんど丸見えになり、ブラジャーの紐が露わになっていた。スカートも下に下がりすぎてパンツの白が陽ざしに当たってきらめいていた。満開の桜の下でたたずむ彼女の髪の毛に、肩に、胸に桜の花びらが次から次へと落ちていく。なぜこの女はこんなにきれいなのに、こんなに常識がないのだろうか?僕はすっかり彼女の魅力と異常さに押されて絶句した。金縛りにかけられたように動かないでいる僕を彼女は不思議そうに見ていた。
「なあに、ジロジロ見て。もしかして顔になんかついてる?」
何かついているか確かめようとして整った顔を両方の手で触り続け、あわただしく口を引っ張ったり鼻の穴をふさいだりする彼女の動きとともに、制服の肩からのぞくブラの紐や腰からのぞく白いパンツを僕は扇情的にながめていた。このときすでに、僕は彼女の罪のないエロス、純白な汚れを感じていたのかもしれない。彼女自身はまったくもって純粋な意思のもとに行動しているのに、それらがひとたび僕の網膜に映し出されれば、僕の汚れた感性のせいでまったく猥褻で汚らしい化け物のようになってしまうのである。
僕はますます自分の中の悪魔が表に出そうな気がしていて、自分とそして彼女への恐怖のためにこのシーンを逃れようと焦った。僕はその場をあとにしようと踵を返した。
「待って、待って、いかないで。」
早足で行こうとする僕の片腕に彼女はその長い腕で抱き着いた。僕の片腕が彼女の強い力でけたたましい悲鳴を上げながら、しかしゆっくりと彼女の膨らみかけの胸に収まると今度は喜びの讃歌を謳っていた。瞬間恐ろしい興奮が僕の脳を襲った。僕は彼女を見た。正確には、彼女がだらしなく着ている制服のシャツからのぞく彼女の肉体の断片を見た。その引力の巨大さ。その美の偉大さ。今まさに僕は理性を失って、彼女に触れることで無邪気な敗北を遂げようとしていた。
いけない、いけないぞ、これはただのたんぱく質だ。いや脂肪か、いや糖か。ともかくもただの皮膚だ。こんな人生のたった一幕の己の快楽のために身をやつすべきではない。そういう形で自らの魂を終わりにしたくはない。耐えろ、耐え抜くんだ。
「ねえ、全然顔に何もついてないじゃん。どうしてあたしをじっと見つめたの。ね、どうして。どうしてどうしてどうしてどうぢて」
またも唾を飛ばしながら矢継ぎ早に言葉を発する彼女。僕はもうずいぶん疲れていた。そしてこれ以上、彼女と話すのも理性の限界がきているため危険だった。ふりほどこうかとも思った。しかし喜びに満ちている僕の右腕はそれを許してはくれなさそうだった。
「ねえ、ねえ。本当はあたしのこと好きなんでしょ。ね、ね。だからこんなに顔を真っ赤にしているんでしょ。ね、そうでしょ。じゃ、なんで遊んでくれないの、なんで?わたし寂しいのに。なんでどこかに行こうとするの、あたしの気持ちなんてどうでもいいの、そうなの?ね、ね、答えてよ!」
彼女に図星を突かれた上猛烈なアプローチをされて僕はたじろいだ。彼女は僕の腕を離さない。ぎゅうっと胸に押さえつけている。僕の脳は彼女の肉体の柔和さに屈してとろけてしまうようだった。まだわずかに残っている理性でとどまってはいたが、この世に法律がなかったら暴走していただろうと僕は考えた。
「うえええええええええええええええええええええええええええええええええん!!!なんで遊んでくれないの!!!遊んでよー遊んでよー!!!」
突然大地を揺るがすような大声とともに彼女は泣き出した。登校中の多くの生徒が大声で泣く彼女の存在に気付き、いぶかしげな表情をしている。そしてその中の一人である眼鏡の女の子があわただしく走って玄関に入っていくのがわかった。あの子は。そう、あの子は確かうちのクラスの委員長だ。僕はあまりの衝撃に冷や汗がぷつぷつと皮膚から吹き出してくるのを感じた。犯罪を犯しそうな鋭い目つきをしている男の子、そいつに寄り添う上着を半分脱いでいる女の子、そこから導き出される答えは、、、
まちがいなく強姦だ。