貧乏男爵領の窮状
ポイタートから馬車で一日半。それから歩いて、また一日。ファンディ侯爵領を抜けると、途端に景色が目に見えて変わってきた。
それまでは平坦な土地にポツポツと数軒の家々が点在し、周囲に農地が広がっていたりするのが当たり前だった。だが、領地の外に出ると、まず足元の石畳の道路が途切れた。そして、小さな広場を挟んで、新たな道路が繋がっていた。だがそれは……樹木を切り払い、足元を踏み固め、不揃いな大きな石を雑に敷き詰めただけの代物だった。その左右には、密度の低い林が広がっている。今は季節柄、木々の葉が落ちているのもあって、やけに空の青い色が目についた。
エキセー地方東部の、辺境の村落に通じる道。その多くは、ファンディ侯の支援を受けながら、ようやく領土を維持しているに過ぎない。彼らにとっての敵は、どこかの王国などではない。迫りくる自然、広がる森林、そこに棲む野生動物だけでも、十分すぎる脅威なのだ。人の手が入らなくなれば、こういう田舎は、あっという間に元の自然の中に飲み込まれてしまう。
そんなド田舎に何の魅力があるのか? 答えはトーキアにある。或いは関門城の南だ。つまり、既存の社会から締め出される側、旨みのあるポジションにありつけない側が、機会を求めて外を目指す。誰も所有していない土地なら、好きなだけ自分のものにできるから。しかし、目指した先に楽園が広がっているとは限らない。むしろ困難が横たわっていることの方が、ずっと多いのではないか。
これから俺達が目指す先、フゥナ村に暮らす人々は、どちらかというと、賭けに負けた側といえるのかもしれない。今はファンディ侯の支援が命綱で、これが絶たれたら、領主はもとより、村人達の未来も閉ざされてしまう。
「ふむ」
タオフィが腰に手挟んだ刀に手を触れつつも、どこか気の抜けた顔で言った。
「割合、安全かもわかりませんぞ? 少なくとも、ゴブリンどもの足跡は見当たらぬ」
「気を抜くな」
マツツァが窘める。
「婿殿から話は聞いているだろう。そうではないのだ。ここにはゴブリンどもすら居着けなかった。そういうことではないか」
「差し当たってのことでしかござらんよ。しかし、逆に我らがその魔物とやらを討ったら、それはそれで、緑色の猿共が舞い戻ってくるやもしれぬ」
ゆっくり落ち葉を踏みしめながら、俺達は歩調を早めることもなく、周囲を警戒しながら進んでいた。
「この視界の良さですからね」
ビルムラールが言った。
「いずれにせよ、昼間からゴブリンが姿を見せることはないでしょう。彼らはそんなに愚かではないからです」
その通りだ。せっかく夜目が利くのに、白昼堂々、武装した人間の集団とか、村落とかを襲撃する意味がない。
彼らのやり取りを耳にしながら、ジュサは何も言わなかった。ただ、何とはなしに周囲を見渡して、難しい顔をするばかりだ。
「見えてきたよ」
緊張感の滲む声色で、ウィーがそう呟いた。道を曲がった向こうには、切り開かれた土地が広がっていた。
森の中の、これということもない集落。今は冬場ということもあって、黒々とした農地のほとんどに、作物は植えられていない。ただ、来年に備えて土地を耕す人ならいる。離れたところに、小さな人影が見えた。冬の冷たい空気もあってか、やけにひっそりとした印象だった。
特に探し回ることもなく、なだらかな勾配の向こうに、大きな館が聳えているのが見えた。一応、邸宅と呼べる程度の建物ではある。白と水色をベースにした、それは上品な三階建ての家。フォレス人貴族らしく、手前には広々とした庭もある。ただ、その様相は、常とは異なっていた。
元は鮮やかな赤い煉瓦の花壇。今では薄汚れたままになっている。そこに植えられているのは季節の草花ではなかった。なんとキャベツ、それもいじけたように小さく丸まったのが、点々としている。
庭の地面に鍬を振り下ろしていた壮年の男性が、その手を止めた。
「どなたですか」
品のよさを感じさせる口調。俺は既に察していたが、事情を知っていても、これには衝撃を受けることだろう。
「王の騎士にしてティンティナブリアの領主、ファルス・リンガです。あなたは、デュコン・アルグラ……男爵閣下でしょうか」
彼の方でも察するところがあったのだろう。一瞬、その顔に絶望を思わせる昏い色が浮かんだ。
「いかにも、そうです」
「お忙しいのは存じ上げておりますが、少しだけお時間をいただければと」
「構いません。奥へ」
青白い顔をしたデュコンの様子から、もしかすると誤解されているのかもしれないと気付いたが、その辺は後で解消すればいいと考えた。つまり彼は、俺がタンディラールの意を受けて、王都からやってきたのかもしれないと考えているのだ。
館の中は、荒れ果てていた。最後に清掃したのはいつだろうか。廊下は薄汚れていて、拭き掃除がされていないのが一目でわかる。しかも、古びた桶のようなものが、そこかしこに転がっている。そもそも部屋数がそれなりにあるのに、人気が無い。半開きの扉の向こう、垂れさがるカーテンは、埃に塗れていた。
「済みません、お客様を案内できるような部屋がろくにないのですが」
通された先は、一応の応接間だった。但し、ソファはボロボロだったし、ローテーブルも古めかしかった。脇に置かれた戸棚は埃をかぶっていて、しかも何も置かれていなかった。
「せいぜいお出しできるのは水だけですが」
「いえ、お構いなく」
茶葉なんて贅沢は、この館から失われて久しいことだろう。
それで、できることはもう何もないと悟った彼は、先に俺達に座るよう促してから、向かいに腰を下ろし、手を組んだ。
「覚悟はしておりました」
「デュコン様、私どもは王都から参ったのではございません」
この回答に、彼は目を見開いた。
「では」
「私達はファンディアから……ポイタートからやってきました」
デュコンは大きな溜息を吐き、緊張を解いた。
「済みません、てっきり」
「いえ、ご無理もないことです」
だが、彼は首を振った。
「見ての通りです。私は若気の至りですべてを失いました」
その眼からは、既に涙が溢れそうになっていた。
今からおよそ二十年ほど前のこと。貧しい辺境の男爵領出身のデュコンは、留学のために帝都に向かった。貴族の肩書こそあるものの、その実家における生活は、ちょっとした村の庄屋さんと大差ない。当然、帝都でも節約することを強いられた。
だが、彼は血気盛んな若者だった。そして、故郷のフゥナ村は、野生動物や魔物が時折現れて、人々を脅かすことがあった。まだ年若い彼も、剣を片手に戦ったことがあった。少しは腕に覚えがあったのだ。だから、帝都の四大迷宮の存在を知るや否や、そこで稼げばいいのだと考えた。
実際、その考えは悪くなかった。同世代の平均的な若者よりは経験豊富だったデュコンは、パウペータスやアエグロータスで奮闘する三年間を過ごした。あっという間に冒険者としての階級もアメジストまで昇格した。もちろん、そうした選択をしたのには、先々の進路についての考えもあった。
「私は……親孝行したかったのです。なのに、まったく逆の結果になってしまった」
彼は、肩を落としてそう呻いた。
男爵とはいっても、その領土はといえば、辺境の村一つだけ。その収入などたかが知れている。だが、アルグラ家は貴族になってしまった。貴族には、王家の招集に応じて、朝議に参加する義務がある。王都の貴族の壁の内側に、ワンルームマンションを借りる程度の負担にしても、こういう新興貴族にとっては大きな出費だった。
だが、それならよりよい解決方法がある。なんのことはない。嫡男が父の名代として王都に滞在する。そして、そこで仕官の口を探すのだ。理想は近衛兵団。地位は隊長くらいでも十分だ。そうすれば、自分の給金で実家の負担をなくすことができる。だから、デュコンの目標は、武官として採用されることだった。
誰が悪かったのでもない。しいて言えば、運命の巡り合わせが悪かった。ファンディ侯の後押しがなかったのでもないのだが、とにかく希望していた近衛兵団には、当時、空いている椅子がなかった。それで一度、デュコンは故郷に帰ることにした。しかし、このままでは、何のために三年間、留学したのかわからない。学園の授業でも、武官に必要とされるような講義ばかりを選んできたというのに。
そんな時、山菜を採りに森の奥に踏み込んだ村人が、とある知らせを持ち帰ったのだ。
「大昔の遺跡が見つかった、と」
古代の迷宮かもしれない。デュコンはピンときた。と同時に、これで武名を高めれば、今度こそ仕官に繋がるに違いないと考えた。それで、配下の兵士達を連れて、その遺跡の探索に向かった。
そして……連絡が途絶した。三日後、事態を重く見た彼の父は、早馬を飛ばしてファンディ侯の支援を求めた。当時、ポイタートにいた代官は領内の兵を集めたが、準備が整うまでには時間がかかる。それで、偶々領内にいた冒険者の集団に、先行して遭難者を救援するようにと依頼を出した。
「その話は存じ上げておりますが……では、この状況は」
「終わってなどいなかったのです」
ジュサ達のパーティーが犠牲を払いながらデュコンを救出し、いったんは事件が収束したかのように見えた。だが、口を開けた遺跡はそのままだった。無論、その後にはファンディ侯の兵がやってきて、魔物狩りもした。だが、結論から言うと、めぼしい獲物は見つけられなかったのだ。
どうやらその危険な怪物とやらは、大勢の兵士に恐れをなして逃げ去ったらしい……そう結論づけられた。だが、その一年後から、被害が報告されるようになった。
「民家で飼われていた農耕用の牛が引き裂かれて」
最初は、都度、冒険者を呼ぶなどして対処していた。だが、その頭数が少なければ返り討ちにされる。それならと寄親に頭を下げて兵士を派遣してもらうと、今度は雲隠れ。こうしてフゥニ男爵領は、一匹の魔物の振る舞いに翻弄されるようになってしまった。そして、自衛するだけの武力を、彼とその父は持ち合わせていなかった。
「このままでは、村人の生活も立ち行きません。領民を守れない貴族には、貴族の資格などありません。まず、税を免除しました。それでも、他に行くところのある人々は、この村を去っていきました」
居残ったのは、ここを出たところで、暮らしていけるあてのない人々だけだった。アルグラ家は、それまでの資産を切り売りしながら、王家の課す負担に耐えてきた。彼らと男爵家は、共に貧窮しながら、魔物の襲撃に怯えて、日々を過ごした。
「王家に頼るという選択肢はなかったのですか」
ビルムラールの問いに、デュコンは力なく首を振った。
「できることなら、とっくにやってます。でも、考えてみてください。自分の領土を守れずに王家の力を借りる……となれば、待っているのは、爵位の剥奪です。でも、この際、それは構わない。だけど、そんなことをしたらどうなるか……ファルス殿なら、おわかりでしょう」
俺は頷いた。
「トーキアと同じことに」
「そうです」
魔物の脅威を自力で退けられなかった。そのことが王家に知られればどうなるか。自分で自分の始末をつけられない貴族は、領地を没収されかねない。だが、今回に限っては、それ自体は些細なことでしかないだろう。問題は、ここが王家の直轄領になることだ。創立間もない貴族の領地には、経済的負担が大きくなりすぎないようにとの配慮がなされる。貴族には基本的に直接的な課税が発生しないのだが、王都の部屋の賃料など、実質的な税負担はある。これらについて、手加減された負担に応じた課税を領民に課すのが新興貴族だ。だが、王家の直轄領になってしまえば、その辺の話は全部吹っ飛んでしまう。経済的にまだ不安定な領民が、いきなり重い税金を引き受けなくてはいけなくなる。
だからこの件について、大っぴらに支援を求めるわけにはいかなかった。ファンディ侯としては、面倒この上なかったに違いない。といって、完全に見捨てるという選択肢もなかった。寄子を守り切れずに王家に丸投げしたとなれば、体面が傷つくからだ。こうして、この件は世間に広く知られることがないままに、年月が過ぎ去っていった。
魔物の襲撃は、断続的に行われた。見たところ、大きな鳥のような魔物が一体きり。だが、それを討伐することはついに叶わなかった。ファンディ侯に援軍を要求すると、魔物は一時的に姿を消すのだが、時間が経つと、また舞い戻ってくる。
この状況が続いたがゆえに、もはやフゥニ男爵領には、貴族らしい体面を保つ余裕もなくなった。タンディラール王即位から間もなく、彼の父は失意のうちに世を去り、デュコンがその地位を襲った。それから遅い結婚をしたが、その妻子は今、ポイタートでファンディ侯の庇護を受けて暮らしているありさまだ。
この状況が、二十年に渡ってズルズルと続いてきたのだ。
「お話はわかりました」
俺達は、ソファから立ち上がった。
「寝られる場所だけ、お借りします。できる限りのことをしてみましょう」




