突然の会見
視界がほとんど閉ざされた中、遠くから靴音が微かに、鈍く響いてくる。
テラスに面した大窓は、開け放してある。レースのカーテンが小さく揺れると、青みを帯びた星の光が、大理石の床を静かに照らした。頬を撫でる微風は、昼間のそれと違って心地よくはあったが、涼しいとまではいかない。けれども、もしここに気落ちした人がいるなら、その心を慰めるのに程よい温もりを帯びていると言えるだろう。
夜会が予定されていない日は、夜更かしなどしない。明日の計画に差し支えないよう、誰もが早めに就寝する。また、一部の浮ついた若者がしでかさないよう、対策もされているのだ。警備を厳重にするためという名目で定期的に召使が巡回して、部屋から出る者がいないかを確認しているのも、そのためだ。
とはいえ、ずっと缶詰でも気が塞ぐので、中日の幽冥魔境の見物、それに日程の終わりの方、ペレヴォスキ海運が花火を打ち上げる日には、大半の者達に自由行動を許すことになっている。大丈夫、自由に動けるのがたった一日では、余程の腕前でもなければ、良家の娘を我が物になどできやしない。
この静けさのなんと好ましいことか。こういうところは、俺もやはり普通の人間なのだ。
夜の美しさを堪能するのに、豪邸の一室など必要ない。あばら家の窓から見上げる夜空とどう違うというのか。それどころか、野山の中で、遮るもののない降るような星空を仰ぎ見る喜びときたら、今夜のこの場所とは比較にならない。
なんといっても今夜は、そもそも月が見えない。黒雲が分厚く空にかかっていて、微かな星明りがやっとここまで届くというありさまなのだ。
けれども、ここには、ここでしか味わえない安寧がある。人の手で整えられた、この上なく上質な空間。揺らめくカーテン、照り返す床、沈黙の裡に佇むテーブル……そしてこの、体が沈み込むようなソファ。何より静かで、しかもこの静寂を誰からも邪魔されないというのがいい。
とはいえ、いつまでも孤独を楽しんでいるわけにもいかない……
俺は低い声でそっと詠唱した。
《ニド、今、いいか》
《おっ? ファルスか? なんだこれ、頭ん中で考えれば伝わるのか?》
よかった。連絡がついた。
一発で繋がったところから判断すると、彼は今、繁華街にいるらしい。
《そうだ。今、どうしている? 公館の郎党達と一緒か? 視界を共有するぞ》
《えっ? ちょっ、待っ》
彼の返答を待つ前に、術を発動させてしまった。
途端にニドの両目が見ている世界が俺の意識に飛び込んでくる。
まず、目についたのが部屋の隅の燭台だった。剥き出しの蝋燭が、橙色の光で室内を照らしていた。狭苦しい部屋の中、古びた木の椅子やソファの上には、服が乱雑に脱ぎ散らかされている。
まるでウサギの巣穴のような細長い部屋の突き当たりには窓があり、そこにベッドの頭側が向けられている。そしてそのベッドの上には、あられもない格好の女が、薄い掛布団一枚で寝転がっている……
《わ、悪い!》
慌てて視界の共有を切った。
《ったく》
《まさか、そういうことをしているとは思わなかった。うちの公館の連中と険悪になってないか、心配だったんだ。今も見張られていたりはしないかって》
《まぁいい。ついさっき、終わらせたとこだしな》
最初の混乱が収まると、逆に俺はニドを問い詰めたくなった。
《けど、こんな時に何やってるんだ、お前は。ことによったら、パッシャの残党とかが、また何をしでかすかわからない状況なんだぞ》
《しょうがねぇだろ? これが俺の仕事なんだ。お前、覚えとけよ? 女っつうのは抱いてやんねぇと、勝手にむくれだす生きモンだからな》
気持ちとしては、なんだかモヤモヤしないでもないが、それより本題に入らないといけない。
《それで、そちらに進展は》
《おう、今度、ポトって奴と一緒に、女神教の総本部に忍び込むことになった》
《そんなことまでさせるつもりはなかったんだが》
《気分はまー、そう悪くはねぇぜ? 腐った権力者に一泡吹かせてやれるとなったらな? 女抱いて遊んで暮らして、物騒なこたぁ考えねぇようにしてたけどよ、やっぱ組織にいた頃の気持ちも、完全になくなっちゃいねぇってこった》
《でも、大丈夫なのか、それは》
《一応、姫様が陽動で正面から訪問するってことになってる。それも、総主教がいない日にな》
総主教が保養地に向かう、つまり警備のための人員の多くがそちらに振り向けられるタイミングを狙って、ヒジリが本部に残る人員に負担をかけさせた上で、ということなのだろう。
《ヒジリが決めたのか》
《まぁな。俺もやるなら思い切ってやっちまった方がいいとは言ったけどよ》
《万一しくじったら、連絡するから、おとなしく待っていてくれ。ポトもお前も、証拠を残さず脱獄させてやる。くれぐれも命を粗末にするな》
《そんなヘマなんざしねぇつもりだけどな、けど、頼むぜ》
それと、気がかりなことも伝えておかないといけない。
《こっちだが、今日、ペイン将軍が来た》
《誰だそれ》
《シモール=フォレスティア王国の将軍だ。今は帝都の西側の海を守る提督代理だそうだ》
《で、それがどうかしたのか》
デモ活動や暴動が、前代未聞ながら、この保養地にまで及ぶかもしれない。
《保養地にまで暴徒がやってくるかもしれないと注意された。そちらでは話題になっていないのか》
《それでか。いっつも繁華街巡回してる防衛隊の連中、今日は見かけなかったからなー》
《情報はまだない、と》
《ま、今日、明らかに様子がおかしかったし、明日以降、だんだんと伝わってくると思うぜ?》
すると、あれ以上の情報はなし、か。
《とにかく、わかった。総主教はこっちにも来るから、その時に、できそうであれば魔法で心の中を読み取ってみる》
《わかっちゃいるけど、おっかねぇことできるんだなぁ》
《滅多にやらない。やっていいことではないから。でも、今回は仕方ない》
容疑者を一人でも減らす。一人ずつ確かめる。
いったい誰が俺をつけ狙っているのか。どういう腹積もりで陰謀を仕掛けてきたのか。はっきりさせないと、どんなひどいことになるか、わかったものではないから。
《夜は忙しいんだろうが、また連絡させてもらう》
《おう、いいぞ。俺がどんな風に女を抱いてるか、じっくり見学しろよ》
《言ってろ。じゃあな。邪魔した》
魔術を通しての通話が終わると、また静寂が戻ってきた。けれども、その闇は、先ほどまでの穏やかなものとは違って見えた。
敵を見つけ出し、決着をつけない限り、安寧の夜は来ないのだ。
翌朝は、異例の訪問から始まった。早朝に使者が駆けつけてきたらしく、俺が目を覚ました時点で、既に城の中は騒然としていた。
身支度を整える間もなくメイドが慌ただしく扉をノックした。朝食前にグラーブの私室に呼び出されると、早速、状況の説明を求められた。
「お前が何かしたのか」
「何のことですか」
「ベルノスト」
俺の問いには答えず、グラーブは脇に立つ側近に振り返った。
「今日の予定は」
「はっ。統一世界婦人会の皆様方との会食が昼に。夜は西区商工会の主だった方々との会食となっております」
「すると朝しかない」
俺に振り返ると、ようやく事情を説明してくれた。
「アスガル・ネッキャメルがなるべく早めの訪問をと予定を捻じ込んできた。お前が何かしたのかと訊いている」
「いいえ」
「使者を待たせてある。なら、今朝、我々だけで対応する形で、茶会を開催することにする。それでよければと返事をする。お前も同席しろ」
ゆっくり朝食を味わう余裕もなく、食べて手を洗ったと思ったら、もう馬車が到着したという知らせを受け取った。
保養地同士、歩いて五分くらいで行き来できる距離ではあるが、もう少し猶予が欲しいところだった。
急ぎ向かって門が開くのを待った。なお、更なる来客その他問題が持ち上がった場合に備えて、リシュニアとアナーニアはこの場にはいない。
やってきたのは本当に少数で、御者を除くと二人しかいない。つまり、アスガルとビルムラールだ。どこでどう繋がったのかと思わないでもなかったが、どちらも俺のことを知っている人間同士、驚くほどのこともないのかもしれない。ただ、グラーブはビルムラールの顔など知らない。
「ようこそ、同窓の友よ。従者の方も、ここまでご苦労」
「殿下、あちらは従者ではございません」
慌てて俺が小声で言う。だが周囲は静まり返っており、フォローのしようがない。
「ポロルカ王の側近を務める魔術師の一族、緑の王衣のシェフリ家の、ビルムラール殿です」
グラーブの表情に一瞬、苦々しいものが混じる。粗相をしでかしたから、ではないだろう。どちらも俺の関係者だと察したからだ。
「知らぬこととはいえ失礼を」
「とんでもございません、殿下。急な訪問となりましたこと、ご無礼をお詫び申し上げます」
人数も少ないし、二階の広間も四階の中庭も、夜と昼の予定に割り当てられているので使えない。それで急遽、片付けられたグラーブ用の部屋の一角に向かうことになった。
ここも例によって、最初の部屋は土足で立ち入るようになっている。窓を背に、半円形にソファが並べられ、中央に丸いテーブルが置かれていた。右側の翼には、俺、ベルノストの順に、グラーブが中央付近に座り、その隣にアスガル、そしてビルムラールが落ち着いた。緊張した面持ちのメイド達は、人数分のお茶を供すると、そそくさといなくなってしまった。
「来客をもてなすには、やや手狭で申し訳ないのだが」
「いや、こじんまりとしていて、これはこれで過ごしやすい。我々サハリア人に、気取った歓待など必要ない」
三代に渡って対立してきた勢力同士、その次代のリーダー同士の会見だ。準備も根回しも何もなかったのだから、このぎこちなさは当然の結果だ。しかし、そうまでして出張ってきた。では、何かあったのか?
アスガルが俺のために動いていることは明らかだ。純粋な好意とか善意といったものではなく、どちらかといえば「点数稼ぎ」の面が大きいのだろうけれども。しかし昨夜、ニドと連絡を取り合った際には、何も目新しいことはなかったのだが。
「それで、今日はどのような」
「難しい話ではないし、ここは率直に言わせてもらおう。ここ数十年ほど、父の代に至るまで何かと歯車の噛み合わないことがあったが、以後は協調を旨としていきたい」
一瞬、真顔となったグラーブだが、すぐにまた曖昧な笑みを浮かべた。
「何のことやら……ただ、貴殿の父君はこの度、正式に六大国の秩序の中に加わることを選ばれた。嘉すべきことと思う」
その回答に、アスガルはあまりいい顔をしなかった。無理もない。東部サハリアに散々謀略を仕掛けてきたのは、そちら側ではないか。
とはいえ、グラーブが警戒するのも、わからなくはない。急に顔を出して、いきなり仲良くしようと言い出してきた。どういうつもりなのかと。
もちろん、友好的な関係を望んでいるのは嘘ではない。というより、アスガルがエスタ=フォレスティア王国に対して、過去の報復のために戦争を仕掛けるなど、不可能だしあり得ない。なぜなら、俺がいるからだ。形式上、フォレスティア王の臣下である俺が迎撃にまわったら、目も当てられないことになる。しかし、だからといってやられっぱなしになるのも困る。だったら、ファルスの前で徹底的に平和的な態度を見せつける。それでなお、グラーブが悪意を示せばどうなるか? 悪くしても最大の脅威が中立を選んでくれれば、それだけでも十分な意味がある。
ただ、それはそれとして、こんな強引な訪問を仕掛けたくらいなのだから、彼は本当は俺と話したいのだ。
「ここは平和を求める者しかおらぬはず」
「貴殿がそう言うのであれば、そうなのであろう」
「しかし、近頃は好ましくない噂も流れているようで」
グラーブは表情をやや強張らせて、先んじて言った。
「それなら報告は受けている。中身のない話だ。そもそも六大国はかの皇帝の遺命の下、世界の秩序の一部をなしている。それがどうして、一州だけを切り取る必要があるのだ」
「馬鹿げた話だと思うのだが、昨夜遅くにファルス殿の滞在するワノノマの旧公館近くに、不逞の輩が押し寄せて騒ぎ立てたそうで」
それを伝えに来たのか、と理解した。
しかし、そうなるとこの「不逞の輩」とは、どこの誰だろうか? 正義党に与する奴だから、という理由で嫌悪するのなら、立国党の末端の構成員、いわゆる市民権喪失者であろうと考えられる。
「噂にも尾鰭がついて、なんでもファルス殿が、例のトンチェン区の新競技場建設における大口の出資者の一人だとか」
「身に覚えがありません」
「あれが理由で正義党に怒りを燃やす連中も、かなりいるらしい」
家を追われたのだ。十分すぎる理由だ。そして彼らの不幸の黒幕がこの俺、成り上がり貴族のファルスというお話になっているわけか。
でも、俺が正義党と僅かなりとも関わりを持ったらしいと知っているのは、ごく一部の人間だけだ。ギルやウィーが俺に悪意ある行動をとるはずもないし、コーザがこの件を知ったのは、噂が流れ始めた後。もちろん、グラーブやアスガルにも、噂を流す理由はない。
そうなると、これができそうな人物は……普通に考えると、クレイン教授やその周辺に限られてくる。なのに、噂によって動いているのは立国党シンパ、か。
ただ、アスガルの行動は、たった一つの目的に基づいてのものではなかった。
「父も、これ以上、世界の西方で争いが巻き起こるのをよしとはしておらぬ。このような不和の種は摘み取ってしまいたいと考えている」
「ふむ、なるほど」
これにはグラーブも素直に頷いた。要はアスガルは、自分に対して「この件では潔白である」と伝えにきたのだと、そう理解したのだ。
そう言っておいて、実は裏で糸を引いていたとか? それはない。形式上とはいえ、宗主国であるポロルカ王国の要人を連れてきているからだ。
「いかがであろう、グラーブ殿」
「いかが、とは」
「帝都にはサハリア人の商人も数多い。噂の出処を探るのに、我々が動いてよろしいか。無論、これはただの善意からの行動であって、見返りを求めるものではない」
少し考えてから、グラーブは頷いた。
「もちろん、構わない。私としても、父上の臣下が中傷されるのを好ましくは思っていない」
「では、吉報をお待ちあれ」
こうしてグラーブとアスガルの短い会見は終わった。




