アルタイルの子供
十歳の夏でした。
夕日がすっかり西に沈んだ頃、私は二人の兄と一緒に両親からお小遣いをもらって出かけました。その日はお稲荷様を祀った神社で夏祭りが開かれていたのです。神社は私の家からしばらく歩いたところにあります。私はお気に入りの白いシュミゼットと青い半ズボンを着て、財布を入れた赤いポシェットを下げていました。普段見慣れた近所の夜道も、徐々に赤い提灯が見えてくるといつもと違う風景に見えました。
「七竈。はぐれるんじゃないぞ」
一番目の兄、柾はそう言ってずんずん人混みをかき分けて進んでいきました。
「七竈。僕と手を繋いでいようか」
二番目の兄、柊はそう言って私の右手を取り柾の背を追いました。この二人は私と五、六歳離れた年子で容姿は一卵性双生児のようによく似ていますが、それぞれ私への接し方や性格はかなり違います。
兄達は最初に参拝をするため真っ直ぐ神社を目指していましたが、私がある露店の前で立ち止まったので柊も足を止めました。それから数歩先で私達がついてきていないことに気づいた柾も舌打ちをして戻ってきました。
「おい。どうしたんだ」
「柾。七竈はこの店が気になるみたいだよ」
私の興味を引いたのは他の露店と違い、地面に直接紫の布を敷いた上に商品を並べているものでした。店主は中年の男でどこか怪しげな雰囲気を漂わせていました。何しろ夏であるにも関わらず、ほとんど露出のない真っ黒な洋服を着ていたのですから。頭には黒い帽子を深くかぶっています。その男は私と目が合うとにやりと笑いました。
「お嬢さん、お目が高いね。ここで売っているのはここ以外のどこにも売られていないものばかりだよ。ほら、これが一番の目玉商品だ」
そう言って店主が指差したのは、籐製の籠に入った五つの卵らしきものでした。私からすればただ真っ白で何の変哲もない鶏卵にしか見えないそれよりも、他の商品――コルクで栓をしたガラス壜に入ったきらきらと光る青い液体、小さな鉢植えから生えている鉄のような双葉など――の方がずっと魅力的に思えました。
「なんですか、これ」
「《アルタイルの子供》さ」
そう言われて、私は理科の授業で習った夏の大三角を思い出しました。白鳥座のデネブ、琴座のベガ、そして鷲座のアルタイルという一等星があったはずです。ちょうど今の時期に見えるはずだと思って顔を空に向けましたが、生憎曇天で星は出ていませんでした。
「ただの卵だと思ってるだろう。触ってごらん」
店主は《アルタイルの子供》を一つ手に取り、こちらに差し出しました。私はそっと手に取ってみて驚きました。それは鶏卵とは全く違い、つるつるとした手触りで人肌のような温度があったのです。両手で包んでみると、とくんとくん、と小さく脈打っているようにも感じられました。
「兄さんも持ってみて。この卵、何かが生きてる」
私が柾に《アルタイルの子供》を手渡してみると、彼も少し驚いたようで目を軽く見開きました。怪訝そうに眉を顰めた柾は無言のままそれを柊に渡します。
「ふうん。……これはどういう仕掛けかな」
そう呟き、柊は私の頭を優しく撫でると《アルタイルの子供》を店主に返しました。
「小さく脈打っているのが聞こえるでしょう? 予定ではもうすぐこの卵は全て孵りますよ。きっと夜中辺りにでも――」
「早く参拝に行くぞ」
店主の話が終わらないうちに、柾が私の手を掴んで立ち上がりました。私はまだゆっくり露店の商品を見たかったのですが、兄達はすぐにここから離れた方がいいと言いたげに早足で神社に向かっていきました。
「おい七竈。もうあの店には行くなよ。あんなもの、どうせくだらない玩具だ」
「籠に貼ってあった値札、見た? 普通の鶏卵何個分に相当するんだろうね」
二人はどうやらあの男が売っていたものを私に買わせたくないようでした。確かに値札に書かれていた数字はかなり高かったため、私も買う気はありませんでした。何しろ私の財布に入っているお小遣いで卵を五つ買ってしまえば、あとはもう小さな林檎飴一つすら買えなくなるような値段だったのです。
その後人混みを突き進んで参拝を済ませ、境内から出たところで私は兄達とはぐれてしまいました。けれどもそこで泣くほど幼くなかった私は一人で露店を巡ることにしました。金魚すくいやかき氷などに目を奪われましたが、結局私は何も買わないまま、柾とも柊とも会うことなく、気づけば怪しげな男が店を開いていたところまで戻っていました。何故か人々はあの露店を避けるように歩いています。気になった私が露店の前に出てみると、そこには一人の少女が蹲っていました。少女は私とさほど変わらない十歳前後くらいで、白い開襟シャツと茶色のキュロットスカート姿で、必死に何かを抱えているようでした。そして店主は、その少女の襟を掴んで怒鳴っているのです。
「おい、お前! いい加減返さねえか!」
店主の顔は、怒りで赤くなっています。どうやら少女が何か商品を盗んだために怒っているようでした。
「それは大事な目玉商品なんだぞ!」
その言葉通り、少女の両腕からちらりと見えたのは《アルタイルの子供》でした。しかも一つや二つではなく、五つもある籠ごと全部のようです。やがて店主は何も言わず蹲ったままの彼女に痺れを切らしたのか、背中や頭を大きな手で何度も打つようになりました。行き交う人々は彼らに視線を向けるものの、自分は関係ないと言わんばかりに足早に去っていくだけです。
「あ、あの」
私が駆け寄って声をかけると、さすがに店主は少女を打つ手を一旦止めて振り返りました。不機嫌そうな店主の顔は私を見るなり、ぱっと愛想のいい笑顔に変わりました。
「おや、先ほどのお嬢さん。すみませんね。今ちょっと取り込み中でして」
「私がお金を払います」
「えっ?」
驚いた顔をしている店主に、私はポシェットから財布を取り出しました。
「だから、その子を許してあげてください」
「本当にいいんですか?」
「はい」
しばらく店主はじっと私の顔を穴のあくほど見つめていました。やがて恭しく私からお金を受け取ると、少女に向かって吐き捨てました。
「とっとと消えな! 優しいお嬢さんに感謝しろよ」
少女は店主が離れていくとおもむろに立ち上がりました。まだ身体のどこかが痛むらしく、顔を歪めながらも服の汚れを払っています。薄暗い道の中で、一瞬少女の瞳がきらっと金色に光って見えた気がしました。私と目が合うと、彼女は近づいてきました。相変わらず腕の中に《アルタイルの子供》が入った籠を大事そうに抱えています。不思議そうな表情で小首を傾げ、さっきの店主と同じように私を見つめました。そのうち、ずっと黙っていることが気まずくなった私は自分から少女に話しかけました。
「ねえ。どこか怪我してない?」
「……うん」
「よかった。でも、どうしてそれを盗もうとしたの?」
私が訊ねると、少女は恨みがましそうな目を露天商の店主に向けます。そのとき店主はにこやかに客の相手をしているところでした。私達のことなど全く気にしていません。
「だって……先に盗んだのはあの男なのよ」
「そんな、嘘でしょう?」
「嘘なんかじゃないわ」
はっきりと強い口調で少女は言います。
「一週間前の朝、私が眠っているときにこの卵を盗んだのは間違いなくあの男だもの。あいつが売っている商品のほとんどは、こっそりとどこかから盗んだ誰かの大切なものよ。私はこの一週間色んな場所を探し回って、ようやく見つけることができた」
言いながら彼女は優しい手つきで卵を一つ一つ、順番に撫でました。
「じゃあ《アルタイルの子供》はきみにとって大切なものなんだね」
「そうよ。だからあなたにはとても感謝してる。本当にありがとう」
深く頭を下げられ、私は妙に照れ臭くなって笑いました。
「どういたしまして。でも、それだったら大人に頼めばよかったのに」
「私はこう見えて大人なのよ」
少女は不思議なことを言いましたが、このとき私はあまり深く考えずに「ふうん」と適当な相槌を打っていました。
「だったら、もう盗まれないようにしないとね」
「七竈!」
突然後ろから名前を呼ばれ、振り返るとそこには柾と柊が立っています。柾は私の頭を小突き、怒っているような疲れているような顔で怒鳴りました。
「はぐれるんじゃないって言ったのに、お前は何一人でほっつき歩いているんだ! せっかくの夏祭りで、俺達がどれほど時間を無駄にしたかわかっているのか?」
「……ごめんなさい」
私が俯くと、柊が私と柾の間に入りました。
「謝ったんだからもういいだろう、柾。あんまり大きな声を出すなよ」
「柊がいつも甘やかすから、その分俺が怒ってるんだぜ。じゃなきゃ均衡が取れない」
「本当にごめんなさい。境内から出たところで兄さん達がいないことに気づいて、一人で店を見ていたの。今度からは絶対にはぐれないよう気をつけるから」
私がそう言うと、柾は溜め息をつきました。まだ顔が怒っているようでしたが、兄達が店に立ち寄ることなく迷子になった私を探していたのだと思うと嬉しい気持ちでした。
「あ、そうだ」
ふと思い出して私は少女が立っていたところに目を向けました。しかし、そこにはもうあの少女の姿がありません。さっさと家に帰ったのかもしれないと思いましたが、柾と柊に紹介することができなかったのは残念でした。
「どうかしたのか?」
柊が誰もいない場所を見る私に訊ねます。
「さっきまでここに女の子がいたんだよ」
私が事情を説明すると柾は「せっかく貰った小遣いを無駄にして」と言って再び怒りましたが、柊は頭を撫でて褒めてくれました。
「七竈は優しいね。ほら、あっちの店で林檎飴を買ってあげる」
「騙されるほど優しいっていうのはどうなんだ」
柊と手を繋いで歩く私に柾はまだ不満そうでした。
家に帰ってから私はテラスで柊に買ってもらった林檎飴を舐めていましたが、ふとポシェットに財布以外の何かが入っていることに気づきました。取り出してみると、それはガラスのように透き通った青い鳥型の水笛でした。何も言わずに柾がこれを買って、気づかないうちに私のポシェットに忍ばせていたようです。私はその綺麗な水笛をテラスの台にそっと置きました。鳥の中に透ける夜を眺めながら、しばらく甘い林檎飴を舐めていました。
翌朝、早く目が覚めた私は急いで着替えました。テラスの台に水笛を置いたままにしていたことを思い出したのです。テラスに出てみると、水笛はちゃんと台の上にありました。朝日に照らされ、きらきらと輝いています。しかし、水笛とは別のものがその近くに落ちていました。
「なんだろう、これ」
近づいて手に取ってみたところ、それは鳥の羽根でした。烏とも鳩とも違う色で、この辺りでは見たことのない羽根が六枚落ちているのです。一枚は大きく、残りの五枚は小さい羽根でした。どれもきらきらと雲母を散らしているかのように見えるので、普通の鳥の羽根とは思えません。私がその六枚を手に取ったところ、下にはまだ別のものが隠されていました。いくつかの紙幣と硬貨です。金額を数えてみたところ、それは私が昨夜少女の代わりに《アルタイルの子供》を買ったときと同じものでした。
「兄さん。起きて、兄さん」
私は急いで柾と柊を起こし、二人に説明しながら鳥の羽根を渡しました。まだ眠たそうな柾がいつものようにラジオを流します。そして柊が本棚から鳥類図鑑を取り出し、テラスにあったものとよく似た羽根を探し当てました。
「それは鷲の羽根だね。鳥の王者。この大きな一枚以外はまだ幼鳥だろうな」
「ああ。でも、こんなにきらきらしたものはないはずだ。手で擦っても消えない」
「……《アルタイルの子供》」
私があの卵の商品名を呟くと、兄達は瞠目して口を噤みました。
ラジオの気象通報が静かな部屋に響いています。今日は全国的に見事な快晴、ここ一週間ほど曇りが続いた夜空にはっきりと夏の第三角が見えることでしょう。