遺跡の怪物の情報
レビューをまた1件いただきました。
ありがとうございます。
なお、今週は作者が自宅にいないため、感想などの確認が遅れます。
甲板に出ると、沁みこんでくるような冷たい微風が、そっと頬を撫でた。冬の空らしく、白い雲がぽつぽつと浮かんではいるものの、気持ちのいい快晴ということができるだろう。北からの穏やかな横風を受けて、船はまっすぐ西へと向かっている。
右手に目を向ければ、丸く迫り出す半島の南端が見える。一帯はちょっとした高台になっていて、簡単には這い上がれない絶壁が連なっているのだが、その狭間に一つだけ、黄土色の斜面が見える。そのすぐ下に鼠色の城塞が肩を寄せ合っていた。トーキアの軍港だ。実際に立ち寄ったことは一度もないのだが、あの坂道を駆け上がったところにあるのが領都だという。といっても、ルークやタマリアがいた頃のそこは、およそ市街地とも呼べない、平屋の掘立小屋が立ち並ぶばかりの貧しい集落だったそうだが。もちろん、今、目にしているような立派な軍港も、王家の直轄領になってから整備されたものなのだろう。
この半島を右手に見ながら北上すると、その付け根にファンディ侯爵領の玄関口にあたるハンマ港があるという。規模としては大したことないらしい。
それにしても……やっぱり外にいたのか。舳先近くに彼の背中を見かけたので、俺は歩み寄っていった。
「あんまり寒いところばっかりにいると、体調崩しますよ」
俺の声に、ジュサはのっそりと振り返った。
「空気が籠っていけねぇ」
「それでも、体を冷やすよりはましです」
彼は前に向き直り、吐き捨てるように言った。
「俺も歳を食ったってことか」
「そうですよ」
彼はわかりにくい人なのだ。一見すると、ジュサは俺という協力者に対して、礼儀を弁えないかのように振舞っている。だが、そういうことではないのだ。
「こんなになるまで……何を俺は、逃げ回っていたんだかな」
「そうではないです」
彼を蝕んでいるのは、老いだけではない。罪の意識と、それゆえの焦りがまずある。
あの日、迷宮に挑んで逃げ帰ったその時から、今に至るまでの人生は、すべてが「逃亡中」になってしまった。決して置き去りにしてはいけない人を後にして、今まで無意味に生き延びてしまった。
「今度こそ確実に勝つべく、再戦の準備を進めてきた。そうでしょう?」
「へっ」
だから、大きな船に乗せてもらって、暖かい船室に身を置き、普通の船旅では味わえないような上等な食事を与えられることが、申し訳なくてたまらない。こうであってはいけなかった。人生の幕引きに相応しく、彼はボロ船で海を渡り、葉の落ちた寂しい冬の道を歩き通して、一人で暗い迷宮の奥を目指さなくてはいけなかったのだ。
「奴がいてくれねぇと、全部空振りになっちまう」
「用心して損はないです。前にも言いましたが、これはただのついでですから」
「ついで、っつってもなぁ……」
彼が渋い顔をするのも無理はない。ジュサの新生パーティーのメンバーは、彼が独力で呼び集められるようなものではなかったから。
「あの、どっかの貴族さんとかまで連れていくってのは、どうも」
「貴族ではないですよ、正式には。ポロルカ王国の重臣の嫡男ではありますが」
「うへぇ」
もともと潰れた蛙みたいな顔をしていた彼の顔が、更にひしゃげた。
俺以外に、この船にはあと四人、この探索に手を貸すのが乗り込んでいる。ビルムラールとウィー、マツツァとタオフィだ。といっても、彼らは俺が呼び集めたわけではない。正確には、別の目的で声をかけた結果なのだが……
参加者の身分が、明らかにジュサより高い人ばかり。ウィーだけは、目に見える身分は庶民ということになっているが……気詰まりさせてしまっているかもしれない。
「それより、その魔物のことを詳しく知りたいです」
「ああ」
彼は頭をボリボリ掻きながら言った。
「前にも話した通り、多分、鳥みたいなやつだと思う」
「鳥、ですか」
「はっきり姿が見えたのは、ほんのちょっとの間なんだ。松明に照らされて、羽毛と……あとは、鳥の脚の、あの鉤爪が見えて……だが」
ジュサは溜息をつきながら首を振った。
「それ以上はなんともわかんねぇ。目敏く松明持ってるのから潰しにきやがって。だから、はっきり見えたのは下半身だけなんだ」
「すると、結構大きい?」
「ああ。多分、奴の胸くらいで、俺の頭より高いかもわかんねぇ」
巨大なダチョウのような魔物だろうか?
「通路の奥にいたあいつ……ヌラドゥシャ、っつうんだけどな……逃げて、いいから行って、って叫びやがって。でも、そんなわけにはいかねぇじゃねぇか。だけど、すぐ、声が途切れて。声だけじゃねぇ、あいつの物音がすぐ聞こえなくなっちまった」
「物音が? 悲鳴とか、倒れたりとか、そういうのも?」
「ああ。けど、昔のことだし、俺も必死すぎて、よく覚えてねぇのかもしれねぇが」
奇妙な話だ。強烈な一撃で殺されたというのなら、倒れたり呻いたり、視界が真っ暗に近くても、何か感じ取れるものがありそうなものなのだが。
「床に松明が転がってたもんだから、足元だけは見えてた。けど、逃げ出す前になんとかあいつを引きずっていこうとして……だけど、何にもなかったんだ」
「何も?」
「石の床と、石の壁と……なんか、そういう色しか見えなかった。人間の肌の色も、革の鎧も、血も、何も。それで、迷ってる場合じゃねぇと思って、そこから走って逃げたんだ」
俺でもあるまいし。まさか一撃で相手を消し去ったのでもなかろうに。いったい、どういう怪物なんだろうか?
「貴族のボンボンを地上に戻してから、急いで駆け戻ったさ。けど、そこでさっきまでなかったものが転がってた。あいつの胸当てだ。はっきりは見えてねぇんだが、血塗れだったように思う。それで、思わず立ち止まっちまった」
これ見よがしに置かれた仲間の装備。この罠に、ジュサは引っかかってしまった。
「けど、それが奴の狙いだったんだな。真っ暗で、何も見えねぇ中で、無我夢中で盾を掲げたんだ。その時に、引き裂かれて」
彼は視線を落として、自分の左腕をさすった。
「今でも指先に力が入らねぇ。どっかやられちまったんだろうな」
残念ながら、それ以上の詳しい情報はないらしい。
「後日になって、増援の兵が寄親か誰かから送られてきてな。俺達も助けに戻ったんだが、その時には魔物は見つからなくて……死体も回収したんだが、あいつのは見当たらなかった。だから、本当のところは、なんもわかっちゃいねぇんだ。やめるなら今のうち、文句はなんもねぇ」
「いえ」
俺は顎に手を置いて、少しだけ思考の淵に沈んだ。
これは偶然だろうか?
「興味があるんです。だから、行きますよ」
「興味、ねぇ」
そんな軽い話じゃない、と言いたいのだろう。だが、それはこちらの台詞だ。彼個人の復讐という、小さなお話で片付けられるようなものではないかもしれないのだから。
そこで、背後に物音が聞こえた。振り返ると、後ろ手で船室への扉を閉じるウィーがいた。俺が話し込んでいたから、わざわざ呼びにきたのだろう。
ジュサは表情を引き締めた。
「おい、ファルス」
「なんですか」
「……いいや、なんでもねぇ」
何を言おうとしたのかくらいは、見当がつく。
「よぉ、姉ちゃん、涼みにきたのか」
「涼しいじゃなくて、寒いっていうんだよ」
ウィーは呆れ顔でそう返事をした。
「ずーっと外にいるからってファルス君が呼びにいったのに、何話し込んでるのさ」
「あぁ、悪ぃ悪ぃ。外の風は冷てぇけどよ、気持ちいいもんだから、つい」
「危ないところに行くんだし、体調には気をつけないと」
「違ぇねぇ。じゃ、俺は先に部屋に戻って、もうひと眠りしてくらぁ。けど、たまにはゆっくり外の空気でも吸った方がいいもんだ。お前らはちょっとのんびりしろよ」
それだけ言うと、ジュサは一人で甲板を横切り、扉を開けて船室に戻った。
「ねぇ」
彼の姿が見えなくなると、ウィーが俺に尋ねた。
「あの、ジュサって人、ファルス君の昔の……収容所にいた頃の知り合いなんだよね?」
「ああ、そう言ったと思うけど」
「どうしてここまでしてあげるの? ボクはどうせ、もともと一緒にティンティナブリアまで行こうと思ってたから、ちょうどよかったんだけど」
俺は真顔になって黙り込んだが、すぐ言葉を探した。
「これも女神の思し召しかもしれない。そう思ったから」
「ふうん?」
ただの偶然であればいい。だが、もしそうでなかったとしたら?
「いや、マツツァとタオフィは、言っても聞かないだろうから、ウィーには伝えておく。もし本当に危なくなったら、ビルムラールさんだけは、安全なところまで連れ出してほしい」
「なにそれ」
再会したばかりの夜には、そこまで考えていなかった。だが、よく考えると奇妙な感じもする。
ジュサは、実は二年も前から帝都にいたらしい。ミルークの収容所が閉鎖されてから、彼は旅に出た。周囲の人には「腕の治療のために帝都に向かう」とは言ったのだが、最初に向かったのは、ティンティナブリア南部、エキセー地方の川沿いにある彼の生家だった。最後の戦いに挑む前に、できれば身内の顔を見ておきたかったのだ。
だが、オディウスの暴政もあって、とっくに一家は離散しており、身内の行方は知れなかった。とはいえ、仮に親族の家に帰ったところで彼の居場所があったかどうかは微妙なところではある。家を飛び出してから三十年、一度も実家に寄り付かなかったのだから。
ともあれ、根無し草である我が身を再確認してから、彼は王都に向かった。そこには仕事がいくらでもあったから。金のためではない。どれだけ自分が鈍っているか……現場で勘を取り戻したかったのだ。
タンディラール王の水道事業、そして中央森林開拓事業に伴って、人夫の需要も高かったが、それと同じくらい、その護衛の必要性があった。森林地帯には、しばしばゴブリンや劣化種のトロールが出没する。そこでジュサは思い知った。戦士として、冒険者としての自分は、とっくにピークを過ぎてしまったのだと。
自分自身に落胆した彼だったが、今度はもう、いつかのように酒に溺れることはなかった。彼の懐には、収容所からの退職金があったので、その気になれば、どこかでのんびりと引退生活を送ることもできた。だが、そういった余生に、彼は何の魅力も感じられなかった。
一切を確かめ、ついに決心を固めて、最後の一戦のために。彼は海を渡って帝都の土を踏んだ。そして、迷宮に日々挑んで、かつての腕前を取り戻そうと奮闘したのだ。
帝都は広い。そして、つい先日まで、俺はジュサと出会うこともなかった。なのに、彼が旅立とうとしたその直前になって、たまたま俺とギルに出会った。そんなこと、あるものだろうか?
もし、誰かの意図だとしたら、それはどんな狙いがあってのことなのか。ただ、考え過ぎなのかもしれないところが、なんとも悩ましい。夏の社交の際にも、もしかしたら使徒が動いたせいではないかと疑って、フシャーナの研究室に殴りこんだのだ。しかし、この二年というもの、不思議なほどおかしなことは起きていない。
俺の捨て身の脅迫に、本当に使徒が引き下がったのだとしたら。でも、そうだとすると、俺とジュサを引き合わせる動機のある誰かが、ちょっと思い当たらない。
「詳しくは話せないけど……前に旅をしていた時には、知り合いを使って、僕を罠に引き込もうとするのがいた。今回もそれだったら、と思うと」
「罠だってわかってていくの?」
「そう決まったわけじゃないよ。もう、そういう罠を仕掛けてくる相手は、いなくなったはずなんだ。でも、その可能性はある。だから、確かめないわけにはいかないんだ」
ウィーも表情を引き締めた。
「そういうことなら、尚更、覚悟を決めていかないとね」
「違う。逃げる勇気の方が大事だ。生き延びさえすれば、もう一度勝負を挑むこともできる。慎重である方がずっと大切だ」
さっき、ジュサが言いかけたこと。
俺にとってのウィーが、かつての恋人と同じように見えたのかもしれない。大切な人を軽率な判断で失う後悔は、彼には自分の命より大きなものになってしまった。
「まぁ、そうだね。いつもの仕事と何も変わらない。そう思っておく」
「滅多なことはないと思ってるけどね」
つくづく迂闊だった。
どうして同行者が膨れ上がってしまったのか。西行きの船を借りられることを、先にビルムラールに伝えてしまったからだ。彼も例の薬の件で、ワディラム王国まで行くつもりだったのだが、それならということで、途中まで同行しようということになった。別口で、ウィーからも一緒に船に乗りたいと言われ、これも了承した。
また、俺が領地に帰るのだから、郎党がついていくのも当たり前。こうして総勢五人。既に船に乗ることは決まっていた。
ジュサに出くわしたのは、その後だったのだ。
「さっき、船長さんがね」
「うん」
「明日には港に着くって」
果たして翌朝に、船は無事、目的地に到着した。
ハンマ港は、本当に小さな港だった。俺達が乗ってきたような、それなりのサイズの商船が二隻も入港したら、もう停泊できる場所がない。あとは小型の漁船がいくつか、頼りない木の桟橋の支柱に係留されているだけだった。
狭い砂浜の向こう側、左右は切り立った崖になっており、その天然の城壁の向こう側には、なんともあっさりした風景が広がっていた。左手には、漁村の住民の家が立ち並ぶばかり。どれも平屋で、幅広で中庭がありそうな構造になっている。干した魚の匂いが漂ってきた。右手には、一つだけ大きなお屋敷があって、その周囲は背丈より高い壁に覆われていた。あとは何もない。その間を、古びた石畳の道が分けていた。
ケアーナから軽く聞かされてはいる。ハンマ港は小さな港ではあるが、ファンディアの玄関口の一つで、領内に海産物を齎す重要な拠点でもある。だから、この右手の屋敷はただの邸宅ではなく、ここから領都までを繋ぐ直通道路を行き来する馬車の停留所としての機能がある。もちろん、自分達のような賓客にとっての宿舎としても用いられる。
特別なことは何もなかった。船長に案内されて、俺達は邸宅の中に部屋を与えられた。そして翌朝、上等な馬車でファンディアの領都ポイタートに向かって出発したのだ。




